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俳句とキリスト教「余白の風」第137号  

2007年6月1日発行
Copyright © 2005 余白こと平田栄一, All rights reserved.

A4縦書きプリント版はこちらから

法然上人の言葉を思い出しましたbyいとー

ホームに立って 電車待つまに 南無アッバ
                        井上洋治
(『アッバ讃美』)

井上神父は、「お祈りは時間が長ければいいというものではない。短い時間でも、神様(アッバ)に何もかもお任せする気持ちを持つことが大事だ」と言います。

そういう意味では、場所もお風呂だって、トイレだっていいわけです。もちろん電車を待つホームでもOK。一瞬「南無アッバ」と射祷を唱える・・・・。

「でもどちらかというと自分としては、地下鉄などより、自然の見える地上のホームや車内の方がいい」とも言っています。(栄一)
この記事を読んでいたら、

  不浄にて 申す念仏の とがあらば 
  召し籠めよかし 弥陀の浄土へ


(トイレでお念仏を申すことに、何か罪があるというならば、どうぞ私を召し取って、阿弥陀様の極楽浄土へ閉じ込めてください!) (『法然聖人絵』弘願本巻二 ) という法然上人の和歌を思い出しました。

 この和歌は、数ある法然上人の伝記でも『法然聖人絵』(弘願本)にのみ収められていて、この伝記には、実はこの和歌が法然上人がトイレでお念仏している絵とともに描かれている、本当に珍しい和歌です。

あるお弟子さんが、トイレでお念仏する法然上人をいさめた時に、法然上人がお答えになったものなのです。

 キレイとか汚いとか、浄らかとか穢れているという我々人間が勝手に作り上げた基準と違って、全ての人を救うという絶対的な阿弥陀様の大慈悲というものが、そんな人間社会の価値観など遥かに超えたものである。

 そのことを端的に示した和歌なのですが、井上先生の言葉は、本当に法然上人の言葉に通じる気がします。

 あと井上先生の、『キリスト教がよくわかる本』
『日本とイエスの顔』も読みました。日本人の感情でキリスト教を捉える井上先生らしく、とても心に響く本した。今まで持っていたキリスト教のイメージがかわるぐらい素晴らしかったです。

 それに他宗教をとても尊重されている井上先生の本なので、僕のような他宗教の人間でも安心して読めました。これは、とてもすごいことだと思います。

 井上先生の本を読むと、他宗教を尊重しないと、他宗教の方に尊敬されることは決してないことがわかります。

これからも、よろしくお願いします。南無阿弥陀仏。
(編集注:「いとー」氏は、主宰がネットで知り合った、浄土宗の真摯な青年僧侶です。)

主宰作品by平田栄一

短歌誌「塔」〇七年五月号より
寝て喰ってまた寝ることの永遠の今を生きてるウチの猫タマ

あれこれと入門書ばかり借り出だす父は書生のままに老いたり

いつまでも子の帰り待つ母とうもの闇夜の雨に雨戸を引かず

新宿の雨に打たれし無花果の身内に動かぬ季語のあるらし

卓上に落ちいし髪を見つけたる朝の疲れの怒涛のごとく


求道俳句作品

新緑の彩やかたちや雨模様   佐藤淡丘

登校のしんがり守る柿若葉

類なき万緑の端に触れにけり

若葉風ふたりぼっちが手を握り

襤褸もてつつじに触る背教者


栄一:三句目、「長血の女」がイエスの衣に触れた、聖書のくだりを思い出しました。4句目、「ふたりぼっち」が効果的。五句目、『沈黙』のキチジローを思い出しました。

聖霊降臨
聖霊の 招きに気づく 神の愛  ヨハンナ
偶然も 必然という 面白さ


聖霊降臨の日に気づく偶然の必然性に驚きと神の愛を感じて作りました。俳句や短歌は写真でそのときの映像を記念に残すように短い言葉の中にそのときの心の琴線を残すものだと思うので、最近の感動したことを詠んでみましたが、うまく詠めませんでした・・。

栄一:偶然の必然性。そういうこと、ありますよね。
そこに巧妙な?アッバの手口を感じたりして、驚いたり、感謝したり。
 お作は、定型できれいにまとまっているし、これはこれでいいのですが、たとえば、その「感動」を、具体的な事物に即してうたうと、いいかもしれません。

 一句目、どういうことがあって、「聖霊の招きに気づいた」か、ということです。その中身を具体的に。 二句目も、その「面白さ」の具体を示す。しかしその方法は、絶対なものではありません。

「俳句」らしさ、というところからの話です。「川柳」としてなら、むしろ、このままでもいいでしょう。ご本人が、どちらを望むかですね。それから、季節、季語など、自然を入れると、句の幅が広がります。

余白アラカルト

○宇津井健さんと瀬戸内寂聴さんの対談より
宇津井「妻はC型肝炎になったとき、井上洋治神父の洗礼を受けましたから、死期が迫っても堂々としていました。その姿に打たれて、私も一昨年の誕生日に洗礼を受けました。」

寂聴「・・・・さっきお話の出た井上神父さま、私もよく存じあげているんですよ。遠藤周作先生のお友達で、素晴らしい方ですね。あの方のお世話で、作家の方も随分とクリスチャンになっているんです。

