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過去ログ01年8月~02年8月  

09/15 (土) 08:29 試練に学ぶ(35)

「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失う

が、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何

の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」(マルコ8:34~37)

 前回まで、救いのためには自己相対化が必要なのだ、というところまでたどり着きましたね。
 では、どうすれば自我は相対化するのか。その答えを端的に表しているのが、この「マルコ」8章のイエスの言葉なのだと思います。



09/17 (月) 23:31

イエスに従うとは、幼子になること

09/17 (月) 23:35

リジューのテレジアは、そう私たちに教えます。

09/17 (月) 23:42

秋深まるこの日々、私たちはじっくりこのことを黙想しましょう。

09/18 (火) 08:19 小さき花のテレジアという人

「この小さい花(テレーズ自身)は、神様の目にうつるままの自分、つまり、貧しい小さな虚無以外の何ものでもない自分を見て、心のう

ちに楽しみ味わっている真の喜びに、ごまかしの喜びのほんの一滴さえ加えることはできません・・・・」(『弱さと神の慈しみ』14頁)

神の目に映る自分は、貧しく、小さく、虚無ばかりであるとテレジアは言います。
これを謙遜の徳というのはちょっと当たらないように思います。
「謙遜」という言葉にはどこか、偽善のにおいがつきまとうからです。
しかし、テレジアの言葉には気負いがまったく感じられません。

そして驚くべきことに、そういう「貧しい小さな虚無以外の何ものでもない自分」を「楽しみ味わっている」、それは「真の喜び」である

とさえ言っているのです。

またこうした発想に自虐的態度を見て取る人がいるかもしれませんが、それも当たらないと思います。
自虐の裏には、充たされない自己顕示欲への欲求不満があるからです。
テレジアにはそういう強欲もありません。

自分を無にして、神の懐のなかに奥深く、ひたすら沈み込んでいく、そういう姿勢からしか生まれない心の安らぎがあるのです。

テレジアの24年間の短い生涯には、劇的な回心も、奇跡も、いわゆる聖人的な徳も、なにもありませんでした。
いな、この短い生涯に、これだけ徹底して「幼子の道」を貫いた、ということ自体が、奇跡というべきなのでしょう。

こうしてみると、異例のスピードで、カトリック教会が彼女を「聖人」とし、さらに近年、トマス・アクィナスと同格の「教会博士」に認

定したことも、ゆえないことではないようです。




09/26 (水) 08:35 ヨハネ福音俳句第1章「言(ことば)が肉となった」

1.初めより言なる神共に在り

2.初めより神共に在すイエスかな

3.万物を創りし言イエスなり

4.命ある言人を照らすなり

5.闇にある光を闇は理解せず

6.ヨハネ来るイエスの証を携えて

7.証するヨハネを照らす光かな

8.光持つヨハネの顔は輝けり

9.世に光今現れて輝けり

10.言もて創られし世は主を知らず

11.人知れず言は民の内に居り

12.我らをも神の子と為すイエスの名

13.神により生まれし子と為すイエスの名

14.肉となり我らに宿る言かな

15.証するヨハネの叫び野に響く

16.我ら皆主よりあふれし恵み受く

17.イエスより恵みと真現れり

18.アバ父に抱かれしイエス神示す


10/07 (日) 01:26 公立学校における宗教教育について

上智大学夏季神学講座「倫理思想概説」ホアン・マシア先生に提出したレポートから(抜粋)

私自身が関わっている高校公民科における宗教教育の実践的試みについてレポートします。

1 新学習習指導要領
(1)第1章「総則」第1款「教育課程編成の一般方針」において「1・・・・生徒に生きる力をはぐくむことを目指し、創意工夫を生かし特

色ある教育活動を展開する中で、自ら学び個性を生かす教育の充実に努めなければならない」とある。
(2)また、その2においては、道徳教育が教育基本法や学校教育法に基づいて、「尊重の精神と生命に対する畏敬の念を・・・・具体的な生

