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「余白の風」第79号  

2002/11/10 発行:平田栄一




射祷とは父祖に耶蘇名のありしこと  

尾田 明子

「吟遊」第十五号(二〇〇二年七月)より

「射祷」とは、矢を射るように短く祈ることです。キリスト教から見れば、マントラや浄土信仰の「ナムアミダブツ」も射祷の一種と受け取ることもできます。カトリックの伝統によれば、「射祷」には「免償」つまり償いを免除する功徳がある、と考えられています。

アウシュヴィッツの収容所で、他人の身代わりになって死んでいったコルベ神父は、射祷の名人でした。『聖者コルベ霊的メモ1912~1940』には次のような記述が散見されます。

●「我が母、マリアよ、我を救いたまえ!」(この祈りをとなえるなら決して罪に陥らないであろう。)[1912]

●とりわけ「マリア」の射祷をよく唱えたかを考えよ。[14]

●困難に出会う時、たびたび「わが神よ、わがすべてよ」と繰り返せ。[16]

●「イエズス、マリア、ヨゼフ」(七年間の免償)[20]

●マリア、マリア、マリア:これがお前の命である。活動の始め、困難の最中(あらゆる活動の)終わりに。[31]

 掲句にある「耶蘇名」とは、現代では「霊名」「洗礼名」「クリスチャンネーム」等と呼ばれ、信仰を全うした聖人にあやかってキリスト信者に付けられる名前です。コルベ神父の例をみてもわかるように、「マリア」や「ヨセフ」も「耶蘇名」としてそのまま「射祷」の全部または一部になることがわかります。

ところがこの句のミソは、その「耶蘇名」を自分が「射祷」として祈るのではないというところにあります。「射祷とは父祖に耶蘇名のありしこと」つまり、自分の先祖に耶蘇名があったという事実(史実)が即「射祷」なのだ、というのです。これはどう解釈したらよいのでしょう。

「耶蘇名のありし」「父祖」は当然キリスト信仰を持っていたはずです。その父祖の信仰の事実が「射祷」になってこの句の作者のために祈り、功徳となり、救いへと導いてくれるのだ、そうした信頼を詠っているのではないでしょうか。

ある人が他者のために祈るということはあっても、本人の信不信に関係なく他者の信仰によって本人が救われる、という発想は、individualな関係を重視する西欧(とくにプロテスタント)神学では、けっして出てくる発想ではありません。むしろ、「信不信をえらばず」念仏によって往生できると説いた一遍の思想に近いといえます。

しかし福音書をよく読めば、たとえば『マルコによる福音書』二章には、「四人の男が中風の人を運んで来た」とき、「イエスはその人たちの信仰を見て、(信仰を表明していない)中風の人に、『子よ、あなたの罪は赦される』と」宣言したという記事もあるのです。

さらに掲句では、作者を救う信仰を持った他者が「父祖」つまりすでに死んだ人なのです。このあたりの発想も、東洋的・日本的な感性として興味深いものです。

翻って、句作を求道の一つとしてとらえる立場からいえば、優れた俳句はすべて、練られた「射祷」として受け取ることができるのではないか、とも思うのです。(余白)



●井上洋治神父(039) 題名:書き込み代行:余白 投稿日 : 2002年10月24日<木>20時30分

秋らしくなりました。
「余白の風」78号有り難うございました。
趣のある、いい句がのっていますね。
イエスの福音の文化内開花のうえにも、「余白の風」がよい働きをしておられることに感心し、また同時にご発展を祈ります。

小生、俳句なるものは、実に芭蕉にはじまって芭蕉に終わるものと思っていたので、全くつくったことも、ならおうと思ったこともなかったのですが、「南無アッバ」の世界に漂流してきたら、何となく、それらしきもので、南無アッバに生きることを表してみたくもなりました。
で、定型ではありませんし、句にもなっていませんが、二、三書いてみますので、選んでみてください。
「余白の風」にのせる価値がなければ、どうぞ遠慮なく、反古にして下さい。
(以上私信)


道ばたにタンポポ見つけ一緒にとなえる南無アッバ


十三夜虫もとなえる南無アッバ


診察室ドアをくぐって南無アッバ





Res:D&D's daughter(253) 題名:ここに返信しても良いのかしら? 投稿日 : 2002年10月24日<木>21時57分
全ての生ける物が南無アッバを唱えている。嬉しいです。感謝します。

