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第2部(17)求道者としてのわきまえ  

「風」第75号 2007年春

日本人とアッバ神学

以前、「復活表現の象徴性」について触れたとき、解釈を含まない「聖書信仰」はありえない、ということをわたしは述べました(六六号・第九回、拙著『心の琴線に触れるイエス』一二七頁)。

「復活」の解釈に限らず、聖書の正しい解釈とは何でしょうか。

まさか二千数百頁にわたる大著を単純平均して出てきたものが「正しい」ということにはならないでしょう――。


わたしは勤務校で「倫理」や「現代社会」を教えていますが、その「キリスト教」の学習箇所では井上神学を紹介しています。

生徒たちはほとんど聖書を読んだことがないのですが、授業後にアンケートをとるとその多くは、「まだよくは理解できませんが、なんとなくキリスト教がとても身近に感じられるようになりました」と感想をもらします。

これは、井上神父が日本人としての実存をかけてイエスの福音を生きようとする姿勢が、彼らに直感されるからだと思っています。


一方最近では、キリスト者になって何十年も経っているという人から、ホームページやメールを通してときどき問い合わせがあります。

彼らは繰り返し聖書を通読しているような人たちです。わたしは授業のときと同じように、その人たちに井上神学の概略を説明します。

すると、ときに複雑な反応が返ってくるのです。それをひとことで要約するなら、前述の「深読み」や「取り込み」とまでは言わなくとも、〝果たして井上神学の言わんとしていることは本当に聖書全体のメッセージなのか〟という疑問符付きの反応です。


そのときわたしは彼らの心の葛藤を思うのです。

そもそも、何十年も教会で学び、聖書を読んできてキリスト教を自分のものにしてきたと思われるキリスト者が、なぜ今更のように、井上神学を知ろうとするのだろうか。

そこには「深読み」や「取り込み」でない「正しさ」――「聖書の正しい読み方」という、誠実なキリスト者としてのこだわりと、日本人として宿命的な感性との間で板挟みになり、格闘するジレンマのようなものがあるように思えてなりません。


わたしは、聖書をどう読むかということは、この〝神の言葉〟のどこに視点を置き、あるいは何に重点を置くかということに他ならない、少なくともそこから始まるのだと考えます。

その内容についての賛否はともかく、いきいきと訴えるものを感じさせるのは必ず、寄って立つ視点が明確に打ち出されている場合です。


井上神父が、(どちらかといえば)神の父性より母性を、罪より苦しみを、十字架より復活を、贖罪より初穂理論を強調する――「あれかこれか」の視点選択をしている神学を展開してきたことは、これまで見てきたとおりです(六七号・第一〇回「第一部まとめ」)。

この点ですでに「あれもこれも」の「学者としての読み方」とは一線を画しています。


さらにそれらの根拠はどこにあるか、と問えば、それはひとえにアッバに帰依する心、「南無アッバ」の精神にある、といえます。

つまりイエスが、神は裁きと罰の原理に立つ厳父のような方ではなく、「迷ってしまった一匹の子羊を、どこまでも探し求める羊飼いのよう」な方(「風の家」の祈り一)――「アッバ(おとうちゃん)」と呼べる慈父のような方なのだ、と見抜き、かつイエス自らも徹底してそのように生きた方であったということ。

そのイエスに連なろうとするわたしたちも、イエスと共にアッバなる神にすべてをゆだねるということ、賭けるということ。それが「南無の心」「南無アッバ」の精神です。

福音書また新約聖書全体を一貫して、この心から読み解くというのが井上神学なのです。これをわたしは「アッバ神学」とよばせてもらいました。


「アッバ」という視点を選び、最重視しているという点で、「アッバ神学」はまさに井上神父が、「学者としての読み方」を大切にしながらも、「一日本人」である「求道者としての読み方」を、実存をかけて模索した体験的神学なのだと思います。