活の中に生かし、・・・・主体性のある日本人を育成するため、その基礎としての道徳性を養うことを目標とする。」
(3)これを受けるべく、「倫理」においては、大項目「(2)現代と倫理」の「ウ 現代の諸課題と倫理」において、自己や現代社会の

倫理的課題を主体的に追求し、人間としての在り方生き方についての理解と思索を深め、生きる主体としての自己の形成を図ることを目的

とした「課題追求学習」が取り入れられている。

2 教育をめぐる状況
(1)ところが、現代社会にみられる「倫理」的状況を考察すれば、生命の尊重や「人間尊重の精神」(「倫理 1目標」)が自明のこと

として教育の大前提とはなりえなくなってきていることが危惧される。昨今の凶悪な青少年事件の発生はその現れの一つであろう。
(2)そうした折り、先日ある私立学校の保護者向け講演会に出席させていただいたのだが、そこで訓育担当主事が「本校はいわゆる宗教

系学校ではありませんが、今や昔の人が言っていた〝お天道様が見ている〝というような精神を育てない限り、道徳の荒廃はどうしようも

ありません」と言っていたことが印象的であった。

3 エピグラムで考える生き方
(1)私はここ10年余り上記のことを念頭に、個性を生かしつつ、自律的精神を養い、人間としての生き方在り方を積極的に考える「課

題追求学習」をどう授業の中で展開するか、模索してきた。とくに「倫理」では、教科書的な知識の羅列ではなんら生徒の主体的な生き方

の模索には結びつかないことを実感したのである。そのあげく、考え至ったのが以下に示す「エピグラム」を使った学習である。
(2)エピグラムとは、直訳すると「警句・寸鉄詩」の意であるが、私の場合はもう少し広い意味で、アフォリズム(断章)風の文章を生

徒に提示して、感想や意見を自由に書かせるというものである。
(3)当初はギリシアをはじめ、様々な時代の思想家の言葉を抜粋して提示してみたが、高校生レベルでは難解なものが多く、生徒の反応

もよくなかった。
(4)そこで思い切って、私自身が生徒との様々な関わりの中で体験したこと、感じたことをもとに、哲学用語をできるだけ使わずに、自

らエピグラムを作成していったのである。それらは7年前から単行本としてまとめ、現在4冊、おそらく300作品程になっている。(『

今を生きることば』(1994年) 『やわらかな生き方』(1996年) 『人の思いをこえて』(1999年) 『雨音のなかに』(2000年))
(5)たとえば、上記2に関するものでは、次のようなエピグラムを作った。
「 人権
 何か事件が起これば、被害者の人権、加害者の人権、学校では人権教育等々、今や人権問題はどのようなところにも顔を出し、かまびす

しく論じられます。
 ところでこの「人権」という言葉は、もちろん憲法でいう〝基本的人権〟のことですが、明治時代、欧米近代思想が日本にもたらされた

ときには、「天賦人権」と訳されたものです。実は、この言葉の方が人権の内容をよく表しています。つまり本来、人権とは、天賦──天

(天地を支配する絶対者)から賦与された(与えられた)ものだということなのです。現代は、この「天賦」の意味が抜きにされた「人権

」論が一人歩きしているように思えてなりません。
 人権論の究極には〝命〟の問題があります。命はなぜ大切なのか、なぜ自殺や殺人が悪なのか、この問いを突き詰めていくとき、「天賦

