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日本人にわかるキリスト教を求めて

26May2012+011_convert_20120623181132_20120623222548.jpg井上洋治神父は、遠藤周作氏と共に、日本人の感性で正直に受けとめられるキリスト教を一生をかけて模索し、1986年「風の家」をはじめました。このサイトでは、「風の家」運動を引き継ぐ平田栄一が「求道俳句」ほか、日本人キリスト者の道を模索する試みを紹介していきます。お問い合わせ 略歴 著書

罪人となられたイエスと共に  

南無アッバの集い&平田講座NO.77より


前回まで、井上アッバ神学の「共にいます神」をめぐって、ブルトマンの非神話化、実存的解釈の重要性についてお話してきました。

今回は、「共にいます神」をめぐって、10月の風の家30周年集会で取り上げた「悲愛」の「悲しみ」ということから、井上アッバ神学+青野太潮神学の十字架の意味についてお話しします。

井上神父はキリスト教で言うアガペーを、日本語でよく使われる「愛」ではなくて、「悲愛」と訳しました。このなかの「悲」というのは、仏教の方で言う「慈悲」や「大悲」の「悲」から連想したといいます。そして大事なことは、これらの「悲」には、単に悲しむというのではなくて、「共に悲しむ」「共に苦しむ」というときの、「共に」ということが含まれているということです。

それでわたしが思い出すのは、これはいつかの井上神父の講座か講演でもお聞きしましたし、個人的にお話ししているときにもよくおっしゃっていましたが、「人生というのは悲しいものだよ」と言うんですね。わたしはこの言葉を最初に聞いたとき、「おやっ?!」というか、正直ちょっと嫌な感じがしたのです。というのは、二十代で教会の門をたたき、神父様にたどり着いたのですが、なぜそういう求道を始めたかといえば、あの頃はあの頃で抱えていたいろいろな問題があり、そうしたことがもたらす「悲しみ」から脱却したい、というのがあったからです。つまり悲しみの解決を願って、期待して神父様を訪ねたのですね。

それがどうでしょう。神父様からは、人生はそもそも悲しいものなのだ、ということを聞く。たしかにしみじみではありましたが、わたしはそういうことを複数回、直接お聞きしたのでした。

しかしその後井上神父について少しずつ学んでいくにつれ、このように「身もふたもない」と思った「悲しみ」の問題が、実は井上神父がいう「悲愛」(アガペー)ということと密接に結びついていることを知っていきました。

10月の集会でも、若松さんが「悲愛」について基調講演をしましたが、座談会では「必ずしも悲しみがいやされることが、救いではないのではないか」という意見も出ました。

わたしもこれをきっかけにして、その後もこの「悲しみ」について改めて考えてみました。するとまず浮かんだのが、青野太潮先生がおっしゃっているイエス様の逆説的な福音ということです。すなわち、『マタイ』の山上の、あるいは『ルカ』の平野の説教として伝わっているイエスの言葉、「悲しむ人々は、幸いである」(マタイ5・4)「貧しい人々は、幸いである」(ルカ6・20)という逆説の福音です。

これらは古来、いろいろな解釈がなされてきました。たとえば、ルカの「貧しい人々・・・」をマタイが「心の貧しい人々・・・」とし、日本の「共同訳」のようにこれを、「ただ神により頼む人々・・・」と解するなどといったようなことです。しかしどれも十分に説得的ではない。それは、これが「逆説」であり、逆説というのは理では説明できないからです。逆説が真理とわかるのは、経験的事実だからです。辞書で「逆説」を引くと、その例として「急がば回れ」というのがあげられています。これもあれこれ考えて真理だとわかったというより、たくさんの人が経験して、「ほんとうにそうだなあ」と納得したので、定着していったのだと思います。

その意味で、ベルクソンの影響を強く受けた井上神父が、頭でイエスの語った真理「について知る」だけではだめで、ほんとうに真理「を知る」ためには、体験しなければならず、そのために「新約聖書は実践指導書(ガイドブック)」である、といっていたことと通じます。わたしは、先ほどの座談会で出た「悲しみは必ずしも癒されることが救いではないのではないか」ということも、イエスのこの説教の逆説――「悲しむ人々は幸い」ということに通じるのではないかと思ったのです。

青野太潮先生の御説を参考にさせていただくなら、このイエスの福音の逆説は、十字架においてイエスご自身が身をもって証することになります。ご存知のように、マルコによればイエスは、十字架上で、あの有名な、不可解な、一見「神の子」らしくない、絶望の叫びをあげて息を引き取ります。

<わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか>(マルコ15・35)

