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日本人にわかるキリスト教を求めて

26May2012+011_convert_20120623181132_20120623222548.jpg井上洋治神父は、遠藤周作氏と共に、日本人の感性で正直に受けとめられるキリスト教を一生をかけて模索し、1986年「風の家」をはじめました。このサイトでは、「風の家」運動を引き継ぐ平田栄一が「求道俳句」ほか、日本人キリスト者の道を模索する試みを紹介していきます。お問い合わせ 略歴 著書

(15)南無アッバの集い&平田講座(二十二)要旨=第195号2012年3月発行  

・救いの基本は「自我の明け渡し」にかかっている。

・「記名のキリスト者」と「無記名のキリスト者」の違いは救いの可否ではなく、同じキリストの体のなかの「役割」の問題。

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(14)南無アッバの集い&平田講座(二十二)要旨=第195号2012年3月発行  

・洗礼はイエスの生前でなく、復活後はじまった。

・イエス以前の旧約時代の人はどうなるか
→「含蓄的信仰implicit」=神を信じ、神のことはなんでも受け入れる=によって救われる。

cf:水の洗礼・火の洗礼・望みの洗礼=自覚がなくても聖霊の働きに誠実に開かれた心を持てば救われる。

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(13)南無アッバの集い&平田講座(二十二)要旨=第195号2012年3月発行  

キーワードとして「無名のキリスト者」があります。

これは、ラーナーの用語で、キリスト信仰を告白していなくても、客観的にキリストの救いに参与している人がいるということです。

井上神父もこの用語について「風」八一号で、「無記名のキリスト者」として「洗礼」の必要性に関して、一文を書いている。

それを要約すると――

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(12)南無アッバの集い&平田講座(二十二)要旨=第195号2012年3月発行  

前回まで、十字架のいろいろな意味を一覧し、井上神父の十字架=共苦の頂点を確認しました。

その上で、「信じる」とは何かをめぐり、カール・ラーナーをとっかかりにします。

彼の大きな働きは、他宗教との対話へ道を開いたことで、包括主義という立場が象徴的です。

(→排他主義、多元主義と比較)

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(11)寄贈誌より=第195号2012年3月発行  

「日矢」五六六号  新堀邦司

きよしこの夜妻と二人のクリスマス

第九聴きああ鎮魂の年送る

フェルメール・ブルーの空や明けの春


*①独立していく子供たちの後には、また夫婦二人だけの生活が戻る。寂しくも、満ち足りる時期。

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(10)会員作品とエッセイ=第195号2012年3月発行  