」という考え方に、どうしても立ち戻らなければなりません。つまり、根源的に命や人権とは、他人のものでも、親のものでも、自分のも

のですらない、第三者──絶対他者から、すべての人に無条件に与えられている──むしろ一時的に貸し与えられている──ものなのだと

いうことです。」(2000年『雨音のなかに』より)(6)生徒はこのエピグラムをめぐって、自らの体験や見聞について思考をめぐら

すことになる。その場合「政治経済」や「倫理」教科書や資料集は、生徒の思考を助ける手段となる。ある者は、ホッブズ・ロック・ルソ

ーなどの人権思想・社会契約説について調べ、ある者は中国思想における「天」の意味、あるいはキリスト教的な絶対者などについて考え

る。そして自らのいじめ体験や差別体験について振り返るのである。

4 公立学校における宗教教育
(1)個々のエピグラムの内容に賛成か反対かは問わないのが原則である。「在り方・生き方」をめぐっては唯一の答えというものがある

わけではないし、なんらの前提もない。たとえば、上記エピグラムを読んだ生徒が「絶対者」を否定して考えを展開する場合もあるが、そ

のこと自体は問題にはならない。
(2)ここで、「絶対者」の観念を持ち出せば、教育基本法第9条2項の公立学校における宗教教育の禁止規定を問題にする向きもあるや

もしれないが、同条1項においては「宗教の社会生活における地位は、教育上これを尊重しなければならない」とある。すなわち、公立学

校において禁じられている宗教教育は、特定の宗派によるいわゆる洗脳教育であって、上記2に記した現代の教育状況の困難を鑑みるとき

、何らかの宗教的感覚を養うことは、急務でさえあると考えられるのである。近年では戦後教育の最大の欠陥は、宗教教育の欠如にあると

する論も多い。
(3)すなわち、具体的に絶対者や特定の神仏を肯定するか否定するかは問わずとも、古来人類がそうした観念から人に対する優しさや生

命の尊さを実感してきたことは事実であって、そうした広い意味でも宗教「的」感覚を身につけさせることは、われわれの任務であると弁

えるのである。




10/24 (水) 16:55 内村さんとの対話

ここに、あなたが明治33年から大正6年までに書いた「所感集」があります。
僕が持っている岩波文庫版は、1973年オイルショックの年に初版が出た後の1978年第6刷です。
この年僕は大学を出て、就職一年目。必死で仕事に取り組んでいました。
で、この第6刷を手に入れたのは、自分の書き込みによると、80年6月。
僕が民間会社を辞めて、あれこれ生き方の問題に悩み、本気で求道し始めたころです。
図書館でも哲学や宗教の本を読みあさり、自分でもずいぶん本を買ったなかに、あなたの「所感集」があったんですね。
なんか、とても懐かしいです。
今僕は、45,いやもう数日で、46歳になりますよ。
あれから21年も経ってしまいました。
その間僕に、何か進歩みたいなものが果たしてあったのかなあ?
自分でもよく分析できません。

先日本棚を整理していて、あなたの、この黄ばんだ文庫本を再発見したのです。
はっきりいって、あなたがこの本のなかで言っていたことは、すっかり忘れてしまっているようです(すいません)。
でもせっかく神様のお計らいで、あなたに再会したのですから、これから少しずつ読み直してみたいと思うのです。
それもあなたの話をただ黙って聞くのではなく、うなずいたり、質問したり、ときには反抗したり・・・・・。
こういう聞き方って、あなたはお嫌いでしょうね。言うことを聞かないお弟子さんをずいぶん破門しましたものね。
でも、聞きかじったあなたの晩年のご様子を知ると、今だったらこういう私のような生意気な聞き手も赦してくださるような気がするので

す。
どうかよろしくお願いします。

内村鑑三 様
                                 余白




10/26 (金) 13:22 永世(1)

内村:「永世他にあらず、神とともにあることなり。」

僕:神とともにあることが永遠だ、というわけですね。
いつもあなたの言葉は簡潔、すがすがしい!
と同時に、あまりにも単刀直入で、恐ろしくなることもあります。
歯に衣着せぬもの言いっていうのは、あなたのような人のことを言うのでしょうね。

