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求道俳句とキリスト教「余白の風」第143号  

A4プリント版ご希望の方はメールください。

2007年11月発行
Copyright © 2005 余白こと平田栄一, All rights  reserved.

主宰作品  蓮田市 平田栄一

洗礼者聖ヨハネ誕生祭 ルカ1・57~66

  寂しさは何の先駆けヨハネ祭


お迎え マタイ8・5~17

  御使いを笑みでもてなす木下闇


聖トマ使徒祝日 ヨハネ20・24~29

  わだかまり解けて月指すトマの指

 
居眠り ルカ9・51~62

  狐に穴鳥に巣のある夏夕べ


ヨナが三日三晩 マタイ12・38~42

  五月闇大魚の腹の暗さより


聖ヤコブ使徒祝日 マタイ20・20~28

  喜々として通える塾やヤコブ祭


今月の作品とエッセイ(*余白)

秦野市  長谷川末子

満月を見ていたら
虫が唱和したよ
満月を見ていたら
呼吸が聞こえるよ
満月を見ていたら
孤独と感謝で
ごちゃごちゃになったよ


  野紺菊頬を寄せ合う道祖神

  ほむら立つ畔に畠に彼岸花

  啼きあいて塒に急ぐ秋の暮

  爛漫も今日は桜紅葉かな

  虫食いの桜紅葉や空は藍


*「満月」の詩、月の様子ひとつで、さまざまなものが見えてくる。よく、虫の声を聞くのに、日本人と欧米人では、左右の脳の働きが違う、といいますが、いかに、自然とわたしたちが切り離せないかを、実感します。三句目、「塒」=ねぐら。


豊田市  佐藤淡丘

  コスモスやけふもふんわり観覧車

  枝折戸のうしろ姿やこぼれ萩

  白き道月下いちずにひと問はむ

  椎の実や面影拾ふ道すがら

  夜を次いで曙光に集ふ鰯雲


先回ボランティアの一環として、紙芝居を演じていることを書いたことがありますが、この度或るお方が少し古くなった紙芝居を束にして、寄付して下さり、その中に「芭蕉」と題した厚手の紙に、美しい絵模様で描かれた本格的な代物が入っていました。(ほるぷの紙芝居)

これはいいぞ、と思い、施設内でご披露したのでありますが、演者が悪かったせいもありましょうか、内容が少し難解なところもあり、余り受けませんでした。

そこで一計を案じ、この度新たに所属した俳句結社(『深海』中村正幸氏主宰)の少人数の句会を利用させてもらい、これを再度演ずることに致しました。

二十二場面、芭蕉の「奥の細道」を主体に、その生涯が描かれており、文語体と精緻な絵に支えられ、演ずる程にボルテージは上がる一方でした。

その間約十分、終巻は、彼我一体、自分で言うのもおかしいですが、講談を語り終えた気分に浸りました。

因みに最後のページは、次のように書かれています。(脚本、堀尾青史氏。絵画、西正世志氏)

『芸術の道というのは、さみしい情け容赦もないのです。そして芸術家は自分の命をなげ出して、まつしぐらに進んでゆかなければなりません。芭蕉は本当の芸術とはどんなものであるか、身を以って示した大芸術家の一人であります』(おわり)と・・・・。

*どうやら「彼我一体」の芸術の道は、俳句、紙芝居・・・・扱う材料を問わず、日本にはどこにでもひそんでいそうですね。

「一筋の道」が、大悟に至る。まこと自在な、憧れの世界です。作品では三句目の「いちず」さがとくに印象的。


 練馬区  魚住るみ子

  七夕や小さき願い風に揺る

  労わられのぼる石段梅雨曇り

「こみち」二三四号より

*一句目が童心、二句目が老いを意識した句で、詩心自在。このほか短歌作品も印象的でした。


名古屋市  片岡惇子

  冬瓜や丸だ四角だ言い切れず

  曼珠沙華空なる墓に女たち

  萩こぼる母の涙は見えずとも

  ノアの舟秋蝶も乗せ時を待つ

  烏瓜夕日よりなお赤く在り


*「夢か現か」といいますが、ちょうど聖書世界は、史実と真実が折り混ざっていますね。

「冬瓜」は「丸」か「四角」か、「空なる墓」の意味するものは、「烏瓜」と「夕日」の赤さは等々、夢現の自在な境地を読み込んでいる佳品です。


ミシガン州  いう

  胡桃もて右へ左のりすの秋

  せつなさの淡く色付く楓かな

  虫の声聞くや異人であり続け

  わかったように土砂降り雨の月

  虫の音や追えども一歩追い付かず

  山の無い州や秋空どこまでも

*上でも描きましたが、「虫の声(音)」をどう聞くかをはじめ、どんなに長い外国生活でも、日本人としての血は変わらない。ただ、環境が変われば当然、物事の捉え方も少しずつ変化するものでしょう。