蓮田市  平田栄一

わが内にイエスの声となり初めし老医師の言葉「ビクビクするな」

山上に聞けるイエスの声のごと吾は聞きたり雲雀の鳴くを

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(9)会員作品とエッセイ=第195号2012年3月発行  

大和市  佐藤悦子

紅梅や見上げる青き空高し

四旬節マタイの福音読み返えす

春立ちぬ文したためてポストまで歩ける朝の有り難きかな

巡りくる一年の刻南無アッバみ魂へ捧ぐロザリオの環


*②やはり四旬節には『マタイ』が多い。
④最近、ロザリオで「南無アッバ」を唱えることを試行している、「風の家の祈り」を織り交ぜて。

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(8)会員作品とエッセイ=第195号2012年3月発行  

名古屋市  片岡惇子

一人炬燵主の道訪ね旅の宿

春の雪遠山に日のあたりたる

春の雪重ねし年を軽くして

春の雪自由気儘のピエロたち

囀りや主の声遠く透けてゆき


*②~④「春の雪」連句が楽しい。②<遠山に日の当たりたる枯野かな  高浜虚子>を踏まえるか。
「枯野」より「春の雪」はまぶしい希望。

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(7)会員作品とエッセイ=第195号2012年3月発行  

練馬区  魚住るみ子

老い深み忘れ易きをかこてども佳き話聴くよろこびをなむ

主宰「求道俳句集」選

春近しいつかすべてを笑える日  栄一

白抜きの聖句が塀に冬日向

弱さ知る者から照らす春の月

受験子や「ふつう」「べつに」は「びみょう」なり

木と話し風と遊びて冬ぬくし


*記憶力の衰えは仕方ないと思いつつも、寂しくなることも。それだけに一瞬一瞬の今を大切に生きようとする姿。

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(6)会員作品とエッセイ=第195号2012年3月発行  

八王子市  フランシスカ井上

〝人の子〟と呼ばれ存在するヒト科

選ばれた民の驕りに厳しい目

幻に託すビジョンか黙示録

預言書は分からぬままに南無アッバ


*①何やら意味深長なのですが、それが一義的に説明できない。
読む人によって様々なイメージや解釈を持つ佳句。

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(5)会員作品とエッセイ=第195号2012年3月発行  

稲城市  石川れい子

まつ赤な芽化けて銀の目猫柳

蕗の薹大地の賛歌うたいをり

三陸の復興兆す若布(めか)刈(り)舟

合格の夜の静寂に春時雨

めぐり会ふ二人の幸よ夜の梅



主宰「求道俳句集」選

梅一輪くわえて戻るのノアの鳩  栄一

受験期やペトロに渡す天の鍵

教え子に席譲られて二月尽

*②「蕗の薹」の健気で、地味な印象が「大地の賛歌」と取り合わされることにより、私たちに謙虚な生き方を指し示している。

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(4)会員作品とエッセイ=第195号2012年3月発行  

秦野市  長谷川末子

降雪に呆け顔なる二月尽

寒の内苦楽ありても御手の中

浅知恵のあせりを神は知り給ふ

暖き部屋外の枯枝なす儘に

目覚めたるつぶらな瞳犬ふぐり


*②③小我をこえた大我的境地を目指す性向が、短歌より俳句に強いように思います。俳人長谷川櫂氏が、東日本大震災でまず作ったのは短歌でした。

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(3)会員作品とエッセイ=第195号2012年3月発行  

一宮市  西川珪子

枯蟷螂最後の鎌を振り上げる

溝涸れの中に息づくものの影

冬陽射す縁に猫の背まん丸く

一人居も二十余年や雛の宵

刺一つ指に残りし四旬節


*⑤どうしても吾が罪と向き合うことになる四旬節。告解がいやでどうしても信者になれない、という人がいますが、一年に一、二回は、こういう時期も必要かと。

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(2)会員作品とエッセイ=第195号2012年3月発行  

京都市  瀧野悦子

風の子と言はれてみても春炬燵

雪雪だ子等いっせいに駆け回り

淡雪や御手を広げしマリアさま

雪白しわたしの心も白くなれ

かんしゃくのくの字を取りて今日一日南無の心で過ごしたきもの


*精神遍歴の一連として読める。すなわち、①②無邪気な日常。③宗教世界への気づき。④宗教的実存へ。⑤再び日常に帰るときの願い。

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(1)会員作品とエッセイ=第195号2012年3月発行  

奇数月一日発行 発行者:余白こと平田栄一
*日本人の心の琴線にふれるイエスの顔を求め、福音を生きる

豊田市 佐藤淡丘

斑なるひかり言問ふ春の泥

極寒期土の道あり響きあふ

名残雪消えなむとして掌で受ける

薄氷の裏側にある光待つ

一つ消え一つ遠のく春の星


 新月(無月)の明け方は、身体が軽い。
地球と月との引力がどうも関係しているらしい。そうした中で、次の箴言を思い出しながら太極拳を舞っている。
「真人の息は踵(かがと)を以てし、衆人の息は喉(のど)を以てす」(荘子)。
 からだの力みを抜いてこれを行う(足から吸う)ことにより、真人の域に少しでも近づくことができればと思う、愚人の儚い営みが今も続いている。南無アッバ。

*遠い所を四谷講座にご参加くださりありがとうございました。
俳句、信仰そして太極拳、大兄の向上心には脱帽です。
③<入れ物がない両手で受ける  尾崎放哉>を思う。
⑤新たに生まれ来る星も。

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第194号(18)南無アッバの集い&平田講座(二一)要旨  

話はそれますが、『マルコによる福音書』一章一五節は、ふつう、「・・・・福音を信じなさい」と訳していた所を、岩波訳聖書では「・・・・福音の中で信ぜよ」と、「福音」を信じる対象でなく、信仰者が置かれている「場」としています。

原語のギリシア語では「ピステウエテ・エン・トー・エウアンゲリオー」ですが、田川建三訳も「なかで」と訳しています。日本人には、この方がピンと来るように思います。


以上、194号おわり

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第194号(17)南無アッバの集い&平田講座(二一)要旨  

そもそも信仰=ピスティスは、むしろ「信頼」というべきでしょう。

井上神父様もそうだし、最近注目されている「ケセン語訳」聖書の山浦玄嗣(やまうらはるつぐ)氏なども「信頼」と訳すべきと言っています。

あちら様が主体で「お任せ」すること。そう訳し変えただけで、ずいぶん日本語のニュアンスが違ってくる。

さっきの「おまえは何をどう信じるか」といったときの気負いもなくなる、という気がします。

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第194号(16)南無アッバの集い&平田講座(二一)要旨  