神とともにあるとき、「時間」はクロノスからカイロスへと移行する・・・・。
永遠というのは今の時がず~っと続くってことじゃありませんものね。
このあたりの感覚は、現在に生きている僕たちには、ちょっとわかりにくいけど。

「天国他にあらず、神の在(いま)し給うところなり。」

天国という「空間」概念も、僕らが常識的に想像するようなものじゃないんでしょうね。
神様とともにいるとき、僕らは時間も空間も超越し、つまり三次元を超えた世界に導かれる、ってことなんじゃないですか?
イエス様の復活物語なんかを四福音書で読み比べてみると、おぼろげですけど、そのことがわかってきます。






10/27 (土) 17:55 永世(2)

「神の霊わが心に宿りて、われわが神の造り給いにしこの宇宙に棲息して、われは今よりすでに永世を享(う)け、神の天国にある者なり

。」

永遠も天国も先取りしているキリスト者ってなわけですね。
内村さんには怒られるかもしれないけど、これはキリスト者だけの特権というより、すでに天国を先取りしていることを<知っている>、

ということがキリスト者と非キリスト者の違いなんじゃないかなって思うんですよね。
だって、あなたも「われわが神の造り給いにしこの宇宙に棲息して・・・・」って言ってるように、神様が造ったこの宇宙に棲息しているのは

、キリスト者だけじゃないですから。
生きとし生けるもの、万物が神様の御手のなかにあるのですから・・・・・。

「神の霊わが心に宿りて」っていうのは、僕の心の奥底に神様の心が宿って、内から僕の悪い心や病んでいる体の部分を治してくれる、そ

して天国にふさわしい者に変えてくださる、そんな感じで受け取っていいんでしょうかね。

そして外側からも神様の御手が包んでくれて・・・・う~ん、なんかいい感じですよね、あったかい神様の手の温もりが伝わってきて、頭寒足

熱!体にもやっぱり良し!

僕は最近、お祈りっていうのは、そりゃあ、あなたの勧めるように、聖書を読むことも大事だろうけど、なんというか、こういう内と外か

らの神様の愛を黙想し、その感覚を思い起こす事何じゃないのかな、って思うんですよねー。
これって、おかしいですか?内村さん。

10/28 (日) 14:30 表白(1)

内村:「余はキリストを表白するに大胆なるべし。」

余白:イエス様をどういう方として「表白する」(告白)するか、ってことですよね。
それは「大胆」であれ、ということ。

考えてみれば、そもそもキリスト者っていうのは、2000年も大昔の寒村に生まれた名もない<イエスをキリスト(救い主)>って信じ

ちゃうわけだから、それだけで十分ラディカルだし、大胆きわまりないわけですけどね。

「君、何でそんな、万が一つにもあり得ないことを信じちゃったの?」って言われたって、困っちゃうわけですけど、理性の常識から考え

れば、信じられない方が、疑う方が当然ですよね。

ですから、宣教論・伝道論っていうのがあるけれど、AならB、BならC、って論理で物事を考えようとする近代以降の社会の中で、「みな

さ~ん、イエスはキリストなんですよ~」って叫んでも、「あいつ、おかしいんじゃないか?」って思われるのが、当たり前なわけです。

でも内村さんは、「それでもわしは、大胆に語るぞ~~」、「君たちキリスト者も大胆であれ~」って言うんですよね。

う~ん、確かに世の人は理性で考えようとするけど、実際の人間行動や社会現象を観察すると、案外理性じゃ動いていなくて、なんかもっ

と別の原理が世の中を動かしているんじゃないかと思えてきます。

だから、<イエスがキリスト>だっていう、世の確率から言えば万に一つの信仰も、この世に食い込む余地は十分に残されているのかもし

れませんね。
そういう希望を思うと、なんかキリスト者として、元気が出てきます。


10/29 (月) 15:54 表白(2)