そこに新しい、いうさん独自の作品世界が展開するものと、楽しみにしています。


主宰著作『心の琴線に触れるイエス』(聖母文庫 五二五円)、『俳句でキリスト教』(サンパウロ 一六八〇円)、『雨音のなかに』(ヨルダン社 一三六五円)、『人の思いをこえて』(同 一六八〇円)ほか。


「死者の月に思う」:平田栄一

皆様こんにちは、ミサ前に、すこしお話させていただきます。
十一月は、ご存知のとおり、カトリックでは「死者の月」になっていますね。仏教でいえば、お盆にあたるのではないかと思います。

いきなり私事で恐縮なのですが、私の実家は、大きな神棚や仏壇を置いていた家でして、小さい頃は、お盆やお彼岸になりますと、父母に連れられて、お墓参りに、よく行かされました。

うちのお墓は、埼玉県の川口市――わたしは生まれも育ちも川口なんですが、その、とある如意輪観音堂の、外目にはなんの変哲もない小さな墓地です。

子供のころは、もっと遊んでいたいのに、お墓参りに行く日――たとえばお盆に、祖先の霊を「迎え」「送り」する日の夕方になりますと、ちょうちんを持たされて、祖母や父母と、また親戚の叔母などもいっしょに出かけたわけです。

そのときちょうちんの火が、風に消えそうになって、心細い――なにか、子供心に人生のはかなさのようなものを、感じた記憶があります。実際、ほんとうに風でちょうちんの灯が消えてしまうこともあるんですね。

そういう時は、となりを歩いてる父母や祖母から火をもらうことになります。すると、ちょうちんがふわあぁと、いっぺんに明るくなりまして、ほっとしたものです。

こんなことを思っているとき、井上神父さまの詩集のなかで、目に留まったのが、『南無アッバ』のなかの、「お墓まいり」という詩でした。

おてもとのプリントをごらんください。41ページにあります。
ちょっと読ませていただきます。

 ――お墓まいり――

そぼふる小雨のなか
 父母の遺骨は
  しずかに
 墓の下に眠っていた

 焼夷弾 火災
 疎開  老い
ほんとに ご苦労さまでした

かさをさしながら
  不器用な手つきで
   かたわらの姉と
   そろって野菊をささげる
  この吸いこまれるような
    晩秋のひととき

 アッバ アッバ
   アッバ・・・・

 一九九七年 十一月十四日  府中墓地にて


最後の方の「姉」というのは、今日もいらしていますけれど、当然、シスター井上ですよね(笑)。

先ほど、ごミサの前に、シスターに「今日はこの詩を使わせていただくんです」と申し上げましたら、「わたしも一番好きな詩なんです」と言ってくださり、「ああ、よかったなあ」と思った次第です。

『風』今号には、山根さんが三田文学で発表された「井上洋治と遠藤周作――魂への故郷の旅」というすばらしい文章が載っていますが、お二人のお父様やお母様のことが、書かれていますね。

また、わたしも連載の一部で取り上げさせていただきましたが、井上神父様の自伝『余白の旅』ほかには、神父様が小さい頃、お母様と手をつないで夕焼けを、飽かず眺めていた思い出が、書かれています。

お父様のことも、神父様――当時の井上青年が長じて、カルメル会に入るため、フランスに渡るときのお別れのシーンが、長くはありませんが、それだけに、非常に印象的に書かれています。

四五ページです。これも、ちょっとお読みします。
(朗読)引用略

このように、短いですけれども、目に浮かぶような印象的な光景です。さきほどの詩のなかに、「不器用な手つきで」という表現がありましたね。

そこをわたしは、井上神父様が、ご尊父のお墓の前に立ったとき、もしかしたら、あのお別れのシーンを思い出されたのかもしれない、そんな風に勝手に想像したのです。

すなわち、親の気持が、わかっていながら、それでも何かに引っ張られるように、「これしかないという、ぎりぎりのところで」自分の進路を決めていく井上青年・・・・そのときの葛藤といいますか、ご尊父への申し訳なさといいますか・・・・そういう気持ちを思い出されたのではないか、と思ったのです。

現在わたしは、勤務校で、進路指導を担当しているのですが、三者面談などやっていますと、親子の意見が対立して、なかなか調整がつかない、そういうときの親離れしていく子供の気持ち、子離れしていく親御さんの気持ちは、時代が変わっても同じなんだなあ、と思うのです。

わたし自身も、自分の子供に、「こんなに、いっしょうけんめい育てたのに、なんでお前たちは、親の気持がわかんないんだ!」と、恩を着せたくなるようなことがあるのですが、振り返ってみると、他方ではわたし自身子供として、まだまだ親の気持ちがわかっていない、老いた両親に、親不孝をしているなあ、と反省させられます。

先日、久しぶりに、一人で、先ほど申し上げた実家の墓地へ、わたしもお墓参りに行ってきました。わたしの父母は、幸いいまだ健在ですが、祖母はとっくになくなっております。