これも古来様々に解釈されてきた箇所です。『ルカ』や『ヨハネ』は、この叫びを「神の子」らしい威厳とやさしさに満ちた辞世の言葉に換えた節もあります。史実は、単に大声を上げられただけかもしれません。井上神父は、死にゆく人の断末魔の意外な叫びだけをあまりにも重視するのは、イエスさまに失礼である、といった見解を持っていました。しかしわたしはこの箇所に関しては、青野先生の御説を支持しつつ、わたしの信じるところを述べたいと思います。

この箇所のショックな点は、まずイエスを「神の子」と告白する福音書にふさわしくないイエスの叫びを(おそらくあえて)載せていることです。すなわち、イエスが「アッバ」(パパ)と呼んで絶対の信頼を寄せていたはずの神に向かって、「自分は一生懸命アッバの御心にそって忠実に生きて来たではありませんか。それなのに最後の最後に、どうしてわたしを見捨てたのですか?!」と、アッバに嘆きとも、疑問とも、不信ともとれる抗議をしているということです。

そしてマルコは、この十字架の目撃者である異邦人のローマの「百人隊長」の口を通して「神の子」宣言をしているのです。つまり、アッバに不信の罪を犯した――自ら罪人となったイエスをこそ、「ほんとうに神の子なのだ」と宣言しているのが『マルコ』なのです。

青野氏は、信仰義認論は、パウロの十字架解釈だ、と言います。どういうことかというと、おそらくイエスに会った事もなく、また十字架の事件に立ち会ってもいなかったであろうパウロは回心前後、イエスの十字架刑死の意味について、一生懸命考え、黙想したのだと思います。

そうして得た結論は、イエスの「十字架」は、直接的にはイエスの生き方の「愚かさ」や「弱さ」や「つまずき」や「(律法による)呪い」を意味するが、しかしそのようにして生きて死んでいったイエスをこそ、神アッバは「よし!」とし、「しかり」を与えているのだということ。すなわち、十字架は同時に真の「賢さ」「強さ」「救い」「祝福」をも、逆説的に意味しているということ。
ローマ書四章五節では、「不信心な者」をそのまま無条件無制限に義とする神アッバが語られています。

<不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。>

ここには、イエスの十字架や死を罪の贖いと信じれば救われる、ということは一切言われていません。「不信心な者を」そのまま「義」とする――「よし」とする――神が受け入れてくださる、ということが大原則になっている。そのうえで、何にも「働きがなくても」そういう神さまを「信じる」=信頼するとき、その信頼がさらに「義と認められる」と言っているのです。例にあげられるアブラハムやダビデの例も、贖いを通しての義ということではまったく言われていない。

そしてイエスは、上のような逆説的福音を説きつつ、ご自身が十字架において絶望の叫びを上げ、「不信心な者」「つまずいた者」「罪人」となられた。「そのようにして」死んだイエスを神アッバは、太古の昔からの御心――無条件無制限のゆるし原則のとおり、「よし!」「しかり」「義」とし、復活させたのです。青野氏は言います。

<すなわち、決定的な救いの出来事としてのキリストの十字架の死は、まさに「弱さ」「愚かさ」以外の何ものでもないのであり、しかもそれこそが、弱く罪深く、そして神なき者が、ただ信仰によってのみ義とされるというパウロの教えに表わされているように、真の救いなのだということである。>(『「十字架の神学」の成立』一八頁、傍点原文)

あるいは、「荒井献氏への批判的対論」のなかでは、次のように述べています。

<いずれにしても、ここ(ローマ八・三b、引用者注)でイエスが「罪」あるいは「罪の肉と同じさま」における存在、すなわち「罪人」と考えられているということの中には、あの十字架の最期において神を疑い、彼自身の上に生起した不条理ゆえに神に抗議するという意味での「罪人」イエスという捉え方の反映はないであろうか。つまりイエスの十字架上の絶叫を凝視することに通ずる捉え方がないであろうか。しかし神は、まさにこの「罪人」イエスをこそ、救済をもたらす者とされたのだ、というのが、パウロの逆説なのではないのか。>(同書、二七三頁)

教会には一般的に、

<この大祭司(イエス)は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。>(ヘブル四・一五)

と伝えられています。イエスの生涯には徹頭徹尾「罪」がなかった、それ以外はわたしたちと同じだった、そのような「神の子」であるからわたしたちを救ってくださるのだ、というのが正式な教会の教えでしょう。

しかし、右に引用したように、イエスを「罪深く、そして神なき者」すなわち「罪人」イエスとして捉えるというのはタブーなのでしょうか? 異端でしょうか? 人間イエスの意図していなかった所で、「なんで私がこんな目に遭わなければならないのですか」と叫んで、嘆いて、自ら「不信心な者」となられたイエス。その「罪人」の頭をこそ、アッバは「無条件・無制限にゆるし」、「よし!」として復活させた。罪の極みまでわたしたちと「同様に」なり、今も「十字架に架けられ給いしままに」「うめき」つつ「共に」いてくださるイエス。