「余はかれを世の聖人君子と混ぜざるべし。余はかれを孔子、孟子、老子、釈迦、ソクラテスと階級をともにして論ぜざるべし。余はかれ

に冠するに人類の王の冠をもってし、余の全身をかれに捧げてかれの謙遜なる僕たるをもって余の人たるの最上の名誉となすべし。」

イエスは「人類の王」ということ。
ふむふむ。聖書にいう「神の国」っていうのは、バシレイアという言葉で、これは国っていうよりは、「支配」って意味なんですよね。
神の支配、これ、古代ローマなんかじゃ、いい王様の下で支配されるっていうのは、幸福なことだったんですね。

現代人が「支配」って聞くと、すぐ抑圧とか隷属ってイメージを持つけど、当時のローマは、まあ言ってみれば反逆とか税を納めないって

いうことのほかは、けっこう自由な活動を属国民にもみとめていた、どちらかと言えば、緩やかな支配だったといっていいでしょう。

それから「人類の」って言うのですから、もちろん仏教徒や儒教に生きている人たちも含めて考えているんでしょ、内村さん。
だからこそ「孔子、孟子、老子、釈迦、ソクラテスと階級をともにして論ぜざるべし」ってことになるんですよね。

パウロなんかも、晩年は、人類から万物の主、そして宇宙的キリストってなところまで行っちゃうんですね。すごい大きなスケールのキリ

スト論です。

あなたは、そのキリストに全身を捧げて僕になることこそ、最上の名誉だ、っと告白なさるんですね。う~ん、すごい信仰告白です。

そうあなたが告白するとき、きっと、パウロの次の言葉が心底にあったのでしょう。
「キリストは、・・・・自分を無にして、僕の身分になり、・・・・へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(

フィリピ2:6,7,8)
そういうキリストだからこそ、「神はキリストを高く挙げ、あらゆる名にまさる名をお与えにな」ったわけです。

こういうキリストにならう、っていうのがキリスト教の根本にあるんですね。
だから、普通の名誉の獲得の仕方とは、180度逆の方法で天国の名誉が与えられるわけです。
イエス様が、「わたしはこれ(平和)を、世が与えるように与えるのではない」(ヨハネ14:27)って言われたのは、このことなんで

しょう。

そうすると、キリストの「謙遜なる僕」っていう内実はどんなものなのか、今度はじっくり考えてみたいと思います。





10/30 (火) 13:41 クリスチャンの勇気

内村「神に頼るにあらざれば何事をもなしえざる者はクリスチャンなり、神に頼れば何事をもなしうる者もまたクリスチャンなり。」

パウロも同じようなことを言っていますけど、僕らキリスト者(僕はどうもクリスチャンという英語が嫌いなんです、日本人としてのレー

ゾンデートルから、やっぱりキリスト者っていいたい)は、骨身にしみて、あなたのように思っているかどうか。

ついつい、自分がやってるつもりになっちゃう。
そして気がついてみると、何も出来ない自分に幻滅しちゃう。

イエス様も、この件で、お弟子達を叱ってますよね。(マルコ9:14~25)
汚れた霊に取り憑かれた子を親が連れてきて、お弟子達に霊を追い出してもらおうとした。でもお弟子達はできなっかったわけです。
するとイエス様は「なんと信仰のない時代なのか」と嘆いて、治してあげる。
あとでお弟子達が、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねます。
するとイエス様は、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできない」と言われます。

僕は想像するんですけど、お弟子達も悪霊を追い出そうとしておそらく祈ってはみたんだと思うんです。でもだめだった。
何がいけなかったのでしょう?