ヘリコプターのたとえ

『沈黙』や〝法然上人〟との出会いが、井上神父の聖書の読み方に、内容的には「確信」を、しかし方法論としては「変化」をもたらしたことを、前回まで見てきました。

そして「学者としての読み方」をふまえながらも、一日本人の「求道者としての読み方」を重視して、イエスのメッセージをわたしたちに呈示しようとする井上神父の姿勢は、神学としては必然的に、<あれもこれも>ではなく、<あれかこれか>の選択を迫られることになります。

実存主義にいうところの「決断状況」に置かれるわけです。


そうした体験的実存的態度には、前述のとおり、第三者的にうがってみれば、常に「深読み」や「取り込み」の危険があることが指摘されるのですが、そもそも宗教というものが生きられるものであるかぎり、この危険をまったく冒さないということは、ありえないのではないかと、わたしは思うのです。

たとえば、井上神父が尊敬してやまない法然上人の浄土門にしても、善導→法然→親鸞という流れは、学問的つながりだけでなく、それぞれの資質と置かれた時代・環境のなかで捉え直された――生きなおされた「念仏」といっていいでしょう。

仏教界からも好評を得た神父の著作、『法然-イエスの面影をしのばせる人』の「あとがき」には、「ヘリコプターのたとえ」ともいうべき、大変印象的な神父の見解が載っています。


「ただ誤解のないように付け加えさせて頂ければ、私は決してイエスと法然が同じことを言っているとか、宗教はどの道からでもみな同じところに到達するのだとか言っているのではない。

キリスト道にしろ、仏道にしろ、その道を歩むということは生きるということであって、思索するということではない。人は二つの道を同時に考えることはできても、決して生きることはできないのである。


 道を求めて生きることを登山にたとえてみるなら、従来の西欧一神教がしばしば落ち入りかけた「自分の歩んでいる道だけが目的地である山頂に到達できるのであって、他の道は山頂には到達できない誤った道である」という「独善的排他論」――これが悲惨な宗教戦争をひきおこしてきたわけであるが――が誤りであることは明らかである。

そのような断言は、山を一望に見渡せるヘリコプターか何かからみてはじめて言えることであって――これは人間の生の条件を超えている――人は、自分が今登っている道は必ず山頂に到達するのだという信仰をもって登っていく以外にはないのであり、他の道が山頂に到達するかしないかはわかるはずがないのである。

従っていまのべた「独善的排他論」が誤りであることは明らかであるが、しかし、同時に最近よく言われる、「全ての道はみな同じ山頂へと到達するのだ」と断言する「宗教多元論」もまた、同じ誤りをおかしているわけである。」(一八三~一八四頁)


右の「道を歩む」「生きる」ことが、聖書の「求道者としての読み方」に対応し、「思索する」「考える」ことが、「学者としての読み方」に通じることは、いうまでもありません。


これまでこのエッセイでは、井上神父の復活を中心とした聖書解釈という、およそキリスト教内での話に終始して、その特色を見てきたのですが、興味深いのは右の「あとがき」ではさらに、神父の「道を歩む」こと、具体的に「生きる」ことを重視する体験的求道者的姿勢が、他宗教に対してはどのような態度として帰結するか、ということが明確に、また正直に表明されている、ということです。

それは、聖書に対する時と同様、二つの道(宗教)を同時に、学者として考えることはできても、求道者として生きることはできない、やはり必然的に、一つの道を決断し、そこに一生をかけるほかはない、ということから出てくる態度です。


他宗教をどう見るか

ところで、ある宗教が他宗教との関係をどう見るか、という見解には一般的に大きく三つの立場があります。「排他主義」、「包括主義」、そして「多元主義」です。


 まず「排他主義」は右にいう「独善的排他論」であり、自分たちの信仰なり宗派だけが真実で、他はすべて偽りであるとして排除する立場です。


 次に「包括主義」というのは、他宗教にも部分的真理を認めつつ、それらを予備的なものとして、唯一絶対の真理である自宗に「包括」していこうとする立場です。このエッセイでも何回か引用した、二十世紀のカトリック教会を代表する神学者カール=ラーナーがいった「無名のキリスト者」という表現はその典型的なものです。


