「南無アッバ」を生きる ホーム »求道詩歌誌「余白の風」
カテゴリー「求道詩歌誌「余白の風」」の記事一覧

日本人にわかるキリスト教を求めて

26May2012+011_convert_20120623181132_20120623222548.jpg井上洋治神父は、遠藤周作氏と共に、日本人の感性で正直に受けとめられるキリスト教を一生をかけて模索し、1986年「風の家」をはじめました。このサイトでは、「風の家」運動を引き継ぐ平田栄一が「求道俳句」ほか、日本人キリスト者の道を模索する試みを紹介していきます。お問い合わせ 略歴 著書

求道俳句誌「余白の風」第224号 2017年1月発行   

俳句や短歌をつくりながら、「南無アッバ」の心を養います。


会員作品とエッセイ(*選評)

昭島・新堀邦司
日本海の秋は空より始まれり
高原に色なき風の吹く日かな
秋天は聖母マリアの藍ふかし
金秋の祝杯あげよボブ・ディラン
神在の出雲に暮し恙無し

*②「色なき風」――「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。」(ヨハネ三・八)信仰とは、自分の理解をこえていても、信頼して委ねること。

高知・赤松久子
ふとん干すヘルパーの背に春の風
老いの手にお札(ふだ)を握る四旬節
土佐の夏海(うみ)おみ風さまの歌うたふ
観じ得ず信ずるのみの我が身かな
髪の毛の数まで知られ南無アッバ

*不安はあっても、②「お札を握」って、④ただ「信ずるのみ」。しかし、⑤「髪の毛」一本まで知られている身は、アッバにお任せすればいい。老いの見事な境地です。

八王子・F・井上
ゆるされてゆるす賜 南無アッバ
師の言葉ふとよみがえる散歩道
南無アッバ老いの荷物を受け止めて
振り向けば軍靴は遠く兄二十歳
気が付けば姉妹そろって山姥に

*①マタイ一八・三三。私たちは無条件無制限にアッバから「ゆるされて」いるという驚くべき事実!だからこそ他者を「ゆるす」ことができる。どちらも、まさに「賜」です。

練馬・魚住るみ子
小春日や卒寿四人のクラス会
身に余る賞気恥づかし秋うらら
日本YWCAよりシニアの為の賞を受く
スーパームーン今し昇るや冬の宵
自らの命を絶ちし愛し子の悌を抱き旅立てり君
   『風の道』
短かる命をわが子に賜ひたる御摂理を尋めむ母の胸はも

*「Wonderful Women賞」の受賞おめでとうございます。長年の音訳奉仕や熱心な作歌ゆえの結果と感服いたしております。今後ともご活躍をお祈りいたします。

 名古屋・片岡惇子
(フィリピン サンマテオにて)
主に押され南の島に発つ冬の日
冬の日や病みてなお道探しをり
路上の子の闇を見つめる南の冬
汗臭き子ら何思ふ目の光
目であいさつ異国の地でのクリスマス
冬の雲我が生き方の計り得ず

*②⑥わたしたちの求道は一生続くのだと思います。この頃昔のノートなど整理していて、今までばらばらだと思っていたことが、「求道」というキーワードで括れるように思い、何か合点できたような気になりました。

豊田・佐藤淡丘
真暗闇なほも一群れ鴨の声
寒北斗ひときわ長く尾を垂れる
弦月に指差し入れて剪られたる
池めぐり寒満月と睦みあふ
衛星の無音に流る夜寒かな

早朝、会神の丘に登るため、ちょっとの間切り通しを抜ける必要がある。冬至十日後先と言って、この時期一瞬ここで真っ暗闇に突入する。この闇の空間がとても神秘的であると同時に、この体感をとても貴いものとして、これを浴び独り悦に入っている。アッバ、アッバ、南無アッバ

*①神は神聖な「無」であり、人間にとっては直接の認識対象にはなりませんから、「闇」であるともいいます。その「真暗闇」であるアッバに、南無の心で人生をゆだねる、「会神の丘」への道はそのまま「南無アッバ」の祈りです。