こうしたイエスこそ悲愛の頂点――十字架につけられ、わたしたちを救ってくださる、と言う信仰告白につながるのではないでしょうか。それはアッバにとって、イエスという「作品」における御業の完成です。

わたしたちも、アッバが大事にしてくださった「作品」――人生の完成をめざして、このようなイエスと共に、イエスにならい――弱さと罪深さのなかで、「うめき」つつも「南無アッバ」「南無アッバ」と唱えつづけること、それこそがアッバがわたしたちに望んでおられる生き方なのではないでしょうか。(2016-11-26)

category: 南無アッバの集い&四谷講座

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青野太潮・新刊  

十字架の神学を精緻に解き明かす青野先生の新刊です。

ぜひ、ご一読ください。

category: 青野太潮『どう読むか、聖書』ノート

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求道俳句誌「余白の風」第223号 2016年11月発行  

俳句や短歌をつくりながら、「南無アッバ」の心を養います。

会員作品とエッセイ(*選評)

大阪・島一木
教会は闇なり花火揚がる音
教会の塔に渦巻く星月夜
霊名はアウグスティヌス神父祝ふ
聖変化 台風の眼が通過する
十字架を胸に笑顔は爽やかに

*④⑤救いは必ずしも、直接的な幸福のなかにあるわけではない。私たちは今救われたい、この現状をなんとかしてもらいたい、と思うのだが、アッバの御考えは測り知れない。

昭島・新堀邦司
神木の香椎や今も青葉して
夏空や旅に出しまま寅次郎
遺されし絵に黙祷す敗戦日
みほとけは涼しくおはす浮御堂
別れ星遠くへ行つてしまひけり

*②米田彰男著『寅さんとイエス』という本が話題になっていますが、井上神父もすでに七九年、山田洋次氏との対談で、寅さんの魅力を語りながら、「あの笑いの陰にある哀しみにぼくはひかれた」(『ざっくばらん神父と13人』主婦の友社)と述べています。

高知・赤松久子
腰痛と知恵くらべかな冬の日々
南無アッバ念じ居るらしかまど猫
み手の上やんちゃに生きて南無アッバ
トマスにも恵みあふるるイースター

*②③「猫」に教えられる南無アッバ。神の国は「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」(マタイ二〇・一六)どころか、人間が後になり、動物が先になるかも。

八王子・F井上
南無アッバ人口膝の散歩道
もの忘れ多々ゆるされよ南無アッバ
好き嫌いすべてゆだねる南無アッバ
生きるとは老いとは烏瓜まぶし
秋草の小道故人の笑みに会う

*①②あちこちが不自由になる④老いの中で、生きるとは何か考えざるをえない。各自が生の意味を考えなさい、という宿題を解くべく老いが与えられているのかもしれない。③作者が見出した答えとも。

余生  練馬・魚住るみ子
風立ちて名知らぬま円ろ葉そよぎ居り更けゆく秋のあし音としも
南無アッバ手ざはり骨ほね痩身の卒寿の我やともあれ健やか
読み聞かせむ絵本探しぬ南無アッバ曾孫の顔を思ひ浮かべつつ
『風の道』
少年の涼しき瞳吊革へ手をのべゐたり席を譲りて

*①②一年の秋、人生の秋。③④何歳になっても、その歳はだれもが初めて生きる歳。作者は短歌のなかに、その新鮮さと人のやさしさを見出している。

愛と光の家での黙想会  名古屋・片岡惇子
台風に向ひ旅発つ縁の糸
沈黙こそ主との語らひ台風過ぐ
秋冷や雨滴の打ちし黙の時
黙想会頬に秋蚊の目覚めよと
コスモスの一色になり御堂飾る
秋冷や今ある時の息を吸ふ

*①「縁」、時にアッバのはからいとしか思えない瞬間がある。②③④現代人に決定的に不足しているのが「沈黙」かと。饒舌すぎるネット、スマホかな。

豊田・佐藤淡丘
喜びの言葉は要らぬ落葉中
しろがね白銀の尾花ちぎりて土手下る
小鳥来る神の一葉落しけり
芋名月水に映りて揺らぎをり
鵙高音一瞬にして夜が明ける

今から十二年前、ひょんなことで「マザー・テレサ日々のことば」という本をもらいました。この中から「つつましい仕事から離れてはいけません」と教えられ、小学校の放課後の学童保育に、紙芝居を月に一度ですが、やらせてもらっています。マザーが今も見ているようでやめられません。南無アッバ