 そして第三に、さまざまなレベルでの宗教間対話が叫ばれている現在、新たな立場として注目されているのが、「宗教的多元論」「多元主義」というものです。

この多元主義をめぐっては、二〇〇〇年九月教理省から、その批判を含む『主イエス』という文書が発表され、カトリックだけではなく、世界の宗教界で少なからず論議を呼び起こしました。

ここでは、当時わたしが目にした増田まさ祐し志神父(イエズス会)の「第三バチカン公会議への起爆剤――宗教的多元主義と『主イエス』」という文章から引用させていただきます。


「多元主義は、キリスト者はイエス・キリストによって救いにあずかるが、他宗教はそれぞれの宗教的仲介者によって救いにあずかると考える。

多元主義は信仰無差別論や宗教的相対主義と異なり、イエス・キリストは他宗教の人々にとっても救いの規範であると主張する。

ただし、救いに関する中心的規範は各宗教の救いの仲介者であり、イエス・キリストではない。」(「福音宣教」二〇〇一年一月号一九頁)


増田神父は、このように慎重に「多元主義」と「信仰無差別論」や「宗教的相対主義」を区別しつつ、さらに次のように述べます。


「多元主義の「多元」の意味するところは、認識論的な意味であって、実存的な意味ではない。

つまり、キリスト者は一義的な意味でイエス・キリストの規範による信仰と実践によって救いにあずかるが、仏陀の規範によってあずかる仏教徒の救いを否定したり、キリスト教のそれより低く見る必要はないということである。

むしろ、キリスト者は、仏教徒の対話によって、イエス・キリストによって仲介された救いの意味をより十全に理解できると考えられる。」(同一九~二〇頁)


 この見解と先の井上神父の言葉を比較してみます。


 まず、最後の「キリスト者は、仏教徒の対話によって、イエス・キリストによって仲介された救いの意味をより十全に理解できる」ということについては、井上神父も法然に出会い、学んでいくうちに〝イエスの言動のすごさ、すばらしさが、もっとよくわかるようになった〟(NKH「すべては風の中に」など)と語っていることからも、この発言自体は十分に頷けるものでしょう。


 また、前半の「「多元」の意味するところは、・・・・実存的な意味でない。つまり、キリスト者は一義的な意味でイエス・キリストの規範による信仰と実践によって救いにあずかる」という部分についても、先の文で井上神父がいっている、「人は、自分が今登っている道は必ず山頂に到達するのだという信仰をもって登っていく以外にはない」という部分に対応します。


 問題は残りの部分です。

増田神父は、「多元主義の「多元」の意味するところは、認識論的な意味」であり、(したがってキリスト者が)「仏教徒の救いを否定したり、キリスト教のそれより低く見る必要はない」といいます。

しかし井上神父はまさに、この部分に〝待った〟をかけているのではないでしょうか。井上神父は先の文で、「人間の生の条件を超えている」「ヘリコプター」からでも見ないかぎり、「他の道が山頂に到達するかしないかはわかるはずがない」といっているからです。

すなわち、認識論的な意味においても、他宗教の救いに対する判断を、留保しているということです。


かつて、内村鑑三が仏教徒の救いについて聞かれたとき、「わからない」と答えたという話が伝えられています。

これを最初に聞いたときわたしは、直感的に「なんとなく冷たいなあ」と思ったものですが、いま考えると、それは一求道者、一信仰者にすぎない内村の誠実さゆえの答えなのかもしれない、とも思えるのです。

井上神父の姿勢も同様に、一求道者、人間としての分を弁える、ということなのではないでしょうか。


一求道者としてわきまえる

 この辺りのことを、宗教学者・山折哲雄氏との対談から抜粋引用してみます。(山折哲雄対談集『日本人の心の旅』講談社)

井上:・・・・だから私は、南無の心というのはすごく大切だと思う。

これはキリスト教、仏教にかかわらず宗教者が一番忘れてはいけないことだと思います。

これを忘れた時に必ず神様や仏様を背負ってしまう。

そうではなくて、常に自分が相対化されていくことが大切だと思うんです。

それで「南無アッバ」になったんですけど。


山折:「南無アッバ、南無阿弥陀仏、南無アッバ、南無阿弥陀仏・・・・」と唱えたくなりますよ。(三〇八頁)