大阪・島一木
教会といふ薄明に月を置く
讃美する虫か聖堂隅の闇
風そよぎ金木犀に聖歌湧く
聖歌隊解き放たれて秋深し
十字架の空より秋の風は吹く

*⑤〈自らの力に依り頼む「強い」生き方ではなく、イエスとともに、そしてこの世の苦難を強いられている人々とともに、「十字架」を担い続ける「弱い」生き方を選び取っていくこと。そこにこそ、真の「強さ」が、そして「救い」が逆説的に存在する〉(青野太潮『パウロ 十字架の使徒』(岩波新書)まえがき)

日立・武田孝一
天父地上を笑みて見賜うや秋日和
ヘブンリーブルー咲き切りて秋逝かんとす
南無アッバの友らの作読む秋日暖し
中天に百舌の声あり秋逝かす
友らの面偲び読み進むアッバの句

*③⑤井上神父がエレミアスからヒントを得た「アッバ」、そして晩年の境地、祈りとなった「南無アッバ」。著作選集第二弾も刊行開始され、少しずつ広まっているように思います。

蓮田・平田栄一
元旦やアバと呼ぶ霊賜りぬ
人生はマラソンなりや小正月
正月の上座に座る父はなし

あけましておめでとうございます。失礼ながら賀状にかえて、この場で新年のご挨拶とさせていただきます。
今年も共に、作歌作句をとおして、アッバの御心を求めて参りましょう。


平田講座要約(第四五回)2014-2-22

(テキスト『心の琴線に触れるイエス』聖母文庫)
前回は、新年に青野先生からいただいたメールを紹介し、先生ご自身がお認めくださったとおり、青野神学やパウロの信仰義認論も、井上神父や遠藤さんと同様、基本的に母性原理にもとづくものであることを確認しました。

その上で、北森神学と井上神学の対比という課題に戻って、「十字架のイエスの痛み」をめぐり、御子イエスと御父アッバとの関係を考えてみたいと思います。

p・52「・・・だから私には~」(前号参照)の補足をします。

青野さんのいうパウロ神学から見ると、「イエスの十字架」にまず「弱さ」や「つまずき」を見るという視点は、井上神父にも北森神学にもないように思います。つまり、「弟子の裏切り」に対する「イエスの痛み」や、あるいは「私たちの罪」に対する「イエスの痛み」というとき、相手に傷つけられる「神の子」イエスという視点が強調され、「人間」イエスご自身の弱さやつまずきは強調されていないように思うのです。

わかりやすくたとえるなら、井上神父や北森氏のイエス観の方が、この点ではイエスの神(の子)性が全面に出ており、青野氏は人間性が強調――あえていえば「人間くさい」ように思います。こうした点にも、これまで青野神学が一般の教会に受け入れられてこなかった理由があるのかもしれません。

もっといえば、井上神学は、イエスの「やさしさ」を強調しているけれども、青野神学のようなイエスの「弱さ」は強調していないということです。その点では、遠藤さんの「無力なイエス」という感覚のほうが青野さんに近いかもしれません。

p・53
「・・・・私の場合もイエスの痛みというのはもちろんあります。けれどもその痛みというのが、御父の神様までいってしまうとね、なんかこうきついって言うか、息が切れるって言うかな‥‥。

やはりパウロってのは激しいでしょう。北森先生の場合はパウロが中心になっていますからね、私などには何かもう少しこう‥‥そこまで頑張らなくってもね。キリストが秋風に、こうなびいているような感じのところで何とかならないかなと、そういう感じで(笑)。なんていうかな、重すぎるっていうか。

‥‥私のイエスはやさしいのです。イエスのまなざしはやさしいわけですよ。」
(『日本カトリシズムと文学』一九五~二〇一頁抜粋)


南無アッバの集い&平田講座(毎月)=於:四谷ニコラバレ、日時1/28(土)13時半、2/25(土)同、3/25(土)同


平田栄一・新刊『「南無アッバ」への道』
定価800円+税。
聖母文庫☎095・824・2080。
サイン本ご希望の方は平田までご連絡ください。〒込千円


―――――「余白の風」入会案内―――――
どなたでも参加できます。購読のみも可
*年六回奇数月発行
*年会費千円(送料共)
*採否主宰一任
*締切=偶数月二十日
*投稿・連絡先:メール
*本ブログ「南無アッバを生きる」に掲載します。

category: 求道詩歌誌「余白の風」

tb: 0   cm: 0

求道俳句誌「余白の風」第223号 2016年11月発行  

俳句や短歌をつくりながら、「南無アッバ」の心を養います。

会員作品とエッセイ(*選評)