Res:余白(090) 題名:ええ、みなさん、感想をどうぞ! 投稿日 : 2002年10月24日<木>22時11分
井上先生、ほんとうにありがとうございます。
先生には、おそらく「余白の風」(旧青年句会報)第1号からお送りしてきたと思いますが、今回初めてご投句くださいましたね。念願しておりました。
色紙などでは、あちこちに独特のお言葉を書いてくださっているのに、もったいない、とずっと思っていました。
私が洗礼・結婚のときいただいた、今ここに掲げてある色紙


余白の風 神の悲愛に 露草の如くに 遊ばん


は、20数年前のまま(ちょっと黄ばんできましたが)、ちゃんと額に入れて、狭い我が家の特等席に飾ってあります、ぷぷ。
今後とも、お気軽に投句ください。

Res:ふづき(320) 投稿日 : 2002年10月26日<土>01時12分
>道ばたにタンポポ見つけ一緒にとなえる南無アッバ
私も、井上神父様とタンポポに、小さく、声をあわせてみます。
神父様の句を読ませていただけて、言葉は見つからないけど、感謝です。

Res:警備のおじ(374) 題名:南無アッバ 投稿日 : 2002年10月28日<月>00時26分
道ばたにタンポポ見つけ一緒にとなえる南無アッバ
井上神父の上の句を拝見して、先日仕事先で見た一輪の蒲公英を思い出し、先の小生の一句となりました。蒲公英のあざやかさと井上神父のやさしさに感謝です。
Res:小さき花(243) 投稿日 : 2002年10月30日<水>07時24分
ありがとうございます。
生きとし生けるものの声を感じながら。
日常生活の中で。
折に触れて,これらの句を唱えています。



●奈菜(108) 投稿日 : 2002年11月4日<月>22時38分



触れるとあつい いのちのともしび


体調が悪いと、自分の命に触れたようで
「あついなぁ」と思いました。

Res:余白(823) 投稿日 : 2002年11月5日<火>09時57分
微熱ある身体は、うっとうしく不快なものですね。しかしそれを、「いのちのともしび」と受け取る、それは祈りの境地です。八木重吉の詩を彷彿とさせるようです。



●ふづき(293) 投稿日 : 2002年11月2日<土>13時28分



目離した一瞬飛蝗消えにけり


恵まれて真中にをりぬ秋の昼


夕照に霧暫らくは明るめり



Res:余白(542) 投稿日 : 2002年11月2日<土>14時22分
>夕照に霧暫らくは明るめり <
夕照と霧の微妙なタイムラグを、よく繊細に観察していますね。
消えて無くなるべき霧が、惜しむように夕陽を抱いている、、、、印象派の絵を思わせます。



●ふづき(658) 投稿日 : 2002年10月26日<土>01時00分



御堂洩れ来しオルガンや黄こすもす


夕紅葉一葉はらりと落ちただけ


それぞれにこの脈の音星月夜


Res:余白(793) 投稿日 : 2002年10月29日<火>09時03分
>夕紅葉一葉はらりと落ちただけ<
裏を見せ表を見せて散る紅葉
良寛の好きだった句を思い出しました。井上師の著作にもよく引用されています。

Res:猫目(391) 題名:感想 投稿日 : 2002年11月1日<金>14時59分
それぞれにこの脈の音星月夜
 「この脈の音」が、すばらしい。星をみながら感じる宇宙の脈動ですよね。
 デリケートな感覚に、感銘しました。

Res:ふづき(239) 題名:ありがとうございます 投稿日 : 2002年11月2日<土>13時10分
>余白さん
良寛のその句を連想してくださって、とても嬉しいです。
寄せ来るものごとを素直に受けとめ、風に身をおまかせし、自分の表も裏もそのまま見せていけるようになれたらと思うのですが・・・実際は・・・。
秋の葉っぱ関係では、井上神父様の詩の中の「一枚の枯葉が  そっと大地にかえる」という一節も好きです。
秋は確かに思うことの多い季節ですね。俳句を始めて、改めて気づきました。
>猫目さん
思いをわかちあってくださってありがとうございます。
星を見上げていると、反転して自分の中にも意識が向いてくるし、
星の空間と、自分、近くにいる人、遠くにいる人(皆さんも(^^))の中に、
同じ脈打つものを感じられるような気がしてきます。
大好きな時間です。