でも、墓前に向かったとき、あの昔のお墓参りの記憶がよみがえってきて、ああ、ご先祖様となにか深く暖かく、みんな、今でも、つながっているんだなあ、とそのときふと、感じたのです。

さらに、若い頃は関心もなかったのですが、この観音堂は、どうやら、近隣の隠れキリシタンが、その昔、集会をもっていたのではないか、とかともいわれています。

知らずに、お墓参りをしていたお御堂に、自分と同じキリスト教を生きた信仰の大先輩人たちも、集っていた、ということを思うと、なにか、血のつながったご先祖だけでなく、多くの死者-死んだ人たちが、見守ってくれているんだなあ、と有難くなります。

こういう実感といいますか、感覚が、西欧の人たちにも、どのくかい共通なものか、わかりませんが、いま自分のこの血の流れる身体や思いや信仰を形作ったものは何か、と考えますと、けっして自分のひとりの努力ではない。

そもそも努力の種そのものが、与えられたものではないか、と思うのです。

それは、今このように、ともに生きている人々や父母はもちろん、ご先祖や、信仰を共にし、あるいは共にしなくても、つながっていた人々、さらに、意識しないところでも、わたしの人生に影響を与えてくれている

――遠藤先生流にいえば「横切った」人や自然、そういうもの、そういう方たちのお陰――祈りのおかげではないのか、思います。

逆にいえば、わたし自身も、だれかれになんらか、影響を与えているということ。お互い与え合っている。良い影響もあるかもしれませんが、これはちょっとまずいなあ、罪深いなあ、という影響も、不完全な人間ですから、お互いあるかもしれない。

けれども、その大元のところでは、アッバが、しっかり見守っていてくださる・・・・わたしたちキリスト者は、そう信じています。

先ほどお読みした詩の、最後の所、「吸い込まれるような晩秋のひととき」と受身になっていますが、だれに吸い込まれるのだ、と問うなら、それは、アッバである。

ですから、どこに吸い込まれるのか、と問うなら、それはけっして、底無しの暗闇というものではなくて、光にということ。

ちょうど、やはり今号の「風」に、井上神父様が「漂流-南無アッバまで」と題して、「南無アッバの祈りの岸辺に流れ着くまでに、アッバが私のために用意しておいてくださった、数多くの感謝の思いを捧げたい方々――」と、書き始められています。

 人生、いろいろな人に出会いますが、そういう人を「用意してくださる」のは、アッバなんだ、アッバが主役なんだ、とおっしゃっているのです。主語は、あくまでアッバです。

そのなかでわたしたちは、自分に与えられた役を、精一杯演じればいいんだ、そういう安心、信頼を新たにしまして、この「死者の月」をともに過していきたいと思います。

どうもありがとうございました。
(アッバミサ前講話 十一月三日於四ツ谷ニコラバレ聖堂)

録音が聞けますhttp://yohaku5.blog6.fc2.com/blog-entry-961.html

後記
ちょっと気が付いたので、この場で確認しておきますが、わたしは「求道俳句」(最近は時代がかって、「スピリチュアル俳句」などと言ったりしていますが)なるものを提唱しているので、よく「それはどういうものですか?」と質問を受けます。

そもそも、「俳句」という言葉の中には、とくに芭蕉(の俳諧)以来、「道を求める」という要素が入っているわけですから、いまさら「道」をいわなくてもいいではないか、とも言えるわけです。

そこをあえて「求道」としたのは、俳句における「道」の要素、もっと端的には、「生き方の模索」という要素を、意識する句作、としたかったからです。

しかしこれとて、肩肘張って意識する、というのは、どうにも不自然でぎこちなくもなりましょうし、無意識に、という要素だってあると思います。ですから、出来上がった形ではない。

今号の作品でいえば、巻頭のわたしの句群は、前書きを見ても、使われている言葉を見ても、まあ、「求道俳句」といえるかもしれません。

しかしそこに、ほんとうに、「道を求める」要素が、読者にどれほど感じていただけるかは、人それぞれでしょう。

「こんなものは、ただの言葉遊びだ」という評価だってありえるわけです。

逆に、わたし以外の今月作品の多くは、直接的には聖書や宗教用語からの使用は少ない。俳句の雑誌にどうどう載せられる、一般読者にわかるものがほとんどです。

でも、わたしに言わせれば、これらは、みな「求道俳句」です。そもそもこの場に出された途端に、「求道俳句」になる、といってもいい。

要は、作る側か読む側の受けとり方の問題なのだと思います。

――――――――――――――――
本誌「余白の風」(1990年創刊)は俳句を中心として、日本人の心情でとらえたキリスト信仰を模索するための機関誌です。

毎月発行しています。どなたでもご自由に投句・感想等をお寄せください。(採否主宰一任)会費無料。

○投稿先:ホームページ「今を生きることば」

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