大阪・島一木
教会は闇なり花火揚がる音
教会の塔に渦巻く星月夜
霊名はアウグスティヌス神父祝ふ
聖変化 台風の眼が通過する
十字架を胸に笑顔は爽やかに

*④⑤救いは必ずしも、直接的な幸福のなかにあるわけではない。私たちは今救われたい、この現状をなんとかしてもらいたい、と思うのだが、アッバの御考えは測り知れない。

昭島・新堀邦司
神木の香椎や今も青葉して
夏空や旅に出しまま寅次郎
遺されし絵に黙祷す敗戦日
みほとけは涼しくおはす浮御堂
別れ星遠くへ行つてしまひけり

*②米田彰男著『寅さんとイエス』という本が話題になっていますが、井上神父もすでに七九年、山田洋次氏との対談で、寅さんの魅力を語りながら、「あの笑いの陰にある哀しみにぼくはひかれた」(『ざっくばらん神父と13人』主婦の友社)と述べています。

高知・赤松久子
腰痛と知恵くらべかな冬の日々
南無アッバ念じ居るらしかまど猫
み手の上やんちゃに生きて南無アッバ
トマスにも恵みあふるるイースター

*②③「猫」に教えられる南無アッバ。神の国は「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」(マタイ二〇・一六)どころか、人間が後になり、動物が先になるかも。

八王子・F井上
南無アッバ人口膝の散歩道
もの忘れ多々ゆるされよ南無アッバ
好き嫌いすべてゆだねる南無アッバ
生きるとは老いとは烏瓜まぶし
秋草の小道故人の笑みに会う

*①②あちこちが不自由になる④老いの中で、生きるとは何か考えざるをえない。各自が生の意味を考えなさい、という宿題を解くべく老いが与えられているのかもしれない。③作者が見出した答えとも。

余生  練馬・魚住るみ子
風立ちて名知らぬま円ろ葉そよぎ居り更けゆく秋のあし音としも
南無アッバ手ざはり骨ほね痩身の卒寿の我やともあれ健やか
読み聞かせむ絵本探しぬ南無アッバ曾孫の顔を思ひ浮かべつつ
『風の道』
少年の涼しき瞳吊革へ手をのべゐたり席を譲りて

*①②一年の秋、人生の秋。③④何歳になっても、その歳はだれもが初めて生きる歳。作者は短歌のなかに、その新鮮さと人のやさしさを見出している。

愛と光の家での黙想会  名古屋・片岡惇子
台風に向ひ旅発つ縁の糸
沈黙こそ主との語らひ台風過ぐ
秋冷や雨滴の打ちし黙の時
黙想会頬に秋蚊の目覚めよと
コスモスの一色になり御堂飾る
秋冷や今ある時の息を吸ふ

*①「縁」、時にアッバのはからいとしか思えない瞬間がある。②③④現代人に決定的に不足しているのが「沈黙」かと。饒舌すぎるネット、スマホかな。

豊田・佐藤淡丘
喜びの言葉は要らぬ落葉中
しろがね白銀の尾花ちぎりて土手下る
小鳥来る神の一葉落しけり
芋名月水に映りて揺らぎをり
鵙高音一瞬にして夜が明ける

今から十二年前、ひょんなことで「マザー・テレサ日々のことば」という本をもらいました。この中から「つつましい仕事から離れてはいけません」と教えられ、小学校の放課後の学童保育に、紙芝居を月に一度ですが、やらせてもらっています。マザーが今も見ているようでやめられません。南無アッバ

*あのマザーテレサにも大いなる信仰の危機がありました。「過去十一年をとおして初めて、わたしは暗闇を愛するようになりました。今わたしは闇が、イエスの地上における闇と痛みの非常に小さな部分であることを信じるからです。」(『来て、私の光になりなさい!』)