●余白(303) 題名:「紫」2002年11月号 山紫集 投稿日 : 2002年10月30日<水>20時45分



職業的笑い麗し死出の旅


暑さを言いドラマツルギー始まりぬ


算数を叱られてなお夏の雲


わが重荷主の重荷とぞ秋の風


祭壇の隙間涼しき嗤いかな


会うてさて話す事なし聖母祭


出さぬまま褪せしハガキや酷暑病む


Res:猫目(018) 題名:感想 投稿日 : 2002年11月1日<金>14時53分
余白さんの「山紫集」は、とても面白いです。感想をすこし。
○職業的笑い麗し死出の旅
今回のなかでは一番面白かった句であるが、いまいち理解できなかった。喜劇役者は、死んでも喜劇役者を貫く、ということか。「麗し」に、俳諧味がある。
○暑さを言いドラマツルギー始まりぬ
「ドラマツルギー」(劇作術)などという言葉を用いたことがすごい。普通ならば、「ドラマ」ぐらいでおさめてしまうであろう。たしかに「ドラマツルギー」のほうが、暑苦しい。
○算数を叱られてなお夏の雲
西東三鬼の本歌取りか。この句の方が、気持ちが癒される。
○わが重荷主の重荷とぞ秋の風
いわゆるキリスト教俳句の典型。クリスチャンには分かるが、他の人々にはどうか、難しいところ。
○祭壇の隙間涼しき嗤いかな
この句もきわめて面白い。「嗤い」が、意味深長。多少、あざ笑う感覚がある。世間をあざ笑うかのような、牧師(神父)さんの説教か。
妄言多謝。

Res:余白(678) 投稿日 : 2002年11月1日<金>15時21分
猫目さん、まことに的を射た句評、ありがとうございます。感謝。



●神山 姫余(588) 投稿日 : 2002年10月25日<金>20時33分



月恋しラクダに濡れる睫あり



Res:余白(895) 投稿日 : 2002年10月29日<火>09時04分
ファンタジックで、また、繊細な感性ですね。

Res:猫目(690) 題名:感想 投稿日 : 2002年11月1日<金>15時04分
月恋しラクダに濡れる睫あり
 「ラクダの濡れる睫」が、絵画的で印象深い。繊細な感覚に惹かれる。ただ、普通の結社では、「月恋し」が、甘いと言われるでしょう。



●警備のおじ(698) 題名:晩秋に初秋を詠む 投稿日 : 2002年10月28日<月>00時14分

ご無沙汰しております、警備のおじでございます。
今宵久々に与えらた数句を・・・。


病む姉にしわぶきひとつ 秋風荒らし


聖日に 白手を指せる 馬祭り(あきまつり)


夏越えの 蒲公英一輪 天高し(たんぽぽひとつ そらたかし)


薮中に 穂太く ススキ 誇示したる


 『馬祭り』とは本日こちらの地方で催された『お供馬の走りこみ』という行事(菊間加茂神社例大祭)にかけたものです。白手とは警備員の手袋・・・。


 ●ふづき(289) 投稿日 : 2002年10月19日<土>18時04分



風過ぎてささやきあへり夕芒


秋の歌しづかに空に鳴りわたる


いくつかの恐さに触れず秋の街



Res:余白(663) 投稿日 : 2002年10月19日<土>19時01分
三句目「いくつか」が意味深長ですね。

Res:ふづき(044) 投稿日 : 2002年10月19日<土>21時20分
はい。私の「恐さ」はいっぱいあるんです~(^^;)
信仰に殆ど関係ない句を投句させていただいていいものだろうかと迷ってもいるのですが、今は、ちょっとずつでも、思うことや自然を詠んでいこうかなと思っています。そうしたことが祈りへ導かれることにもつながればと思いつつ・・・(思っているだけ;)

