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5 〝日本語〟になった聖書  

神はまずパパなのだ。私にとっても、そしてあなたがたにとっても。
それが信じられるようになるためには、あなたがたは、どんなに苦しくとも悲しくとも、またどんなに現実が不合理に見えようとも、勇気をだし、心を改め(マルコ1:15)、
知恵ある者のように振舞わず(マタイ11:25)、
小賢しい人間のさかしらを捨て、ただひたすら神の前に手を合わせ頭を下げねばならぬ(ルカ18:10-14)。
・・・・
小さな己れにかかずらうことを勇気をもってやめ、幼子の心、愚かな者の心に立ち返って日々の十字架を背負い、私について来なさい。大丈夫だ。私といっしょにいるかぎり、その日々の労苦と十字架は必ず軽くなる(マタイ11:29、30)。

(『日本とイエスの顔』第四章 イエスの神・アバ(父よ))

日本キリスト教史上における井上神父の功績のひとつが、これまでの日本の神学者・聖職者の著作には見られなかったような、思い切った、現代日本語による聖書敷衍訳、あるいは意訳です。

そして、この敷衍訳の比重は、のちの著作になるほど、その比重を増し、また日本語として、こなれていきます。そのまとまった形での試みがこの章に見られます。

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