『ガラテヤの信徒への手紙』五章六節を、新共同訳では「愛の実践を伴う信仰こそ大切」と訳していますが、ギリシア語原典は「ディ・アガ‘ペース」で、愛を介して(手段・媒介・原因)働く信仰ということです。

この愛は神からの愛とも受け取れます。

ちなみにTEVという英語聖書は「what matters is faith that works through love.」とあり、この愛がどこからの愛とは書いていませんが、スルー=その愛を「通して」働く信仰という意味合いを明確にしています。

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第194号(15)南無アッバの集い&平田講座(二一)要旨  

ルターは「信仰のみ」と言いましたが、そのときの「信仰」とは、「神によって働く信仰」という意味だと自註しています。


俺が、俺が、といって自分が前に出る「信仰」ではないのですね。
能動的でなく、受身的といってもいい信仰です。

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第194号(14)南無アッバの集い&平田講座(二一)要旨  

「信仰」というとき、「信じるときの内実」とは、「何を」信じるかだけでなく、「どう」信じるかも含みます。

またこう自問しているとき、すでに私たちは「自分」中心の問いを発しているのかもしれません。

これが転換しないと、真の信仰にはならない。

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第194号(13)南無アッバの集い&平田講座(二一)要旨  

2012-1-28
前回から十字架を悲愛=共苦の頂点とみる井上神学の意味を探っています。

その比較のため、ローマ帝国、ユダヤ教、そしてパウロなどの考えを学んできました。

もう一つ補足しますと、十字架を私たちに対する招き、抱擁とみる見方があります。

ミサの第二奉献文叙唱に「・・・・人々をあなたの民とするために、手を広げて苦難に身をゆだね・・・・」というのがそれで、マザーテレサなどもしばしば言及していたと思います。

十字架即贖罪という一義的な意味づけをするのではなく、共苦=悲愛の象徴、頂点と受けとめる方が、日本人には受けとめ易いと思います。

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第194号(12) 2012年2月発行=求道俳句で「南無アッバ」  

寄贈誌より

「日矢」五六 号  新堀邦司

高々とトトロの森の鷹の舞ふ

困民党の秩父を越えし空つ風

十二月八日の空やレノンの忌


*作者は多くの人物評伝を書かれており、その人が生きた時代や社会背景をしっかり掴む才は、俳句にも表れてくる。

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第194号(11) 2012年2月発行=求道俳句で「南無アッバ」  

蓮田市  平田栄一

朝からの雨降り止まず暮れ落ちる一人の飯を噛みしめて食う

実名と事細かなる願い事日夜聞きおり絵馬の神様


*「短歌人」2月号より


以下、「余白の風」に転載しなかった4首

顎ひいてニコッとすれば十歳は若く見えるとカメラに向かう

生物の類の一種と割り切りて己を見れば心安らぐ

生物学的には子を産み育てれば死んでもいいということらしい

苦虫を潰したような顔をして吾が著書を読む人を目にせり

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第194号(10) 2012年2月発行=求道俳句で「南無アッバ」  

名古屋市  片岡惇子

白椿その一言が輝きて

落椿しばしの刻を泣いている

凍てし柱二十六残し軽きとき

大寒や夜明けのミサの福音読む

春雷や旅の終りを告げ知らす


*「一言する」「白椿」、「泣く」「落椿」「告げる」「春雷」そして「残る」「二十六」「柱」。

神の言葉は、出来事のなかにある。出来事が語る。

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第194号(9) 2012年2月発行=求道俳句で「南無アッバ」  

練馬区  魚住るみ子

南無アッバ望月輝やき空を統ぶ満たされ祈らむ平安をこそ

  主宰「求道俳句集」選

にじり口抜けて目先の七変化  栄一

小鞄に夏帽ひとつ使徒の旅

梅雨寒や遠くて近きアバの道

晩学の苦楽や天のからし種

極月の別れや尾灯明滅す


*「望月」に向かって祈るのか、望月が祈るのか、いや、望月の煌々と輝く空の下、アッバに向かって手を合わしている作者。

満たされた祈り。

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第194号(8) 2012年2月発行=求道俳句で「南無アッバ」  