イエス様は「祈れ」というわけです。
ということは、お弟子達が考えていた祈りとイエス様がいう「祈り」は違うんじゃないかってことです。

その違いは、祈りの姿勢なんじゃないでしょうか?
単なる祈りの言葉の問題じゃない。

イエス様は、天の御父に絶対信頼して、つまり「自分を無にして」祈られた。
自分が何かやってやるんだ、っていう意識はまったくなかったんじゃないでしょうか。
それに対してお弟子達は、「よーし、おれが治してやるぞ」っていう、気負いというか、自負というか、要するに、「おれが、おれが」と

いう自意識、自我で祈ろうとしたんではないでしょうか。

自我が中心にあるところでは、神の力は働かない。
自分が、「こちら」が中心になってしまって、神、「あちら」が出てくる幕がないわけです。
そういう法則、救いの根本原理のようなものを、イエス様はお教えになったんじゃないでしょうか。

十字架、復活、聖霊降臨を経たペトロはそのことに気づきます。
ですから、神殿のところで足の不自由な男に次のように言います。「ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がりなさい。」(使徒

3:6)
この言葉には、自我による作為はありません。
自分を無にしてイエスの霊の力に信頼して祈っています。
そして男は癒され、躍り上がって神を讃美したのです。

内村「世にクリスチャンのごとく弱き者あるはなく、またかれのごとく強き者あるなし。かれが世人に怯夫(きょうふ)視せらるると同時

にまたかれらの想い及ばざる大胆なる行為に出づるをうるは、かれの勇気と勢力とはかれ以外、人以上の者より来るものなればなり。」

「かれ以外、人以上の者」、つまり神への絶対信頼のみによって業をなす者こそ、本物のキリスト者ということなんですね、内村さん。



11/01 (木) 12:04 死生の別

内村「肉のことを念うは死なり、霊のことを念うは生なり(ロマ書8:6)。地のことを思うは死なり、天のことを念うは生なり。利のこ

とを念うは死なり、義のことを念うは生なり。人のことを念うは死なり、神のことを念うは生なり。ああ、われいずれのときかわが肉を離

れてわが神を見ん(ヨブ記19:26)。」

聖書にいう「肉」っていうのは、肉体ということじゃなくて、人間中心主義のことですね。それに対し、神中心の心が「霊」です。
肉より霊、地上より天国、人より神中心であれ、ってわけですね。

これを単に禁欲主義のすすめ、みたいに受けとっちゃまずいんですよね、内村さん。
この世のことや僕たちが持っている夢を捨てて、あの世の幸福だけ考えろ、っていうんじゃ、ちょっとちがうんじゃないかなあって思うん

です。

日本ではキリスト教っていうと、どうもそういう禁欲的信仰のように思われちゃってるふしがあるんですね、困ったもんです。
こういうイメージって、内村さんなんかのキリスト信仰が儒教・武士道精神と直結しちゃって、リゴリズム(厳格主義)的に解釈されちゃ

ったためじゃないかな、って思うんですよ。
そこへ持ってきて、戦後日本にアメリカから入ってきたキリスト教が、ピューリタニズム傾向が強いんで、なおさら、キリスト教っていう

と、なんか堅苦しいイメージが固定化されちゃったんですね。

たとえばね、内村さんのこういう言葉を読んで、「おれは酒も飲まず、何もかも我慢して、神様のことだけ考えて暮らしているんだぞ~」

って言ったら、なんか、イエス様やパウロの教えとは、ちょっとずれちゃってるんじゃないかなあ、って思うんです。

イエス様はお酒も飲んだし、「大酒のみの大食漢」って悪口を言われて、もちろんこれは、反対者の誇張表現だとは思うけど、少なくとも

禁欲主義とは程遠い、もっと自由人だったんじゃないかな、ってこの頃想像するんです。
反対派のファリサイ派の人にだって誘われれば、いっしょに食事をしたし、裏切っていくユダとも食事をし、足まで洗っていますよね、イ

エス様は。

ただ、真剣に救いってことを考えたとき、ただ酒飲んでひっくりかえっていればいい、ってことにはならないですよね。
問題は、飲むか飲まないか、じゃなくて、自分というものが相対化するかどうか、あちら様である神様に自分の人生の主導権があることを

