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求道俳句とキリスト教「余白の風」第140号 07.8.10  

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「麦」八月号より  蓮田市 平田 栄一

菜の花の黄のまぶしさを哀しめり
大放屁してから春の床を出る
貪らぬ愛というもの春の川
暗くなる灯心囲む夏帽子
満開の桜を抜けて告解す
受難日の厨に粥の湯気満ちて


澄んだ空  ミシガン州 デイビスいう

子らの目も澄み聖日の風涼し
子のあくびうつりて午後の夏蒲団
とがめては目にややまぶしダリヤかな
万緑は時ゆるされて天臨む    マタイ13:24-30
あふれくる乳や裸子せがむれば ルカ11・1-13
涼風や猫の足音朝軽し
吾子の目は葉柳映すまでになり
夕暮れの蛍まばらに恋の果て
道半ば過ぎて記憶の棚卸し  マタイ13・47-53
踏み惑いそれと知らずに薄荷草    13・54-58

赤ちゃん二ヶ月。夜も寝るようになり、私もだいぶ落ち着きました。自分を取り戻してきました。湿気のない夏の空にくっきりと木々の葉が浮かんでいます。また詩心が戻ってくるといいなあ。これからもよろしくお願いします!


秦野市  長谷川末子

遠花火 米代稼ぐ 日々のあり
トントンと網戸の修理背を丸め
忍び足子等の見上げる蝉時雨
夕立来る恵みの中に今ありて
朝顔にミクロの蕾主の恵み


Pieta        
             服部 剛
暗闇に立つ
金の門を抜けると 
石段を下りた洞穴に 
横たわる棺があり 
三日前に死んだその人は 
音も無く立ち上がる 

茨の冠を額に巻き 
槍に刺された血痕の脇腹と 
釘を打たれた両手を広げ 
穴をこちらに見せながら 
静かに瞳を閉じている 

その頃 
師を裏切って 
蜘蛛の子を散らすように 
逃げた弟子達は 
自らの卑弱な心に俯(うつむ)いて 
危険を逃れた隠れ家で 
互いの視線を合わさず 
それぞれに丸めた肩を
震わせていた 

( 出来の悪い弟子の私にさえ 
( うらぶれた町の娼婦にさえ
( 柔和な言葉を語りかけてくれた
( あの人はもういない・・・

いたたまれずに
立ち上がったその弟子は 
隠れ家の木の扉から
裸足のまま飛び出し 
曇天の空の下に広がる
音の無い村の家々を抜けて 
涙目で歪んだ顔のまま 
死んでしまったその人の眠る 
洞穴へと走った 

村を抜けた荒地を覆う  
曇天の空の下に立つ 
金色の門を抜けて 
石段を下りた暗闇に入り 
弟子は棺の前に立った 

蓋の開いた中は 
その人が身に纏っていた 
血染めの布が置かれ 
そこには誰も 
いなかった 


余白寸評:いう氏、ご出産前のいう調が戻ってきてうれしいです。四句目「万緑や」の方がいいかも。末子氏、何気ない生活の一風景に、アッバの温もりをしっかり見届けている幸せ。1句目、字空けは不要かも。服部氏、淡々とした語り口のなかに、主を見捨てた弟子たちの複雑な心境を、一読わかりやすく表現している。若い詩人の前途に希望。


高校倫理「キリスト教」授業録1 平田栄一

一 将来が心配

ぼくは年度末になると毎年不思議な気分になります。長いようで短かった一年間の授業がともかくも終わったというあんどかん安堵感。それから、もっとああすればよかった、こうすべきだったという後悔と反省。そして、これから始まろうとする新しい学期への期待と不安・・・・そういう感情が入り交じった複雑な心境です。

高校三年生になったきみたちはどうですか? 
やっぱりこの時期、多くの人たちにとって最大の関心事は〝進路〟じゃないですか? 進学するにしても就職するにしても、これからは今までのように〝ともだちとおんなじ〟というわけにはいかない。自分で自分のことを決めなきゃならない。

それに、首尾よく進路実現したとしても、そこで自分はうまくやっていけるだろうか・・・・そういう不安が期待とともに強くなっていく。そのうえ、なかには、家庭やからだ、病気の悩みを抱えている人だっているかもしれない・・・・人生、たいへんだよね。

でも、子供はいつまでも子供でいるわけにはいかない。いずれ、大人にならなければならない。「大人になる」ってことは、その場その場じゃなくて、将来に見通しをつけて行動できる、ってことだね。ということは、先々を考えて、当然、心配や不安も増えてくる。

だから、自分だけが不安なのだと思わないでください。みんな大人になれば、心配も増してくるものなのです。
        *
先日、数年前に卒業した教え子から久しぶりに連絡をもらいました。彼女は大学生活を終えて、この四月から社会人になりました。彼女が君たちと同じ高校三年生のとき、ぼくは彼女のクラスの「倫理」を受け持ったんです。それがきっかけで、彼女の受験のために、小論文を見てやるようになって、だんだんいろんなことを話すようになりました。

今回の分厚い手紙には、大学側のすすめもあって受けた中堅の金融会社に就職が内定し、ひと安心したこと、でもその後の入社研修で、内定時には知らされていなかった早出や残業が当然のことのようにあると聞き、心身とも弱い自分がそうした厳しい環境の中で果たしてやっていけるのかどうか不安になったこと、などが書かれていました。

二 生きる意味を問う

その上で、「人間はこうしてがむしゃらに働いて、老いて死んでいくのでしょうか。そういう人生に何の意味があるのか改めてわからなくなりました・・・・」と手紙を結んでいました。

ここで「改めて」と彼女が言っているのは、高校在学中にも何度か〝人生の意味〟といったことについて悩み、相談を受けたことがあったからです。今はむしろこういう学生は少なくなっているのかもしれませんが、そのときどきの楽しみや遊びを見つけて、それで何の疑問も悩みもなく一生暮らせるかどうか・・・・むしろ彼女のような問題意識は、大人になる過程で、だれでもいつか一度は持たざるをえないのではないでしょうか。そうした意味では、彼女の直面している問題は、ひとり彼女だけのものではなく、ぼくらみんなの問題でもあるといえます。(続く)


八月四日アッバミサ報告

 梅雨明けの猛暑の中、井上洋治・伊藤幸史神父様司式による、アッバミサが行われました。

 福音朗読は『ルカによる福音書』一〇章「マルタとマリア」。以下、井上神父様のお説教要旨――マルタの活動、マリアの祈り、共にそれぞれの役割がある。他人と自分の役割を比較したり羨ましがったりせず、私たちもそれぞれ、アッバから与えられた役割を受け入れて、それをまっとうしましょう。

 荒井献先生によれば、このマリアが「主の足もとに座って」(三九節)という表現は、イエスの「門下」=正式な弟子であったことを意味するという。極端な男尊女卑の当時の社会にあって、このイエスの差別のないまなざしは、驚嘆すべきものである。(文責:平田)

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平田栄一著『心の琴線に触れるイエス』(聖母文庫)―井上神父の言葉に出会う―五二五円:体験的井上神学入門書。
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本誌「余白の風」(1990年創刊)は俳句を中心として、日本人の心情でとらえたキリスト信仰を模索するための機関誌です。毎月発行しています。どなたでもご自由に投句・感想等をお寄せください。(採否主宰一任)

投稿先:ホームページ「今を生きることば」
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