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神の御心を行うということは  

『マタイによる福音書』7:21,24-27より。
イエスは、山上の説教の結びとして、どんなに預言や奇跡を行っても(22)、アッバの御心=愛が実行されなければ、天の国には入れない、といいます。
当時のマタイ共同体の状況からの警告でしょう。

しかし気をつけなければいけません。
「愛の実行」の形だけを焦り追い求めれば、それこそイエスが最も危険視した偽善者、形式主義に陥るからです。
事実こうした強迫観念に駆られ、病み、疲れ果ててしまった、真面目なキリスト者たちを、わたしは数多く知っています。

イエスの言葉に忠実に従いたい、という気持ちは、キリスト者として当然でしょう。
しかし、「愛の実行」を焦る心の奥底には、自分が正しい人間であると認められたい、また自認したいというエゴイズムがひそんではいないでしょうか?

どんな形でも、心が伴わなければ、真の実りとはなりません。
私たちのなすべきは、まず、相手の悲しみや苦しみを、写し取る心を願うことです。
おすすめ:「風の家の祈り」をご参照ください。

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category: 今日、心に残った言葉

thread: 聖書・キリスト教

janre: 学問・文化・芸術

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コメント

人が天をもとめるのはなぜだろうとおもいました。

sublate #- | URL
2005/12/01 14:56 | edit

共感ということ

>どんな形でも、心が伴わなければ、真の実りとはなりません。私たちのなすべきは、まず、相手の悲しみや苦しみを、写し取る心を願うことです

先日、お葬式(にあたる会)がありました。日本人もアメリカ人も出席していました。

帰ってきてから、お葬式のことや、なくなった赤ちゃんやご家族のことなど話し合っていたのですが、日米で、悼みかたがちょっと違うのかな、と。

どちらがいい悪いではないことだとは知りながら、また、なんとも説明のつかぬ悶々とした思いに取り付かれています。


この、相手の気持ちを写し取るということ。

日本では、美しい人間関係のあり方なのだと思います。そして私は、そういう人間になりたいと思う。(実際そうじゃないからよりいっそうそう思うわけです)

でも、そういうあり方を理想としない(というか・・・)そんな社会もある・・・。だからといって人間的に冷たいというわけじゃない。それはわかっているのですが・・・。


・・・具体的に言えないです。

うまく伝えることができるかわからないのですが、一応。


例えば、「子供を持っているお母さんたちはショックも大きい(自分だったら・・・、と思ったりして、ご家族の悲しみの大きさは大変なものだろうと推測する)」とか「こちらも悲しい思いややりきれない思いがしてつらくなる(人がいる、自分も含めて)」というようなことを言うと、違和感のある反応が返ってきます。

よっぽどの親友でない限り、そういう思い方はしない(だろう)というのですbyだんな君。

多分、自分まで同じように思おうと努力することが、わからないのだと思います。

ただ、話したのはだんな君と、やはりアメリカ人の夫をもつ日本人の友人数人なので、全体としていえません。他のアメリカの人にも機会があったら聞いてみたいのですが・・・。


日本では、悼み方から、人間関係のあり方や、果ては社会問題の報道の仕方や解決の仕方まで、「相手の身になる」理想が影響しているので、いいことと、行きすぎや勘違いで悪いこともあります。

例えば、いじめや差別問題を無くそうとするとき、日本では相手の身になって考えましょう、というアプローチをする。いじめられた人、差別された人はこんな気持ちなのです、と心情に訴える方法を取る。

アメリカでは、それは「違法(あるいはルール違反)」だ、とやる。(そうだからこそ、解決されている部分も多く、日本も見習うべきことはたくさんあるのは確かです。)


そもそも、共感、というのを信じていないと思えることが、アメリカでは多くあります。相手の気持ちを推し量ることが理想の社会で育ってきた私にとって、これは、ちょっと複雑です。


しかし、やはりイエスの生き方に照らしてみたとき、

「私たちのなすべきは、まず、相手の悲しみや苦しみを、写し取る心を願うことです」

これは、本当にそうだと感じます。

(もちろん、ポイントは、「写し取る心を願うことです」にあるのですよね。写し取ることはできるかどうかわからない。でも、願う。それなら私にもできるかもしれません。)


余白さんの記事に大いに共感、そしてそうありたいと思います。・・・思うのですが、なんともいいがたい、複雑な気持ちの今。こういう違和感を抱いたまま、こちらに暮らしていって、いつかはここで死ぬのかなと思うと、自分の気持ちをどうもっていったらいいのかと思います。

いう #dfWVfM6A | URL
2005/12/02 03:18 | edit

相手の悲しみや苦しみを、写し取る心

『相手の悲しみや苦しみを写し取る心』ってそう簡単には養われないと思います。だから・・願う、願ってそうなれるように努力する、自分にないものを感じ取れる心を成長させられるように?でしょうか・・。
でも疑問なのは(いうさん)も書いておられるように
文化の違いや育った環境?はたまた人間性?の違いで
そういう風に思わない〈相手の悲しみや苦しみを感じ取ることを必要だと感じない〉人たちもいるし、その人たちとの関わり方に複雑な心境を持ってしまう・・ということでしょうか・・。
もちろん、人がみんなこうあるべきである・・とか
こう感じないからけしからん・・というわけでなくても、『なぜ、この状況でこんな言葉や行動があなた達はとれてしまうの・・?』って疑問を感じることは多々あります。〈いうさん)のようにアメリカに暮らしていなくてもです。日本人どうしでも、親子夫婦であってもです。
私が最近思う事はどんなに社会的に成功していて表面上は地位もあったり、仕事ができたり、立派にみえる人たちも、心が伴わない言動でその人たちの真実がわかってしまうということです。そして、そんな人達にある意味幻滅してしまう自分がいます。
人間は弱さををもっていますから勿論気がつかないこともあるでしょうし、共感できる心が育ってない場合もあるでしょうが、せめて、自分のそんな部分には気がついていて、そんな足りない自分の心を祈る謙虚さは持っていたいと思うのです。

ヨハンナ #Nj7KJdKE | URL
2005/12/02 09:42 | edit

二つのアプローチ

いうさん、ヨハンナさん、ありがとうございます。
深い問題ですね。
根底に、欧米の契約社会的な発想、理性重視の発想への違和感が、わたしたちにあるのだと思います。
「喜ぶ人と喜び、泣く人と泣く」そんなことをしていたら、しかるべき愛も実行できない、という批判もあるかもしれません。
もっと冷静に「正しい愛の実行を」というふうに。。。

しかし、私たちは日本人として否応なく生きざるを得ない。
どちらが正しいか間違っているかではなく、愛へのアプローチの違いなのだと思います。

ヨハンナさんがおっしゃるように、
>『相手の悲しみや苦しみを写し取る心』ってそう簡単には養われないと思います。<
ある意味、理性主義で割り切るより、ずっと難しい、、、心の内面の変化を願うわけですから。。。
そういう非常に困難な道であっても、そういうアプローチが日本人キリスト者の生き方としてマッチしていると、わたしには思えるのです。

余白 #oBO5MkqQ | URL
2005/12/02 11:30 | edit

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