、本気で思えるか、ってことじゃないのかなあ。
「おれはこれだけ我慢してるんだ~」っていうんじゃ、結局は我慢している自分が中心になっちゃってるわけですよ、神様じゃなくて。

だから、「地より天国を思え」、「肉より霊を思え」、「利より義を思え」っていうのは、すべからく、自己を相対化するためなんですね


僕らの真の幸福ってのが、神様に人生の主導権をもってもらう、いや、本当はすでにもってもらっている、そのことをきちっと弁えられる

かどうかにかかっているってことなんじゃないでしょうかね、内村さん。

11/02 (金) 13:05 われの祈願

内村「われは財を賜わざるも可なり。われは名と位とを求めず。われにインスピレーションを降(くだ)せよ。われをしてわが神を宇宙と

万物とに認めて、今世にありてすでに来たらんとする永久不滅の栄光を感ぜしめよ。」

キリスト者の特権?って何かな、なんてときどき考えるんです。そんなものあるのかなあ?とも思います。。
他宗教との対話とか、信仰を持たない世俗のなかで生きていくときの人間関係とか、いろいろ難しいことってありますよね。

内村さんは、名誉とか地位なんていらない、あらゆる事象に神を認めて、「すでに来たらんとする永久不滅の栄光を感ぜしめ」る、そうい

うインスピレーションをこそ望む、ってわけですよね。
たしかにあなたの一生は、そういう希望を貫いた立派な人生でしたね。

僕はキリスト者ってのは、金儲けでも、名誉でも、地位でもない、さらに言うと、洗礼や信仰を持ったキリスト者だけが救われる、とも思

えないのです。
内村さんはたしか、「仏教徒は救われないのですか?」と質問されたとき、「わからない」と答えたんでしたよね。あなたは正直な人だと

思います。御自分の気持ちに偽りがない。
「キリスト教だけが救われる」とも言わなかったし、八方美人的に、「どんな信仰でも救われる」とも言わなかった。

僕の尊敬する井上洋治神父は、仏教を大変よく理解し、法然さんや一遍さんをこよなく尊敬しているんですけど、他宗教の救いについては

、宗教は道であって、生きるものだ、一つの道を選んで生きるということは、他の道を云々する資格は持たないということだ、とおっしゃ

います。それが他宗教の人に対する尊敬であり、礼儀だといいます。

僕はそれでも、他宗教や無信仰の人も救われる(可能性がある)と思いたいのです。そう、これは僕の希望でしかないのかもしれませんが


でも、「多元主義」じゃないんですよー、これははっきり言って置きたいと思います。
「じゃあ、おまえはなんでキリストの洗礼を受けて、教会に通っているんだ?」って言われるかもしれない。

ぼくはね、こう考えているんです。
仏教でも無信仰でも、救いはすべてキリストによる、と。たぶん僕のこういう立場は、「包括主義」ってやつなんですね。

だから、洗礼を受けるってことは、この世にいる間にキリストによる救いをアーメンといってあらかじめ受け入れる、ってことなんです。
天国・救いをいわば先取りし、キリストの救いを「知っている者」、それがキリスト者ってことじゃないかな、と思っているんです。

「神を宇宙と万物とに認めて、今世にありてすでに来たらんとする永久不滅の栄光を感」じている者、それがキリスト者の特権といえば特

権といえるものなのかもしれません。


11/04 (日) 17:31 真理

内村「真理は神の属(もの)なり、これ必ずしも国のために宣ぶべきものにあらず。吾人もし国を救いえずんば、努めて真理を救わんのみ

。真理を保存して国家は亡ぶるもまた起こり、真理を放棄して国家は栄えてついに死す。世の国を念うものは国家に対するよりもより多く

真理に対して忠実なるを要す。」

この世の国を救おうとするなら、まず真理に忠実であれ、ってわけですね。
イエス様も、「まず神の国とその義とを求めよ」って言いましたね。この「神の国」バシレイアは、神の支配ってことでしたね。