東京・中庭 栞
ほし草や眩しき限り陽のたぎる
炎天の丘に潮騒ぬける道
南仏に国境のなきせみしぐれ

*③まったくです。人為的な区別、差別であらゆることに色分け――分別をつけているのは人間だけ。

日立・武田孝一
最早死を口にせずなりし生徒一人帰寮せしめて長き夜の祈り
みどり児を主に捧げ来て浅夏の夜更けに妻と感謝の祈りす
煙突なきアパートの聖夜寝入りたる吾子のため赤き靴下吊るしやる
亡き子ある日籬より入り来る幻覚に生き来しという老婆の戦後
妻の弾く復活節賛歌に響合いてヒアシンスの花穂静かに揺るる

*初めてのご投稿ありがとうございます。どの歌にも信仰の姿勢、ご性格がにじみ出ています。「風の家」の活動にもご理解くださり、感謝です。

蓮田・平田栄一
弱さこそ神の強さや夏の川
どこまでもゆるす神なり五月尽

平田講座要約(第四三~四四回)2013-12/2014-01

(テキスト『心の琴線に触れるイエス』聖母文庫)
(前号からの続き)この点――十字架において、神の本質から「痛み」を切り離し、イエスに限定しているという点――は「神中心主義」のパウロに近い――神が主、イエスが従――といえるかと思います。

第二は、井上神学のスタートが人間の罪一般(北森)ではなくて、歴史的具体的な「弟子の裏切り(の罪)」だということも、見逃せません。ここは「自分がイエスを傷つけたという実感がない」(『パウロを語る』)という発言と結びつきます。
この「父なる神」と「イエス」をどのようにくっつけ、切り離すかは、イエスの神性人性をどう捉えるか、という重要な、また多様な問題を含んでいます。キリスト教の歴史そのものといってもいいかもしれません。

アタナシウス派を正統とし、アリウス派を異端とした三二五年のニケーア公会議、ネストリウス派を異端とした四三一年のエフェソス公会議、単性説を異端とした四五一年のカルケドン公会議など、さまざまな論争が行われますが、結局、これは人間の歴史から見れば、わたしたちの正直な欲求が、キリストこそ神と人の橋渡し役(仲介者)となってもらいたい、ということの現れであり、そうであるなら、どうしても両性が同時に必要だったという証とも言えましょう。

〇第四四回
テキストより、p・52
<‥‥だから私には、十字架のイエスを本当に包み込んでいる更に大きな、何か手みたいなものを感じさせる‥‥。
‥‥確かに、十字架の血というのは、自分を裏切ってゆく人間を、やっぱり包み込むところに、流れるものなんだろうというふうな‥‥。そういうことはね、『愛を見つける』あたりでは、私も何となく感じたのです。だけど更にそれを、なんかね、こう、あの仏像に見られるような柔らかさというか、なんかこう最後に包んでないとね、ちょっとこう苦しくなっちゃうというか‥‥。>

井上神父は、裏切りをゆるす(包む)所に流れる十字架の血をイエスに限定しています。父なる神はその「痛むイエス」をさらに包んでいます。痛むイエスの十字架を同心円的に広げていくと、だんだん父なる神の方ではやさしさに包まれていく――癒やされていく、というイメージでしょうか。


南無アッバの集い&平田講座(毎月)=於:四谷ニコラバレ、日時11/26(土)13時半、12/24(土)同、1/28(土)同

平田栄一・新刊『「南無アッバ」への道』定価800円+税。聖母文庫☎095・824・2080。サイン本ご希望の方は平田までご連絡ください。〒込千円

―――――「余白の風」入会案内―――――
*どなたでも参加できます。見本サイドバー参照 購読のみも可。*年六回奇数月発行*年会費千円(送料共)*採否主宰一任*締切=偶数月二十日*申し込み・お問合せ 余白メール

category: 求道詩歌誌「余白の風」

tb: 0   cm: 0

求道俳句誌「余白の風」第222号 2016年9月発行   

俳句や短歌をつくりながら、「南無アッバ」の心を養います。

会員作品とエッセイ (*選評)