Res:余白(579) 題名:求道俳句とは 投稿日 : 2002年10月20日<日>06時22分
>信仰と殆ど関係ない句<というのは、ありえない、という言い方もできると思うのです。人間が「思うことや自然」を離れては、神も信仰もないのではないか、、、とすれば、私たちの日常そのものを、求道的な精神で詠うこと、それでいいのだと思っています。けだし、「求道」とは、悟りの境地ではありません。その途上の苦しみこそ、共感を呼ぶ。

Res:ふづき(140) 投稿日 : 2002年10月26日<土>01時09分
ありがとうございます。余白さんの書いてくださったことは、安心して思いを詠む上で
大きな支えとなります。
思うことや自然を、それらのどんなことも神に通じているのだという意識をもちながら、
これからも詠んでいきたいと思っています。
・・・初心者で、根気もないくせに、なんだか大風呂敷広げちゃってる~!



●島 一木(524) 題名:教会のある風景 その6 十月 投稿日 : 2002年10月22日<火>09時28分



ミサに行く金木犀のかおる道


花かおる金木犀に聖歌湧く



十字架の空より秋の風は吹く


秋思かなミサに来る人来ない人


守りたまえ秋の別れの聖少女


身にしむや主の貧しさとわが弱さ


秋の声荒野に叫ぶ声かとも


教会の隅の無花果実のなるか


無花果の好きな神父に貧しい実


ロザリオの月ロザリオが祈れない


<前月句評>
「夜霧のマント翻す自転車の群   D&D's daughter」
日本の風景ではないなと感じる。
「アモーレ!マンジャーレ!グラッパだカンターレ!   D&D's daughter」
面白い。叫び声だけで街の喧騒が伝わる。
「イエスの眼寅さんの声秋祭   猫目」
寅さんて、よく考えてみるとイエス的なんですよね。
「自転車に乗って虫になる   奈菜」
不思議な感覚。
「青き香の森の底なる彼岸花   ふづき」
「彼岸花の道の最後にふと光    〃 」
「秋の窓この雨粒に時のあり    〃 」
ほんとに俳句ずぶの素人なんですか?素質がいいですね!
「百合と薔薇、朝顔咲きて、パラダイス   ブライダル」
カトリックの洗礼を受けるということは、原罪とそれまでの自罪が許されて、霊的にアダムとイブが原罪を犯す前の楽園の状態に戻ることだと、気づきもせず知りもしない人が殆どです。もちろんそのためには十分な準備や勉強が必要だし、洗礼後も心の楽園の状態を保つためには罪を犯さない覚悟と努力が必要です。私は中年まで無神論や仏教、果ては新興宗教やオカルトまでさんざん遍歴をしてからやっとカトリックに辿りついたので、受洗後のあの驚くべき霊的な恵みの状態のすばらしさは一生忘れられないでしょう。本物は確かに違うのです。
「産声以前 たしかに溜息   余白」
この句はすごい! こういう状況を詠んだ句は初めて見ました。
「夏スレに 秋のレス書く 氷雨かな   如月」
一句の中に夏秋冬(氷雨)が入ってる面白さ。
追伸>あこさん、歳時記を読むのはもうやめちゃったのですか? 句を待ってますのに・・・・。

Res:余白(227) 投稿日 : 2002年10月22日<火>09時40分
島さん、最近、サクサク精力的に句作されていますね。こちらにも度々の投稿有難うございます。

Res:D&D's daughter(710) 題名:ありがとうございます♪ 投稿日 : 2002年10月23日<水>17時45分
コメントをいただいて恥ずかしいやら嬉しいやら。励みになります。
イタリアとオランダ、カトリックとプロテスタント、どちらも色濃く出る
民族とその文化の対比にいつも感銘を受けます。もっとそのあたりをうま
く表現できるようになりたいと思っております。

Res:ふづき(980) 投稿日 : 2002年10月26日<土>01時06分
過分なお言葉、ありがとうございます(^^)
放哉や山頭火に惹かれて自由律の句を自己流で作った時期はあったものの、
もう長い間、俳句に触れてみることもなかった私でした。
それが、彼岸花の花畑で突然句が生まれ、そのすぐ後にこの素晴らしいHPに出逢えて、
最近では俳句のネタ探しが日常の一部になっているというのが我ながら驚きです(^^)
俳句とはそもそも何なのか知りたくなり初心者向の本を斜め読みしたりもしたために、
却ってつまらない句になっているのもわかってるんですが、ともかくも今は、
自分の心や文化の深層を感じ取る上での一つの手がかりともなりそうな“俳句”を、
細々とでも作ったり読んだりしていけたらいいなと思っています。