八王子市  フランシスカ井上

エレミヤを読み耽る夜の雪の嵩

失って哀歌に記す神の愛

どん底で掴む藁ひかりつつ浮き上り

実行は難しいです南無アッバ


*「南無アッバ」を口先で唱えるのは簡単。

心からその境地になるのは一生。

「失って」「どん底」に落ちた時がチャンスか。

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第194号(7) 2012年2月発行=求道俳句で「南無アッバ」  

稲城市  石川れい子

屠蘇祝ふ家族合はせて三百歳

初ミサに娘五人がきもの着て

初明り琵琶湖染めゆく眺めかな

野水仙群れて聴き入る波の音

祈念せし彼岸の人よ初電話


主宰「求道俳句集」選

年一度積もる話や二日来る  栄一

俺はまだ生きているぞと賀状来る

人日やわが半生を悔やみ居て



*年初に家族が集まれる幸せ。

今は大家族そのものが幸せの象徴。特に三・一一以降は、ほんとうの絆とは何かが問われる。

前月号訂正「主の」→「主を」

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第194号(6) 2012年2月発行=求道俳句で「南無アッバ」  

世田谷区  広谷和文

子規庵の玻璃に明治の冬日影

  北鎌倉東慶寺
西田幾多郎冬うららかにねむりけり


*小旅行吟でしょうか、「子規」も「幾多郎」も人物そのものが季語をこえた独特の味わいを持つ人たち。

本来の趣味人の姿。

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第194号(5) 2012年2月発行=求道俳句で「南無アッバ」  

秦野市  長谷川末子

憂きあれど冬空神のしろしめす

負ひきれぬ罪多けれど春近し

老ひてなほ心の支へ夫の居る

飲もうかと言へば熱燗すぐ並ぶ

鮪より生鮭うまし冬御飯


共に暮して五十五年、貧しくて働いて今日がある。

三人の息子の心配は絶えない。

最近は夫第一、自分は二番。すべては神様におゆだねして親しい友と「朗読」「童謡、唱歌」。

夫に聞けば「女房元気で留守がいい」と明快に返って来る。

*「飲もうかと言へば」「すぐ並ぶ」「熱燗」いいですね。五十五年で培った阿吽の呼吸。

ときに憂いや葛藤はあっても、アッバの結び合わせたご縁。

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第194号(4) 2012年2月発行=求道俳句で「南無アッバ」  

一宮市  西川珪子

雲うねり龍の如くに初日巻く

初釜の釜の静かに鳴りはじむ

寄り添ひて咲く山茶花の絆かな

師の墓の句碑を磨きぬ小春日に


*②茶道のお師匠さんでもある作者の「初釜」は、特別な思いがあろう。

「初釜の」「釜」という畳み掛けにその思いが込められている。

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第194号(3) 2012年2月発行=求道俳句で「南無アッバ」  

京都市  瀧野悦子

念仏のうねり近づく寒の朝

参道の水仙しゃんとしゃんと向き

息白しロザリオ途切れ二年坂

枝四方に生きよ生きよと枯木立

清水の舞台に寒気吸ひ込みていのち尊む南無南無アッバ


*「お念仏のうねり」「参道の水仙「清水の舞台」古都の冬の中で、作者はアッバへの思いを深くしていきます。

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第194号(2) 2012年2月発行=求道俳句で「南無アッバ」  

豊田市 佐藤淡丘

天までの梯子となりし焚火かな

臘梅や天の高さを知らず過ぐ

寒星に語るすべなしわれ生くと

信仰の悲しさ寒雷の文机

陽を浴びて軒端の垂氷細りゆく


「十字ハ、デキルダケ大キクキルトイイデスヨ」と、その昔ドイツ人の先輩から教えられ、折々そうしています。

早朝、「会神の丘」で独り祈るとき、御父こそすべての泉です、と跪き、三位一体の主に大きく✙を切り安心を得ています。

感謝です。
南無アッバ、南無アッバ。

*作者の耳目は「天」「寒星」から「文机」「軒端」へと移動していく。

その間に得られた感謝の心で、「大きく✙を切る」。

アッバへの応答と無量の安心。

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第194号(1) 2012年2月発行=求道俳句で「南無アッバ」  

*日本人の心の琴線にふれるイエスの顔を求め、福音を生きる

会員作品とエッセイ(*主宰コメント)