豊田・佐藤淡丘
法師蝉これより先は北といふ
一本の杭は山湖に水澄めり
蟻の列往きつ戻りつ黙の中
鶏頭を指で挟めば走りだす
秋たつやちびた鉛筆いとほしむ

午前四時、東の空を一望できる階の上に立ちました。ナント、オリオン座を含む「冬の大三角形」がもう横たわってみえます。
きのうまで樹の上で喧しくしていた蝉に代り、草むらでは虫の声が賑わしい。

正に、この世の教会とは、内村鑑三の言葉どおり、神の造られた宇宙であり、天然であります。アッバ・アッバ・南無アッバ

*「宇宙」そのものが「教会」とは名言。考えさせられます。わたしたちはつい小さな単位で、あの教会、この教会と分類してしまう。分別心を改めなければなりませんね。

大阪・島一木
マリア像西日を浴びてなほ白く
夕焼けに濃く染まりゆく彩硝子
花火見に行く教会のある方へ

*①②夕日に染まっていく御聖堂に、ひとり佇み祈りを捧げる。共同の祈りであるミサと共に、アッバと一対一の、いや一人包まれての祈りという実感も大切にしたいものです。

昭島・新堀邦司
一灯を神に捧ぐや聖五月
菖蒲湯や予後のいのちをあたためぬ
母の日や今も聞こえし子守唄
椎若葉燦々として草思堂
父の日を酌みかはさうか父同士

*③⑤「母の日」「父の日」にちなんで、私たちキリスト者は、神の父性・母性ということを、改めて考えてみたいと思います。「アッバ」が母のような父である、ということは、意味深長です。

一宮・西川珪子
くっきりと過去を残してかたつむり
人の世の日々変りゆく草を引く
水打って魂還る道浄め
炎暑にも新たな芽吹き南無アッバ
一瞬の煌きに掛ける花火かな

*「時間」連作として読ませていただきました。①「過去」は現在によって意味づけられる(アドラー)という視点をもって、前向きに考えましょう。②人生を一本の細い川、「人の世」をそれらが流れ込む太い河と見立ててみる。

高知・赤松久子
ひとすじの光宿せり庭野菊
しのび寄る老の足音冬隣
老恐ろし死は恐ろしくあらねども
南無アッバの境地求めて南無アッバ
アッバとは何かと聞かれパパですと

*②③身につまされます。井上神父は人生をマラソンにたとえ、人生の折り返し地点からは、お借りしていたもの――能力・実績・体の機能等々をひとつずつ感謝を込めてお返ししていく役割があると、述べています。

八王子・F井上
平和への祈りのリレーアヴェマリア
あの時の蝉しぐれ聞く終戦日
むくげ涼やかに聖母被昇天
ハンドルを握れる幸よ南無アッバ
昇る日を真向いに受け通うミサ

*④高齢ドライバーの事故多発にともない、免許更新や返還の問題が指摘されています。あたりまえのようにできていたことが、一つ一つできなくなっていく。そういう現実をどう捉えるか、信仰の役割が問われています。

練馬・魚住るみ子
南無アッバ九十歳の歌いくつ老を嘆かぬ心にうなづく
ハイビスカス深紅に咲き出で朝毎を一日花のいのち生命輝く
隣り合ふ家毎の暮し南無アッバ軒にはためく洗濯物よ

  一首目の九十歳の例歌として、
かぜに触れひかりにふれて若葉燃ゆ九十歳のまなこに映る     高木きみ子
九十になりてもわれの心には開け閉め自在の窓があるなり     久米川孝子
曾祖母のわれと娘と孫のみたり三人ゐてそれぞれ母の日それぞれの初夏   田中恵子
(現代短歌新聞H28・8号近詠一首より)

*老いの中にどう生きがいを見つけるか。人生「若葉燃ゆ」季節に役割や生きがいがあったように、老いの季節にも、また違った役割と生きがいがあるはずです。各御作に励まされます。

名古屋・片岡惇子
雷鳴や御堂震わせ赤子泣く
空しきとコヘレト読めば蝉時雨
拒否出来ず八月来たる狂気のまま
原爆忌誰も居ぬ地に風焼ける
大夕焼沈黙の余名華やぐ
受け入れて神の業なる大夕焼

