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1 体験的に知るということ  

聖書、特に新約聖書が行為を要求する実践指導の書であり、私たちに永遠の生命への道を説きあかしてくれる書であるなら、一念発起してその教えに従おうと決意し、行為を起こさないかぎり、ほんとうの意味でイエスの教えをわかることはできないと思います。
(『日本とイエスの顔』第一章 ことばといのち)

処女作『日本とイエスの顔』において井上神父はまず、ものを「知る」方法として、「~について知る」という概念、言葉による知と、「~を知る」という体験的な知とを区別します。

そして、現代のわたしたちは前者=理性知に傾きすぎており、いまや、日本文化が長い間大切にしてきた「~を知る」体験知を思い出すべきである、といいます。

その上で、どんなに知識を蓄えても、そこへ向けて出発しようとしない限り、ほんとうの意味でものを知ることはできない、として右のように述べているのです。
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category: 『日本とイエスの顔』

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