・・・・

井上:・・・・もちろんキリストがすべての人に内在しているということは本当にそうだと思います。・・・・

 私は、「分け登る麓の道は多けれど同じ高嶺の月をこそ見れ」という古歌、これは日本人の宗教観というものを一番よく表している歌だと思うんですね。

けれども私から、プレヤーからしますとね、「同じ高嶺の月を見る」と断言してしまうのは、やはり背負っちゃっているんですね。

私はプレヤーとして、自分は一生懸命登っているんです。


山折:登っているんだという、そこを大事にされたいというわけですね。


井上:それで、向こうからも登っていて、自分は真理を求めているということをおっしゃるわけですけれども、それが同じところに到達するか、違うところなのかというのは、そのたとえから言ったらヘリコプターから見なくてはわからないわけですね。

しかしヘリコプターに乗ることはできないんです。


山折:神様の地位に自分を押し上げることになりますね。


井上:ですから、そう断言することは、何かプレヤーとしては納得できないんですね。

ネット裏からはそういうふうに見えるとおっしゃるかもしれないけど、ネット裏はヘリコプターとは違うんだな。ネット裏というのは登っていませんからね。

ヘリコプターで上から見ているのは神様しかいないんです。


 私は宗教の共存ということをよく考えるんですけれども、非常に僭越なことをプレヤーが言うようですが、比較宗教論とか対話とか、それはもちろん良いことであるには違いないわけですけど、お互いがお互いの信仰を尊敬していれば、そんなにどこが似てるとか違うとかいうことをせわしくやらなくても、ひたすら謙虚にそれぞれが自分の道を登れば、一介のプレヤーとしてはそれでいいような気がするんです。


山折:「同じ高嶺の月を見る」ということは傲慢ではないかという意味のことをいわれて、私はハッとしました。

これまでそれは当たり前のことだといわれ、そして認められてきたわけですね。しかしそれは実は自己中心的な傲慢さを表しているかもしれないといわれる。

そこをいっぺん考えてみなくてはならないと思いますね。


井上:そこまでお読みいただけたら、私は本当に満足です。(三一一~三一二頁)


「常に自分が相対化されていく」――神に対する「自己相対化」については井上神父が繰り返し言及し、これが「アッバ神学」へと向かう井上神学の重要なキーワードになっていることは、このエッセイでもすでに第一部で述べたとおりです(『心の琴線に触れるイエス』九九頁以下参照)。

そして自己相対化は右に見るように、「南無の心」――キリスト者であれば「南無アッバ」――によって実現していく。

それをつい忘れたとき、わたしたちは知らずに「神様や仏様を背負ってしまう」ことになるというのです。


他宗教とのかかわりも、このことから導き出されます。どの道から登っても「同じ高嶺の月を見る」と断言することは、「宗教の共存」が叫ばれる現代においては、たしかに理想的かもしれないし、人当たりもいいかもしれない。

しかし、南無の心で、自分が相対的な者、有限ないち「プレヤー」に過ぎないと自覚したとき、右のような断言は、「神様の地位に自分を押し上げる」「傲慢」ともなりかねない、ということなのです。


ここに、井上神学が多元主義とは一線を画していることがはっきりします。

というより神父は、「排他主義」「包括主義」「多元主義」といった範疇で信仰をくくること自体に、疑問を持っているのではないかと思われます。


ちなみに、この対談では「ネット裏」が、これまで見てきた聖書の「学者としての読み方」に、また「プレヤー」が「求道者としての読み方」に対応しています。

そして、「ネット裏」であるところの例えば「比較宗教論とか」は、「良いこと」だけれども、「プレヤー」としては、最低限「お互いがお互いの信仰を尊敬していれば」あとは「ひたすら謙虚にそれぞれが自分の道を登れば・・・・いい」ということになります。


このように井上神父は、キリスト教内においても、他宗教に対しても、一貫して一求道者として弁えた姿勢を貫いているといえるのです。
(つづく)
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