*あのマザーテレサにも大いなる信仰の危機がありました。「過去十一年をとおして初めて、わたしは暗闇を愛するようになりました。今わたしは闇が、イエスの地上における闇と痛みの非常に小さな部分であることを信じるからです。」(『来て、私の光になりなさい!』)

東京・中庭 栞
ほし草や眩しき限り陽のたぎる
炎天の丘に潮騒ぬける道
南仏に国境のなきせみしぐれ

*③まったくです。人為的な区別、差別であらゆることに色分け――分別をつけているのは人間だけ。

日立・武田孝一
最早死を口にせずなりし生徒一人帰寮せしめて長き夜の祈り
みどり児を主に捧げ来て浅夏の夜更けに妻と感謝の祈りす
煙突なきアパートの聖夜寝入りたる吾子のため赤き靴下吊るしやる
亡き子ある日籬より入り来る幻覚に生き来しという老婆の戦後
妻の弾く復活節賛歌に響合いてヒアシンスの花穂静かに揺るる

*初めてのご投稿ありがとうございます。どの歌にも信仰の姿勢、ご性格がにじみ出ています。「風の家」の活動にもご理解くださり、感謝です。

蓮田・平田栄一
弱さこそ神の強さや夏の川
どこまでもゆるす神なり五月尽

平田講座要約(第四三~四四回)2013-12/2014-01

(テキスト『心の琴線に触れるイエス』聖母文庫)
(前号からの続き)この点――十字架において、神の本質から「痛み」を切り離し、イエスに限定しているという点――は「神中心主義」のパウロに近い――神が主、イエスが従――といえるかと思います。

第二は、井上神学のスタートが人間の罪一般(北森)ではなくて、歴史的具体的な「弟子の裏切り(の罪)」だということも、見逃せません。ここは「自分がイエスを傷つけたという実感がない」(『パウロを語る』)という発言と結びつきます。
この「父なる神」と「イエス」をどのようにくっつけ、切り離すかは、イエスの神性人性をどう捉えるか、という重要な、また多様な問題を含んでいます。キリスト教の歴史そのものといってもいいかもしれません。

アタナシウス派を正統とし、アリウス派を異端とした三二五年のニケーア公会議、ネストリウス派を異端とした四三一年のエフェソス公会議、単性説を異端とした四五一年のカルケドン公会議など、さまざまな論争が行われますが、結局、これは人間の歴史から見れば、わたしたちの正直な欲求が、キリストこそ神と人の橋渡し役(仲介者)となってもらいたい、ということの現れであり、そうであるなら、どうしても両性が同時に必要だったという証とも言えましょう。

〇第四四回
テキストより、p・52
<‥‥だから私には、十字架のイエスを本当に包み込んでいる更に大きな、何か手みたいなものを感じさせる‥‥。
‥‥確かに、十字架の血というのは、自分を裏切ってゆく人間を、やっぱり包み込むところに、流れるものなんだろうというふうな‥‥。そういうことはね、『愛を見つける』あたりでは、私も何となく感じたのです。だけど更にそれを、なんかね、こう、あの仏像に見られるような柔らかさというか、なんかこう最後に包んでないとね、ちょっとこう苦しくなっちゃうというか‥‥。>

井上神父は、裏切りをゆるす(包む)所に流れる十字架の血をイエスに限定しています。父なる神はその「痛むイエス」をさらに包んでいます。痛むイエスの十字架を同心円的に広げていくと、だんだん父なる神の方ではやさしさに包まれていく――癒やされていく、というイメージでしょうか。


南無アッバの集い&平田講座(毎月)=於:四谷ニコラバレ、日時11/26(土)13時半、12/24(土)同、1/28(土)同

平田栄一・新刊『「南無アッバ」への道』定価800円+税。聖母文庫☎095・824・2080。サイン本ご希望の方は平田までご連絡ください。〒込千円

―――――「余白の風」入会案内―――――
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category: 求道詩歌誌「余白の風」

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連載エッセイ「井上洋治神父の言葉に出会う」(41)  

井上神父が創刊した「風」誌に毎号連載しています。
第101号、2016年秋
(41)第4部アンソロジー井上神父の言葉 4.pdf
目次
○アッバ神学とパウロ主義
○青野太潮神学との出会い
○母性的福音理解
○イエスの十字架と死
○イエスの「ゆるし」宣言と贖罪死
○日本人の感性

category: 連載「井上神父の言葉に出会う」

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風の家30周年講演会 10月9日(日)案内  

http://www.christiantoday.co.jp/articles/22219/20161006/kazenoie-30-wakamatsu-eisuke-inoue-yoji-endo-shusaku.htm
風の家30周年講演会.pdf
どなたでもおいでください。

category: ○お知らせ・報告

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最後の南無アッバミサ

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