大和市  佐藤悦子

冬のバラおおせのごとし南無アッバ

藍き背のカワセミ来たる春隣

香り立つ七草粥を味わえば単純質素な暮らし覚えり


*「おおせのごとし南無アッバ」の思いがいよいよ強くなる程に「単純質素な暮らし覚えり」との自覚が生まれるのでしょう。

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(16)第193号 2012年1月発行=求道俳句で「南無アッバ」  

病葉の散る一瞬を祈りつつ  西川珪子

夏落葉うつくしき影ひき連れて  大木孝子

聖霊の包みし中の分かち合い  フランシスカ井上

ハリスト正教会にて購いし新約聖書は文語にござる  平田栄一



<おしらせ>
*南無アッバの集い&平田講座一月二十八日(土)
*「余白の風」入会案内――どなたでも参加できます。初心者歓迎。
サイドバーをご覧ください。

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(15)第193号 2012年1月発行=求道俳句で「南無アッバ」  

その他の作品をご紹介します。

吾亦紅アッバに托す二つの忌  田中七子

秋高し体重計の針の先  石川れい子

うなだれしコスモスの種風に飛び  片岡惇子

マリアとマルタマリアになれずちちろ虫  瀧野悦子

いも粥をすすり原爆記念の日  新堀邦司

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(14)第193号 2012年1月発行=求道俳句で「南無アッバ」  

秋夜長レクチオ・ディヴィナのヨハネ伝  佐藤悦子

教はりて来し会場に傘つぼめ入ればロマ書の輪読きこゆ  井口萬里子


「レクチオ・ディヴィナ」=聖なる読書。究極の祈りは聖書を只ゆっくり読むこと、ともいわれます。
受洗間もない頃、わたしは井上神父に「どんなふうに祈ったらいいでしょう?」とお聞きしました。
すると神父は「たとえば、聖書を一日何ページとか決めて読めばいい」とアドバイスしてくださったことを憶えています。
わかってもわからなくても、毎日少しずつ。

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(13)第193号 2012年1月発行--求道俳句で「南無アッバ」  

天高し呼気に合わせて南無アッバ  喜多正規

あらし台風の夜独り唱ふる南無アッバ  赤松久子


万物がおみ風さまに共鳴して声をあげるとき、思わずわたしたちもこの大合唱に参加せずにはいられなくなります。

「てんにいます/おんちちうえをよびて/おんちちうえさま/おんちちうえさまととなえまつる/いずるいきによび/入りきたるいきによびたてまつる/われはみなをよぶばかりのものにてあり」(八木重吉)

いつでもどこでも南無アッバ!

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(12)第193号 2012年1月発行  

秋の風声さまざまに運びくる  佐藤淡丘

 おみ風さまが、秋にふさわしい声を運んでくる。風(プネウマ)そのものは聞くことも見ることもできませんが、アッバのお作りになった、あらゆる作品が風に応えて音をたてる。
わたしたちが耳を澄ませば、その共鳴音を聞くことができます。

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(11)第193号 2012年1月発行  

南無アッバうさぎのやうにサクサクとレタスの歯ざはり今日が始まる  魚住るみ子

 朝の静けさのなかで、うさぎのようにレタスをサクサク食べる、それだけで幸福を感じられる作者の穏やかな人柄。
そして今日一日を「南無アッバ」の心で過ごそうという、真摯な祈りと覚悟が垣間見えます。

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(10)アッバ讃句コーナー(第三回)=第193号 2012年1月発行  

「風」第八九号転載

 クリスマスおめでとうございます。
今号にはたくさんの作品をお寄せいただきました。

日本人であれば小学校以来、俳句や短歌のようなものは必ずどこかで作ったことがある、といいますが、今回頂いたお手紙のなかにも「日記に書きとめておいたもの」とか、「昔の手帳にあった句を直して」などとあり、短詩型がいかに日本人の心性に親しいものであるかが伺われます。
ぜひ続けておつくりください。

儘ならぬ人の世と聞く神在す   長谷川末子

 上中句と下句の断絶にどきりとします。自分としては、あれこれ誠実に努力してきたつもりなのに結果がでない「儘ならぬ人の世」。人生は、世間はその繰り返し。

そして気がつくと、身体も心もくたびれ果てている、まさに儘ならぬ状態。しかしそのとき作者は「神在す」現実に気づいたというのです。

儘ならない――自我が満たされないからこそ神がいる――わたしたちの狭い自我をこえて、アッバは必ず「万事益となるように働き給う」(ローマ八・二八)と受け取る信仰。

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第193号 2012年1月発行 (9)  

