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井上洋治神父が説く三位一体論について(10分講話:平田栄一)  

以下は、6月2日(土)四谷ニコラバレにて行われたアッバミサに先立って、平田が話した短い講話をもとにして、加筆・訂正をしたものです。

当日の生録音声をhttp://page.freett.com/yohaku5/から聞くことができます。


 みなさま、こんにちは。例月のとおり、これから、井上神父様によるアッバミサが、行われますが、それに先立ちまして、神父様が、何かお話を、とおっしゃいますので、僭越ですがわたくし平田の方から、少しお話しさせて頂きます。

 典礼暦では、今週は聖霊降臨の主日で始まりました。これで復活節が終わり、年間の暦に戻っています。そして、あした六月三日は、三位一体の主日。

さらに、その次六月一〇日は、キリストのご聖体の祭日。ということで、ちょうど教会の重要な教えを、次々に思い起こさせられる季節になっています。

 そこで本日は、あしたの三位一体の主日にちなみまして、少しこの教義について、触れたいと思います。

私は、神父様でも神学者でもありませんが、職場の、とくに、「倫理」とか「世界史」を教えている先生たちからよく聞かれます。

つまり、「教科書には、キリスト教の説明として三位一体が、必ず出てくるから、教えてはいるけど、どうもよくわからない」と。

最近はインターネットやメールなどでも、問い合わせてくる方がいます。「井上神学では、これを、どう説明するのか」と。

そういうときはたいてい、安直に答えず、「まず、神父様の本を、読んでみてください」といいますが、たいていは、それで嫌な顔?――顔は見えませんが、二度と問い合わせが来ません(笑)。

おそらく、そういう方は、手っ取り早い解答が欲しいのでしょう。忙しい社会ですから。。。

それはそれとして、三位一体というとき、ちょっと調べてみますと、教科書的には、三位一体とは神の三つのペルソナとか・・・・神父様の「キリスト教がよくわかる本」でも、H2Oの三様態――水蒸気・水・氷のたとえなどがのっているのですが、井上神父様は、直接にはあまり語っておられないのですね。

ところが、いろいろなところで、実はこの用語を使わないで、三位一体を実質的に表現されています。

たとえば、これから始まるアッバミサ。
おてもとに、ミサ次第がある方は、ご覧ください。

このなかで私達は、まず、「アッバ、アッバ、南無アッバ」と唱えます。
こうして「おとおちゃーん」と呼びかけてから、「イエス様につきそわれ」といいますね。
――わたしたちにいつも付き添ってくださる神としてイエス様が表明されます。遠藤周作先生の同伴者イエスに通じます。

そして、「おみ風さまにつつまれて」
――つつむ神としての聖霊、プネウマ。

わたしたちをいつも、包む神、包容の神
――神父様は、「神の国」を、「アッバのまなざしの包容」と、訳しています(「わが師イエスの生涯」p.86)。
このまなざしは、もちろんイエス様のまなざしを思わせる。

これだけで、直接に、ああ、ありがたいなあ、と思います。
だから、福音=喜びの知らせ、なんですね。
そして、それから気づく。こんな短い祈りに、そのまま三位一体が自然に組み込まれている、と。

三位一体とは何か?と考えてからじゃない、ああ、ありがたい、っていうのが先です。

それから、最後にごいっしょに唱える「風の家の祈り」。
「アッバ」と、まず第一位格の父なる神にまず呼びかけます。

次に、「人々の心を写し取り、受け入れ、友として生きられたイエス」と、第二格が出てきます。
そして、私たちの人生がイエス様と同じように、アッバの「悲愛の息吹=聖霊の働きの場」になるようにと祈ります。

ここでも、アッバとイエスとプネウマが、自然―「空を行く雲、小川のせせらぎ、一輪の野の花」を背景として溶け合っています。
その場の中に、私たちが生かされていくように。。。。そういう祈りです。

伊藤幸史神父様が、以前こちら(06.9)でお話されたときに、井上神学の特徴として、「自然と共に」、ということを指摘されていましたね。


さらに最後に、3番目として、皆様ご存知かと思いますが、「ガラス窓」のたとえというのがありますね。
「わが師イエスの生涯」エピローグにも、出てきます。

イエス様はアッバという太陽の光を、お通し申し上げる、100%透明なガラス窓のような方だ、というのです。

これは、わたしはすばらしいたとえだと思っています。

なぜすばらしいかというと、まず、とっても身近だということ。
冬の寒い日に、部屋の中でぬくぬく日向ぼっこしていると、このたとえが思い出されて、ありがたいなあ、と思います。

外の厳しい寒さから守られて、アッバの暖かさをそのままいただける。
私の家などは、小さくて、日当たりも悪いものですから、なおさら、そういうときは、ありがたいんです。

まあ、それで、小さな家でよかったとは、思わないところが、業の深いところなのですが。(笑)

また、透明なイエス様に比べて、わが身の曇り方が反省される。そういうこともある。

そして、このたとえのもっとも素晴らしいのは、最後は、ガラス窓は壊れなくてはならない、ってところまで行くことです。

壊れなければ、本当の大自然の風は入ってこない、おみ風さま、プネウマ、聖霊は来ないというわけです。

イエス様の十字架の死の意味まで、含んでいるのですね。
その上で、三つの位格が、わたしたちが実感を持てるところから、説き起こされ、指し示され、密接に関連づけられて、語られています。

こうして、わたしちが日々体験・実感できるところから、キリスト信仰が説かれている、というのが、井上神学の強みなのではないかと思います。

神父様からの学びを続けていると、改めて「三位一体とは何か?」とか、「十字架の意味は?」ということが、頭からではなく、心と体といいますか、まず体感として、それこそ自然に、気がついたら、「ああ、そうだなあ」と思わせられる瞬間がしばしばあります。

理屈が先ではなく、私たちの日常体験できるところから掘り起こされ、指し示されて、信仰が説かれます。

最近になってようやく、子育てが終盤になってきたので、ときどき妻と温泉なんかにいくんです。
先日も、川治温泉に行って、雨の中の露天風呂に入って来ました。

頭に手ぬぐいをのっけて、青葉若葉に囲まれながら、鼻歌じゃありませんが、思わず「南無アッバー」と、唱えていました。(笑)

でも、教会の教義といわれるものも、本来は、すべてそこ――イエス様が始め、弟子たちに伝わった「南無アッバ」――「ありがたいなあ」という心から生まれたものなのだと思うのです。

今日のごミサをとおして、アッバと、イエス様と、おみ風さまの包容――包み取られているという、福音の素晴らしさを、あらためて、皆様と分かち合えれば、と思います。

ありがとうございました。
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