●ブライダル(668) 題名:南無アッバ 投稿日 : 2002年10月25日<金>09時11分



お恵みのあることをしなきゃ南無アッバ



投稿した瞬間に思いついただけですが。





●ブライダル(562) 題名:十字架行進 投稿日 : 2002年10月25日<金>09時09分



天下炎ゆ 十字架行進 恵み溢つ
(てんが もゆ じゅうじかこうしん めぐみみつ)


今年の夏は暑かった、と振り返りながら。
お恵みのあることをしなきゃ、と言うのがアンペイ君の口癖。



●猫目(644) 題名:イエス 投稿日 : 2002年10月20日<日>09時10分



競う使徒イエスは暗き泉瞰る



Res:余白(965) 題名:宗教詩 投稿日 : 2002年10月20日<日>18時42分
島氏へのレスでも触れましたが、キリスト俳人が「イエス」「神」というときのニュアンスが、一般にどう受け止められるのか、そのへんが、信仰を持った詩人の大きな課題なのだと思います。でもこの宗教詩の問題は、古くて新しい、そして挑戦するに多いに価値あるものだと思います。

Res:猫目(101) 題名:宗教詩について 投稿日 : 2002年10月22日<火>10時28分
 余白さんが、大変重要な指摘をして下さいました。
つまり、信仰をもつ詩人が、「イエス」とか「神」という言葉を使う場合、一般の人(とくに、特定の信仰をもたないが、宗教に関心を持つ人。全く関心のない人の場合を、想定する必要はないと思います)に、どう受け止められるのか、という問題だと思います。
 私は、例えば、「イエス」について考える場合、「イエス」には、何層かの姿があると思います。一つは、正統的キリスト教教義によって、語られる場合(例えば、「使徒信条」のなかのイエス)。第二は、聖書のなかに語られている歴史的イエス。このイエスは、聖書記者の思想と区別しなければならないと思います。したがって、聖書学的研究の成果を考慮に入れなければならない(例えば、聖書学者八木誠一、荒井献、田川建三などが語るイエス)。そして第三は、詩人の直観的想像力によって語られるイエス。第三のイエスは、少し説明を要します。俳句を例に挙げれば、
金雀枝や基督に抱かると思え   石田波郷
朝の街ミルクのなかのイエス様  滝口千恵
というように、詩人が直感によってとらえたイエス。この場合、作者がキリスト者であるかどうかは、あまり重要ではないと思います。すぐれた詩人の直観は、イエスの実相をとらえうるものと思います。その根拠は、究極的実在者(神)のみ霊は、キリスト者のみならず、あらゆる人に開かれていると思うからです(いわゆる、哲学者の滝沢克巳さんがいう「インマヌエル(神我らと共に在す)の原事実」ということ)。
 私は、第二のイエスと第三のイエスには、共通するものがあると信じていますので、私が俳句のなかで「イエス」という場合、主としてこのような意味で考えています。このイエスは、真理を求める一般の人が理解できないようなイエスではないと思います。舌足らずの議論ですが、現在はこのように考えています。
 ところで、プロテスタント教会でよく唱和する、「使徒信条」のようなものは、もちろん否定はしませんが、私はあまり好きではありません。血も肉もなくなった、イエスの骨格だけを見ているような感じがします。
 カトリック教会のことはよく知りませんが、井上神父さんや余白さんは、「使徒信条」をどのようにお考えでしょうか、(俳句とは関係ないかも知れませんが)お聞かせ下さい。 

