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スピリチュアル俳句「余白の風」第139号  

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求道俳句とキリスト教
2007.7/18発行
Copyright © 2005 余白こと平田栄一, All rights reserved.

キリストの傷を洗いし花の雨  栄一

入選作品とエッセイ
          豊田市 佐藤淡丘
夏落葉いのちのかぎり叫びをり 
竹の皮脱ぐたび生家古びたり
あぢさゐの毬を撫でゆく青童子
木下闇ふとのぞきみて子ら入らず
紫陽花の門を擦り来る往診医

ここ数年来、主なる神に祈る場所を探し当て、一人悦に入っています。七十男の性(さが)と云いますと、「早寝・早起き」。午前四時半に静かに家を出て、裏山を目指して歩き始めます。

 約二十分、やがて小高い丘の上の展望広場に到達。十坪ほどの小さな場所には、東西南北を指し示す敷石とベンチがニ脚。まさに、誰もいない別天地。ときをりホトトギスが山裾から駆け上るように、せわしく啼き立てて、遠く北の方に去って行きます。

 はじめに天の父なる神に向ってご挨拶。跪いて「南無アッバ」。両方の手を空一杯に広げての一体感は、格別のものがあります。

 射祷を終えると、次は太極拳。先回の脚の骨折で重心がうまくとれないので、「八段錦」という作法を約二十分、有酸素運動で心身をリラックスさせます。ここまでくると、自然と生かされていることへの感謝の気持ちが澎湃として湧き上がってきます。

 再び跪いての感謝の祈りです。幸いこの間、誰もいないので、思う存分神さまとの対話ができるのです。まさに至福のひとときです。
「南無アッバ」と・・・・。

「こみち」7月号より 練馬区 魚住るみ子
もっともな嘘かな紅いチューリップ
 こころ
言の葉を深く畏みわがこころ回(めぐ)らせむ糧となりにけるかも

  秦野市 長谷川末子
台風に涙声するプラタナス
朝顔を取り乱したる暴風雨
台風のやや治まりて猫通る

今回の台風は沖縄、九州、四国他に大きい被害をもたらしました。避難された方々に多くの年寄りが居りました。少年一人も亡くなりました。地球温暖化が叫ばれて、小さい国や弱い立場の人が苦しんでいます。必要以上の要求を続けていれば、一握りの豊かな国と人が恩恵に預かり、沢山の貧しい人を積み上げてゆきます。

日本も若い世代に何を残すのでしょうか。とても心配になります。恥しい思いと無知の罪を深く感じる日々です。
                          同
老境を味わっている梅雨晴間 
こんなにも日々の幸せ合歓の花
発泡酒一缶程を喜びて

病める女                     
服部 剛
  貧しい村の群衆に紛れ 
  無数の足音の下を 
  痩せ細った 
  病める女が這っていた 

  低い目線の前に 
  舞う砂埃の向こうで 
  長い間-----  
  女が探し求めた 
  その人は 
  静かな足取りで歩いていた 

  忙しい無数の足と 
  砂埃を貫いて 
  血管の浮き出た白い手首を 
  必死に伸ばした指先は 
  静かに歩くその人の 
  衣の裾に 
  微かにふれた 

  ( 誰かが、わたしにふれた・・・ ) 

  群衆の渦の中で立ち止まり 
  振り返ったその人は 
  そっと腰を下ろし 
  今にも涙の溢れそうな 
  病める女の窪んだ瞳を
  じっと 見つめた 

  ひと時の間 
  その両手は長い黒髪を 
  包んでいた 

  その人と病める女の
  周りには
  沈黙する群衆の
  輪ができていた 

 「麦」七月号より    蓮田市 平田栄一
キリストの傷を洗いし花の雨
満開の桜を抜けて告解す
神の子のゆるり歩めり春火鉢
気がかりの一、二はあれど鳥雲に
気ばかりが急く仕事持ち春夕べ
桜蘂降れば易々転生す

寸評:淡丘氏、しっかりした有季定型のなかに、自然と一体となっている、人間の健気な姿を描写して見事。るみ子氏、関町教会誌の文芸欄を担当され、歌にも句にも、穏やかなお人柄がそのまま出ています。末子氏、前三句、他者の苦しみへの共感、後三句、小さな日常に小さな幸せを確かに見つけ、味わう才能の持ち主、いつも感心させられます。服部氏、福祉関係の厳しくお忙しい仕事を誠実にこなしつつ、詩嚢に豊かな言葉を紡いでおられる。(余白)

求道俳句の系譜(一)
幕末の放浪俳人・井上井月(せいげつ)は、種田山頭火より五十年ほど先輩に当たるが、一般には山頭火ほど知られてはいない。それは、山頭火に比べて、自分自身の作品を残そうという意欲が強くなかったこと、むしろ放浪俳人として生きることそのものに、己がアイデンティティを見出していた節があること、などのためであろう。

また、山頭火の自由律に対して、井月の作品は有季定型の伝統派である。そして、何よりの魅力は、山頭火が終生強い自己否定・自己嫌悪に苛まれたのに対し、井月はどこか飄々とした自己肯定・清清しさを感じさせられるということにある。

それはどうやら、芭蕉の生き方に魅せられ、習ったことから醸し出される雰囲気のように思われる。井月はとくに、『野ざらし紀行』に惹かれたという。

<そして何よりも感動したのは蕪村と同様に『野ざらし紀行』であった。
「野ざらしを心に風のしむ身かな・・・・」
克蔵(井月:引用者注)はこの一句を目にした瞬間、心を抉られるような感動と寂しさを覚えた。

「野ざらし・・・・。今の自分の心の中そのものを読んでいるような俳句ではないか」
 克蔵は、良寛の書物に示唆されて自分が追い求めてきた芭蕉の偉大さを、この一句で理解した。

「芭蕉翁を自分の心の拠り所として生きていこう」
 克蔵は、必死で芭蕉の句集を、文集を読んだ。>(江宮隆之著『井上井月伝説』より)。

 蕪村にしろ井月にしろ、彼らの志は、すなわち芭蕉への旅だったのではないか。「俳句は芭蕉に始まり芭蕉に終わる」とは、井上神父の弁である。

後記:余白
 どの方からも縦書きが好評なので、これからはこの形式に統一したいと思います。それから一号分の分量を、これも以前から決めては破りしてきたのですが、極力一定量=A4両面刷に統一したいと思います。また、活字も今までより大きめにしました。

 こうした配慮は、高齢の方を念頭においたものです。したがって、掲載作品も応募された中から精選ないし先送りさせていただくことがありますので、あしからずご了承ください。今後ともよろしくお願いいたします。
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本誌「余白の風」(1990年創刊)は俳句を中心として、日本人の心情でとらえたキリスト信仰を模索するための機関誌です。毎月発行しています。どなたでもご自由に投句・感想等をお寄せください。(採否主宰一任)

投稿先:ホームページ「今を生きることば」
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平田栄一著『心の琴線に触れるイエス』(聖母文庫)―井上神父の言葉に出会う―五二五円:体験的井上神学入門書。

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