*⑤「受け入れる」という言葉が、井上アッバ神学のキーワードの一つであることを、わたしは近著『「南無アッバ」への道』で指摘しました。しかし真にそれは自力ではなしえない「神の業」です。

蓮田・平田栄一
イエスこそ近づき来たる冬の闇
ルカ二四

イエスを裏切った自己嫌悪を抱えつつ、エマオへ旅する二人の弟子たち。とぼとぼと俯むいて歩いているところへ、イエスご自身がそっと近づいてきて、一緒に歩いて行かれた。悩み苦しみにあるとき、そうとわからなくても、わたしたちはけっして孤独ではない。


平田栄一・新刊『「南無アッバ」への道』(聖母文庫)定価800円+税。☎095・824・2080。サイン本ご希望の方は平田までご連絡ください。〒込千円


平田講座要約(第四十一~三回)2013-10/11/12
(テキスト『心の琴線に触れるイエス』聖母文庫)
井上アッバ神学では自らの罪を悲しむということはあるかもしれませんが、それが厳しく罰せられるというイメージはありません。(生前、井上神父が言った言葉「困った人とか迷惑な人ってのはいるかもしれないが、根っからの悪人というのはいないんじゃないか。」)

テキスト最後の部分「パウロは激しく、重い」という所は、今はもっと多面的に考えるべきだとも思っています。パウロは教会に起きた緊急要件に向けて手紙を書いていますから、怒ったり、皮肉を言ったりする、過激な所も確かにあります。そういう所は怖いです。

○第四二回
今回はパウロの「重さ・激しさ」について、まず補足します。パウロには確かに律法主義に回帰しようとするキリスト者や、アッバの「無条件・無制限のゆるし」を曲解して、キリスト教的「本願ぼこり」に身を委ねる輩に対しての「重さ・激しさ」はあるのですが、しかし、単なる厳格主義者、リゴリズムではない。それは、根底に、あのローマ四・五の信仰義認論があることでもわかります。「不信心な者を義とする神を信じる」ということは、アッバ=母性原理の神を信じる、ということだと思います。

すなわち、「不信心な者」とは「罪人」であり、まさにパウロ自身の自覚だろうし、そういう、「神を神とも思わない」人間を「義とする」とは「無条件で受け入れる」ということだからです。律法を行う代わりに、信仰があれば救われる、というのではありません。行いも信仰もない、けれども、そういう者でも無条件に救ってくださる、というアッバの御心に、お御風さまに信頼する、そのとき救われるということです。

○第四三回
p・52
石川氏のこうした分析に対し、井上神父は次のように述べています。

「‥‥北森神学だと神の本質が痛みだというわけです。本質そのものが痛みであると。
‥‥私の場合には痛みというのはあくまでイエスの痛み、裏切ってゆく弟子たちを包むイエスの痛みなのです。そしてそのイエスの痛みも、裏切った弟子たちの哀しみも共に何か御父の、神の、やわらかな夕陽に包まれているような感じの世界なんですよ。」

ここは次の項目で改めて解説しますが、人間の罪――イエスの痛み――痛む父、という北森神学と、弟子の裏切り――イエスの痛み//包み込む父、という井上アッバ神学との対比です。

後者の特徴は第一に、神の本質から「痛み」を切り離し、イエスに限定しているということです。


南無アッバの集い&平田講座(毎月)=於:四谷ニコラバレ、日時9/24(土)13時半、10/29(土)同/11/26(土)同


―――――「余白の風」入会案内―――――
*どなたでも参加できます。購読のみも可。*年六回奇数月発行*年会費千円(送料共)*採否主宰一任*締切=偶数月二十日*お問合せ:本サイト余白メールまで

category: 求道詩歌誌「余白の風」

tb: 0   cm: 0

求道俳句誌「余白の風」第221号 2016年7月発行   

余白の風221号.pdf

category: 求道詩歌誌「余白の風」

tb: 0   cm: 0

求道俳句誌「余白の風」第220号 2016年5月発行  

「余白の風」第220号

category: 求道詩歌誌「余白の風」

tb: 0   cm: 0

講座・南無アッバの集い

求道詩歌誌「余白の風」

最後の南無アッバミサ

カテゴリ

全記事表示リンク

▲ Pagetop