「こみち」二五一号   魚住るみ子

黄泉路への歩みはかろし月まどか

リジューのテレーズ365の言葉朝毎に読む香ぐはしき薔薇よ

*①ご友人の安らかな死出の旅を歌ったものか。合掌。
②テレジアの言葉が日毎の糧となっている。繰り返し味わう本を持つことの幸せ。

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第193号 2012年1月発行 (8)  

寄贈誌より    

「日矢」五六三~四号   新堀邦司

上州は風の国かな下り簗

秋風や佐藤春夫にさんまの詩

新米や一菜で足る朝の膳

届きたる喪中の便り冬に入る

西伊豆や富士をはるかに帰り花

*③一汁一菜の精神ながら、「新米」に大きな贅があると思えるのは、三・一一以来の状況が背景にあるからだろう。
どんな一句も置かれた時代状況で読みが変わる。聖書の御言葉も然り。

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第193号 2012年1月発行 (7)  

蓮田市  平田栄一

葦の芽に古事記の人は神を想いB・パスカルは人を想いき

携帯をいじる人かとよく見ればロザリオの珠まさぐりおりぬ

(「短歌人」1月号より)

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第193号 2012年1月発行 (6)  

稲城市  石川れい子

イヴミサの歌声きよしこの夜や

冬の川触れてふくらむ冬の楽

蓮枯れて全身現るる菩薩かな

十二月余白の風の友のいろ

3・11絆ふかめて年暮るる

   主宰『求道俳句集』選

主の待てるイルミネーション眩しかり

イヴミサや俄か信者の溢れける

転生はあるやもしれず冬の虹

*①⑦「イヴミサ」の混雑に閉口して以来、およそ二十五日の日中のミサに出るようになった。
すると職場で信者でない人から、「今夜(二十四日)は教会に行かなくていいの?」などと言われてしまったり。

category: 求道詩歌誌「余白の風」

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第193号 2012年1月発行 (5)  

秦野市  長谷川末子

聖誕祭御子を拝しつ慕ひつつ

満天の星を仰ぎつ帰途につく

被災地に御目を注ぐ南無アッバ

手を取りて共に喜ぶ日のあるを

分ち合ふ心を持ちて年の暮

*③④⑤おたよりに次のようにあります。「被災され苦境に苦しむ人々を想い、多くの学び、日常の御恵みに気づいた人も多く居ると思います。共に負う重荷も心開かれれば喜びに変わるかもしれません。」
年始にあたりまず、南無アッバと悲愛――「悲」は「共に」の意を含む――の心を求めましょう。

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第193号 2012年1月発行 (4)  

一宮市  西川珪子

生かされて仕事を終へる聖夜かな

稲塚を冷たき風やセミナリオ跡

秋深し無限の愛のマリア像

晩秋の鈍くかがやく道祖神

水郷の町秋の陽射しをさがしをり

*殉教地巡りで、日本最初のセミナリオ跡、近江水郷などをめぐられた由。①日本人信者には、クリスマスから元旦までの一週間は、他国以上に意味深い期間のように思います。年末年始はしげく教会に足が向く。

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第193号 2012年1月発行 (3)  

京都市  瀧野悦子

主は来ませり声澄み渡る聖夜かな

水仙や心真白く弥撒の座に

初春や鶴舞ひあがる朱塗り椀

裏方をとほすエプロン三が日

年新た頭真青の修行僧

*②「水仙」が己の心を空にしてくれる、ミサ前の準備。④巧みな観察と表現。⑤年始めの新鮮な気持ちが「頭真青」に象徴。悦子句は、いつもどこか京都の香りを運んでくれる。

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第193号 2012年1月発行 (2)  

豊田市 佐藤淡丘

源流をけふも抱へて山眠る

寒北斗一つの言葉でことたりる

雑木山開くがごとく目白来る

葉牡丹の襞を夕闇隠し得ず

腕白のはにかみもせず聖夜劇


 裏の雑木林は今日も私を招く。
 静かに積った落葉径、踏む度ごとに小枝がホキホキと快い。
 空が開ける場所に着くと、目白の大群がこちらもバラバラと降ってくる。咄嗟に叫ぶ、南無アッバと。

*②「寒北斗」は神のようにいつも定位置にあって私たちを見守ってくれる。とすると「一つの言葉」とは「南無アッバ」かもしれない。一月の南無アッバの集いでお会いできる由、楽しみにしております。遠方より、どうぞお気をつけて。

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第193号 2012年1月発行 (1)  

*日本人の心の琴線にふれるイエスの顔を求め、福音を生きる
会員作品とエッセイ(*主宰コメント)

