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神の発見  

「現実が変わらなくとも、光が見えるのと、見えないのとでは、大変な違いです。それと同じように、信仰とは、遥か遠くに輝きながら、闇のなかで、寒さに凍える私たちを、支え導く光ではないかと思えたのです。その光が、私にとっては、神の発見だったのです。」(五木寛之著【神の発見】254頁)

この本のタイトルは、森一弘司教のこの言葉からとったものだろう。
学生時代に雪山で迷ったとき、遥かかなたに山小屋からもれる明かりを見て安心した、という体験から語ったものです。

わたしはこの言葉から二つのことを学びました。
1.神は実存の中で現れる
森司教の当の体験は、確かに大変危険なものだったでしょうが、山でなくても様々な限界状況のなかで、私たちは表面的には似たような体験をしているはずです。
病気、けが、試験・・・・自分ではにっちもさっちもいかない状況はいくらでも現実に転がっています。
しかしそこには、にわかに神は現れない、なかなか実感できない。
宗教的には森氏の体験は一種の「啓示」であり、信仰的には「賜物」といえるでしょうが、こうしたチャンスは日常、だれにでも起こり得るということです。
何かのきっかけで、神が実存的にかかわってくるということ。

2.信仰とは希望である
信仰を持てば病気が治る、いいことが起こる、というものじゃない。
たとえ「現実が変わらなくても、光が見える」ということは、ものすごく大事なことだということです。
信者でない人からよくある質問に、「信仰して何か変わった?」というのが多い。
くやしいけど、タナボタ式にうまい話はなかなかありません。
相変わらず弱いし、悪いことも考えるし。。。
でもやっぱり何か違うんですわ。
それが何か、と思っていたら、この「変わらなくても、見えると見えないじゃ大違い」の言葉に出会って、あーそーだ!と思ったのです。
この「光」というのは、「希望」ということでしょう。
今は相変わらず苦しいかもしれない。
でもかならずいつか、神様が「永遠の命」=幸福へと連れて行ってくれるんだ!
信仰の第一の恵みは、そういう、だれでもが欲し、わかる、単純なものなのだと思います。

キリスト信者は今日から待降節。
クリスマスまでイエスの誕生を待ち望む期間です。
イエスが「世の光」として希望を持てた当時の人たちは、皆が現実に癒されたり、貧しさや差別から解放されたわけではないでしょう。
しかし、「光」が来たこと、そのことを「福音」=良き知らせと受け取ったのです。
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コメント

「希望」という名の『光』

幼い頃、私はマンガで描かれていた
ある科学の本を読んでいて、その本に描かれていた
「色は『光』の反射によって、
多くの色が映し出され、みることができている。
ちなみに黒は『光』を吸収してしまう。
その証拠に『光』がなければ、
すべての色が黒(暗闇)となってしまう。」
という内容に子供ながらに、ハッとするような
感動を覚えたことを今でも鮮明に記憶しています。

だから『光』ってものスゴイものなんだな、と。
そして、その時初めて『光』の有難さを知りました。

故に『光』は永遠に
私たちの「希望」の源なんでしょうねー。。きっと。

NK #Km13rFBM | URL
2005/11/29 18:18 | edit

NHさん、ありがとうございます

そうですね。私たちの現実はなかなか変わったように見えなくても、必ずいつか・・・・と思えるのと、そうでないのとでは、元気の出方が違うと思いました。
「なーんだ、現実は何も変わらないじゃないか」という嘆きは、どこか奢りがあるように思えるのです。

余白 #oBO5MkqQ | URL
2005/11/30 09:01 | edit

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