Res:余白(370) 題名:使徒信条 投稿日 : 2002年10月22日<火>13時52分
大変興味深いレス有難うございます。こうしたお話も少しずつお互い深化していきたいものですね。
三つのイエスのとらえ方、なるほどなーと思います。
先日、「風」の山根氏と話をしていて、「一般に宗教詩が面白くないのは、自分が感じたことではなく、感じたいことを詩に書くからだ」という、エリオットの言葉の出典はどこだろうか・・・・という話題になりました。
エリオットが言いたいのは、宗教詩=教義の押しつけ的なものが多いということでしょう。私たちも常に念頭に置かなければならない問題ですね。
さて、「使徒信条」の問題ですが、たとえば非常に古いニケーア・コンスタンティノープル信条があります。これは、いわゆる正統派のプロテスタント・カトリック教会で同じ信仰をしていますね。
ところが、これ、よく読んでみると、ここには、たとえば一般にイエス理解の要と考えられる、贖罪や復活についてはほとんど触れられていないのです。むしろここで繰り返し強調されているのは、三位一体論なんですね。なぜか?それは、この信条ができるときのキリスト教会の状況を考えればすぐわかります。アリウス・アタナシウスの論争です。これに決着を付けるために、公会議が開かれたのです。したがって、三位一体説の正当性を主張するためにつくられた信条、といってもいいでしょう。
猫目さんが、「血も肉もなくなった、イエスの骨格だけを見ているような感じがします」というのは、わたしたちの実感からかけ離れた、こうした神学論争の果ての宣言文を読んでいるからだと思います。
とはいえ、私にはこういう経験があります。
若い頃、井上神父と議論をしていて(そのころは今程は井上神学を理解していませんでした)、「では、先生、要するに最低限の信仰ラインとは何なんですか?」みたいな質問をしたことがあったんです。すると神父は、「それはこの使徒信条だよ」と言ったのですね。
それまで私は神父から、使徒信条の講義を改まって聞いたことがなかったので、驚いたのです。しかし考えてみれば当たり前で、彼はカトリックの神父なのですから。
それからは、こう思っています。あの「骨と皮」のような使徒信条ですが、うまくこれを素材として生かせばダシも出るし、味もでるのではないか、と。使徒信条を暗記して信じ込むという態度ではなく、肉をつけ着物をきせ、日本人の体に合うように、、、、そう思っています。



●島 一木(435) 題名:主の平和 その4 投稿日 : 2002年10月19日<土>02時33分



ともしびは燭台の上に置いてこそ


心にあふれることを口は語る


人はみな神の救いを見るだろう


すでに置かれた 斧は木の根もとに


愛する子心にかなう子には鳩


偽善者よ目から丸太を取りなさい


幸いだ 私につまずかない人は


ごらんこの女を 涙で足を洗った


死んだのではない眠っているのだ


飢えている人は幸い 満たされる



Res:余白(093) 題名:生の聖句 投稿日 : 2002年10月19日<土>02時44分
ほとんど生で聖書の言葉をもってきましたね。こういう場合、信者の思い入れ程には、一般の人には伝わるものが少ないかもしれません。



●あこ(807) 題名:お久しぶりです 投稿日 : 2002年11月5日<火>13時16分



その辺の匂いをかぎて 冬だなあ


てっぺんの柿が取れない初冬かな


生き延びし蛾の寄って行くイエスの光


歳時記がなくなっちゃってこまったな  


(笑)
Res:余白(339) 投稿日 : 2002年11月5日<火>16時45分
>歳時記がなくなっちゃってこまったな<
はい、やっぱり困りますかね? 滑稽の中にペーソス。あこ俳句の本領ですね。



●余白(519) 題名:マタイ7 投稿日 : 2002年10月15日<火>10時15分



狭き門めざすが如く鳥渡る




後記:だいぶ寒くなってきましたが、皆様お元気でしょうか。念願だった井上神父からの作品もいただいて、今号も盛りだくさんの内容になりました。また、メインホームページの方も、「井上神父の書簡」や「山根道公氏の遠藤文学講演資料」など、提供をいただき、感謝に堪えません。今後とも求道としての俳句をめざしてお互いに精進しましょう。(余白)




「余白の風」作品募集*俳句・短歌・一行詩等作品数制限なし。エッセイ・評論も歓迎。(但し、採否は主宰に一任してください。)*締め切り  随時受け付けます。*送付先 平田栄一 HP「今を生きることば http://www.d6.dion.ne.jp/~hirata5 」からもリンクして、「余白の風句会」に直接投稿できます
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