名古屋市  片岡惇子

黄落やさ迷う人を捲き込んで

ずれていく神との歩調山蕗

冬菫隠れて咲きし美しき

初氷割れても良しと踏んでみる

主の聖誕山路に祝う冬すみれ

*長崎に移られた由、どこにあっても「神様が与えてくださった恵」と思える信仰――信頼を眩しく思います。
②この「ずれ」はこちらから見たズレかもしれず、アッバの方ではそうは思っていないかも。

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「余白の風」第192号 2011年12月発行   

*日本人の心の琴線にふれるイエスの顔を求め、福音を生きる

会員作品とエッセイ(*主宰コメント)

稲城市  石川れい子
古池や虚子翁しのぶ今朝の冬
姉妹小春日和に母となり
冬日和スカイツリーよ稲城より
番傘に時雨打つ音たのしめり
木の葉髪一気に白となりにけり

主宰「求道俳句集」選
美しく泣く人でした死者の月
冬晴れをゆるり歩めるイエスかな
黄落に埋もれる傘の柄の長さ

*⑤老病死は人間の定めとしても、私たちの実存のなかでは簡単に受け入れられるものではないでしょう。しかし、その受け入れ難い気持ちをそのまま受け取ってくださる主がいる・・・・。


八王子市  フランシスカ井上
切株の若芽が伸びて輝ける希望ここよりイザヤの預言
汚れたる女まるごと受け入れるホセアの愛は神に倣いて
残照に工場の屋根神々し一日の汗謝して家路へ

*②ここにも「受け入れる愛」が語られています。私たちが受け入れるより前に、主が先に。


名古屋市  片岡惇子
燃えもせず落ち葉したる条理かな
治まりし海を眺めて山粧う
喪失の心刈り取り刈田かな
山眠る川音黙し流るのみ
蜘蛛の網に我が自我架かり初時雨

*釜石での傾聴ボランティアご苦労様です。前面に出て行く愛も大切でしょうが、ここにも相手の悲しみにひたすら耳を傾け、寄り添う――受け入れる尊い愛があります。


大和市  佐藤悦子
小春日や訪れ給う諸聖人
行く秋のすじ雲天の梯子かな
なれかしの聖母に倣う南無アッバ
世の闇にオプティミズムや南無アッバ
どなたさま木枯らしトントン南無アッバ

*病や死を思うとき、お手紙にあった、フランシスコや正岡子規、そしてビートルズのLet it beなど「信仰の楽観主義」を思い巡らされた由。死者の月にふさわしい祈りとなったことでしょう。


豊田市 佐藤淡丘
琴線にふるる高さや石蕗の花
けふの声張りて美し冬に入る
行き悩むなほも途上か鰯雲
白障子瞬間よぎる鳥の影
土の道踏めば匂ひぬ冬隣

   土の道
 土の道は正直である。野池を巡る一周七〇〇メートルの道は、今も頑なに土で守られている。午前四時半、この日の一歩を記す。心地よい音が身体に伝わる。暗い池面に街灯が映り、月影の白い道はさまざまな表情をみせて私を誘う、「歩き続けよ」と。幼いときの遠い道の再現。まさに楽しからずやである。南無アッバ、南無アッバ、南無アッバ。

*「土」といえば、今は放射能除染の問題が思い浮かんでしまいます。アスファルトに囲まれた生活のなかで、「土の道」は私たちに、ほっとする心を与えてくれていたことに、気づかされます。


京都市  瀧野悦子
通勤のカバンふくらむ十二月
冬うらら腹を隠さぬ布袋さま
高僧のご飯みそ汁冬ぬくし
百度踏む背に冬日の豊かなり
合格の絵馬をかかげし旅行生

*神社仏閣の町にお住まいの作者。宗教のちがいをこえて、人々の正直な願いと祈りに触れるチャンスも多いことでしょう。年の瀬に向けて思いを共有。


一宮市  西川珪子
天のもの夕日あかあか鰯雲
えのころに集まるやさしき風のあり
看取る人看取られる人雁の夜
ちちろ虫哀しきまでに吾を呼ぶ
満月の兎を探す私がをり

*華道・茶道の道でもお忙しくされている作者。「やさしさ」のなかに「哀しみ」のちょっぴり覗く佳作。


秦野市  長谷川末子
 小春日
行き交う人の挨拶が/子供の声が聞えます/山茶花、紅葉風に舞う/石蕗の黄色に戻り花/四季の恵みも年の瀬も/知っているから有難い/夜の三日月絹の様