私は途中で、ちょっと違う、やっぱり私は仏教かなと思って、随分悩みましたけれど、ご紹介くださった遠藤さんと神父さまに思い切ってそう申し上げたら、おふたりとも全く怒らないで、「そうかもしれないね。よかったね」って言ってくださった。」
(「いきいき」〇七年六月号抜粋)

○佐藤淡丘さんのおたよりから
ゴールデンウィークは雨の中休みとなりました。師事になりますが、七人兄姉の末弟が去る四月二十日、肺癌のため五八歳という年齢で逝ってしまいました。

自分で言うのもおかしいですが、小さい時から可愛い奴で、多くの人様からも慕われていました。(十一年程オーストラリアにて働いており、帰国して五年目に罹患)葬式は、私達の故郷、浜松で行われましたが、本人の希望で、「無宗教葬」で執り行われ、なかなか清楚なうちにも厳粛に終始しました。

・・・・本人(弟)はキリスト教の洗礼こそ受けておりませんでしたが、心の内ではキリスト教葬を望んでいたようで(私が早く気がつけばよかった・・・・)、遺品の中にカトリック作家曾野綾子さんの本が沢山ありました。

 天に還る舎弟かなしも春ゆくと  淡丘

 先生のご著『心の琴線に触れるイエス』の中で、「死の意味」に関する井上神学の一端を述べられた箇所がありますね。このことをすぐ思い出したものです。「死とは・・・・、ある人の一生は地上における使命は、死という行為において始めて完成されるものであり・・・・積極的な行為によって完全な意味をもたされてくるものである、と。

 弟は五八歳で逝ったが、一番完成されたときをもって天に還ったに違いないと、私自身心に決めたものでした。(5/2付 抜粋)

求道俳句の作り方by栄一
(一)聖霊降臨の主日。御ミサでは、使徒言行禄二章が読まれました。
「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。

そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(1-4節)


この朗読箇所を、何度か読んで、味わっていると、次のような句ができました。

それぞれに御言葉運ぶ初夏の風

これが、初稿。「一人一人の上に」アッバが、最も適切な「御言葉」をくださる・・・・そんな気持ちを読んでみたのです。
しかし、さらに、読み込み、推敲していると、句が変化してきました。

おのおのに言葉を運ぶ初夏の風

こんなのは、どうでしょう。この箇所の、「一人一人」がそれぞれの国の言葉を授かった、ということが中心ととらえたのです。「それぞれ」という分散的なイメージも改め、「おのおの」にしました。

最初の句とあわせると、聖霊降臨によって、まずアッバから御言葉をいただく。そして、わたしたち一人一人は、それぞれの使命・言葉を担って、世へ出て行く。今日アッバは、御言葉から言葉へ、一人一人の使命、そんなことを黙想させてくださいました。(5/27記)

(二)自分が最も気に入っている本や、繰り返し見ているビデオ、聴いているCDなどから、創作に結び付けてみましょう。今日のわたしは、「毎日のミサ」のマルコによる福音書一〇:二七「金持ちの男」より

夏の空慈しむ主の目のありぬ

こんなふうに、作ってみまました。
お空のどこかから、イエス様が見ていてくださる・・・・そんな安心をこめて。(5/28記)

お知らせ
平田栄一の新刊『心の琴線に触れるイエス』(聖母文庫)
―井上神父の言葉に出会う―〇六年十二月発行 五二五円(税込):イエスとともに、アッバの風に己を委せきって生きる――日本人求道者のためのキリスト教――井上洋治神父に長年師事してきた著者の体験にもとづく格好の井上神学入門書。
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求道俳句会誌「余白の風」(1990年創刊)は俳句を中心として、日本人の心情でとらえたキリスト信仰を模索するための機関誌です。毎月発行しています。どなたでもご自由に投句・感想をお寄せください。(採否主宰一任)
投稿先:ホームページ「今を生きることば」

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コメント

ありがとうございます

前回に引き続き、今回は法然上人の和歌を取り上げてくださり、
本当にありがとうございます。

絶対的な存在が「神」であっても「仏」であっても、
我々を慈しんでくださる方にはかわりませんから、

その方を前にした時に、我々がすべきあり方は、
全くかわらないものですよね。

井上先生がキリスト教に対してされた役割は、
過去において法然上人が仏教においてされた役割と、
同じぐらいの、とてつもないものであると、
思われます。

そのぐらい、井上先生の本を読ませていだたくと、
神を身近に感じさせていただけます。

このようにご縁をいただけて、本当にありがたく思います。

南無阿弥陀仏

いとー #- | URL
2007/06/03 18:53 | edit

いつもありがとうございます

昨日は、アッバミサで、少し話させていただき、今日、井上師他に、この137号を投函しました。

アッバミサに参加しているキリスト者で、ネットを見ている人は、いとーさんに皆感謝しています。
また、頼もしくも思っております。

どうぞ、ご自身の信仰のうちに、他宗教との対話を続けられますように、
---アッバ、アッバ、南無アッバ!---

余白 #oBO5MkqQ | URL
2007/06/03 20:08 | edit

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