*「知っている」主体が、作者ご本人のようで、よく読んでみると、草花や自然なのかな、と思えてくる。やがて、ああ、アッバこそがすべてを知って取り計らわれているのだと・・・・。


蓮田市  平田栄一
葦の芽に古事記の人は神を想いB・パスカルは人を想いき
携帯をいじる人かとよく見ればロザリオの珠まさぐりおりぬ

寄贈誌より

「日矢」五六二号  新堀邦司
月下美人開くや月は天心に
草千里色なき風の渡りけり
ちちははの星のまたたく星月夜

*②「色なき」ゆえに草木を生かし私たちを生かす余白となってくださった方。


「野守」四六号  大木孝子
ほつかりと老いたし日蓮さま秋
死はめでたしめでたし鉦叩く秋
水笛のひゆるるひゆるると秋の果

*②「死はめでたし」と言えるまでにアッバへの信頼をこそ求める。


『幼きイエズスの聖テレジアの教訓と思い出』覚書4
  何も頼ってはなりません
テレジア童貞は自分の信心を養うために、聖書の言葉や文句を思い起こすのが常だった。
「私もそうしたいのですけれど、記憶が悪くて!」と私は彼女に言った。
――ほら、もう富を所有したがっています。自分のものが欲しいのです。それに寄りかかるのは灼熱した鉄に寄りかかるのと同様です。やけどをします。何にも、信心の助けとなるものにも頼らないことが必要です。なんにもない、それが真理です。それは望みも、喜びに対する希望も持たないことです。そうすればどんなに幸福でしょう。「すべてを投げうち、おのれを捨て全く自分というものから抜け出して、少しも自愛心を残さぬ者を、だれか見いだすことができようか。こういう人は、極めて遠く地の果まで探しに行かねばならない」(キリストの模倣二巻十一章4)とキリストの模倣は言っています。極めて遠く、すなわち極めて低い所に、自己評価において極めて低く、謙そんによって極めて低く。極めて低いとは、ごく小さい人のことを言っているのです。(三二~三三頁)

*私たちにとって「何にも、信心の助けになるものにも頼らない」とは、なかなか厳しい言葉です。
そもそも最初に、「テレジア童貞は自分の信心を養うために、聖書の言葉や文句を思い起こすのが常だった」といっています。そうするとテレジアは、自分ではしていることを他人には禁止する、という矛盾をおかしているのでしょうか。

繰り返し読んでみるとこの箇所はそういう趣旨ではないようです。どんなに良いと思われるもの――ここでは「記憶」や「信心業」など――であれ、より多く所有しようとする貪り=利己心への注意ということが一つ。
そしてもう一つは、他者と比較して「あれが欲しい」「だが、自分にはない」と羨ましがり、嫉妬することの不幸を指摘しているように思います。

「極めて遠く、謙そんによって極めて低い、ごく小さい人」とは、今あるがままで充足し、アッバに感謝し、信頼し続ける人のことではないでしょうか。(つづく・余白)


求道詩歌日録(ブログより):平田栄一
主の御名を呼ぶ者は皆救われる冬晴れに聞く子らの歓声  (ローマ10:9-18)
11.30 みじめであればあるほど神様は慈しんでくださいます。(リジューのテレジア)
「はい、主よ」とはっきり答える盲人の目は開けたり冬の雨降る  (マタイ9:27-31)
12.02 ここ二日寒い雨が降ります。皆様お体お大事に。またいずれ、暖かくなるでしょう。次号「余白の風」編集中。
神の義は神の賜わる義なるべしルターは愛の神を見つけり
12.04「キリスト者の自由」第七節まで読む。昼過ぎても富士山がはっきり見える。
一途なる信頼だけが求道者の為すべき業とルターは言えり    (ルカ5:17-26)
12.05 病者本人であれ、知人であれ、このペリコーペは、イエスがいる家の「屋根に上って瓦をはがす」までしても、主を信頼したことが、称賛されている。「イエスはその人たちの信仰を見て」癒された。
皆様、どうぞ良いクリスマス&新年を。南無アッバ。


南無アッバの集い&平田講座十二月十七日(土)
「余白の風」入会案内=サイドバー参照

category: 求道詩歌誌「余白の風」

thread: 宗教・信仰

janre: 学問・文化・芸術

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平田栄一の本

南無アッバの集い&平田講座

求道詩歌誌「余白の風」

最後の南無アッバミサ

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