しかし、この日本では「真理」って言ったときに、あまりにも漠然曖昧ですよね。
「真理」とは何か?
実存主義なんかじゃ、人の数だけ真理があるわけで・・・・。
内村さんはこれからそれを僕らに明らかにしてくださるんでしょうか?
しかし、この国じゃ、「真理はキリストにある!」って言ったって、納得しませんよ、みんな。

僕はキリスト者だから、内村さんが言いたいことがなんとなくわかるけど、もし、真理はキリストにある、って主張するんなら、それを日

本人にわかるように、普通の日本人が「あ~なるほど」って思うように表現しなきゃだめですよね。

「イエスはキリストだ、真理だ、道だ、神の子だ」って聖書には書いてあるけど、ただそれを鸚鵡のように繰り返しているだけじゃだめな

わけで、それをどう日本人に伝えるか、どう表現するかってことが、僕たち日本人キリスト者の使命なんだと思います。

「真理はあなたがたを自由にする」ともイエス様は言いましたね。
内村さんは、それだけじゃなくて、真理に立てば一度亡んでも国家は必ず再び立つというわけですね。
そうして再興した国家こそ、神の国にふさわしいものなんでしょうね、きっと。


11/05 (月) 11:50 宗教と政治

内村「今や宗教を去りて政治に入るべきときにあらず、今や政治を去りて宗教に入るべきときなり。政治は勢力の応用にして宗教はその製

作なり。もし製作するものは消費する者よりも偉大なりとすれば、宗教は政治に勝りて世に有功なるものといわざるをえず。」

戦前の国家神道と軍国主義の結びつきから悲惨な戦争に突入した反省から、戦後憲法では、政教分離が定められました。
いわゆる宗教政治の弊害は、古今東西どこにでも見られます。
そのことを知った上で、内村さんはそれでも、「今や政治を去りて宗教に入るべきときなり」とおっしゃるんですね。

あなたは、政治思想の根本に宗教があると言いたかったのではないですか?
たとえば、民主政治の基本原理は多数決制とか、国民主権とか、法の支配とか、いろいろありますね。
しかし、それらは何のためにあるのか、といったら、すべて基本的人権を保障・尊重するためなわけです。

学校では、日本国憲法の三大原理ってのを教えるんですが、国民主権・基本的人権の尊重・平和主義っていうのは、三つが別個に、並列的

に置かれているんじゃないんですよ。
国民主権は、国民の基本的人権を保障するのに最も適切な制度と考えられるし、平和主義は国外の人間の基本的人権を守るためには、戦争

をしないってことなんです。
だからすべての民主的政治制度は、すべからく基本的人権の尊重にあるといって過言じゃないわけです。

じゃあ、なぜ基本的人権を守らなきゃいけないのか?ってことになります。
この説明は、いくら政治を研究したって出てきません。
もう倫理や宗教の領域の問題だからです。

基本的人権っていうのは、近代の自然法思想「自然権」から来ているんですね。
これが日本に入ってきたとき、幸徳秋水なんかは、「天賦人権」って訳したんですよ。うまい訳だと思います。
「天賦」=天が賦与=与えた人権ってわけです。
「天」は中国なんかじゃこの世を超えた絶対者、いわば神様のことですね。
だから、僕たちが基本的人権といってるものは、神様から皆が等しく、生まれながらに与えられているものなんです。

そう考えると、人権というのは、神様から直接一人一人に与えられているものであって、それを第三者が奪うことは赦されないし、もっと

いえば、神様から貸し与えられている、信託されているものですから、自分のものですらないわけです。
人殺しや基本的に自殺が悪いことである、という究極的な根拠はここにあるんじゃないかと思うんです。

内村さん、あなたが「政治より宗教を」っていうときの根本思想はこういうところにあるんじゃないでしょうか。




11/06 (火) 10:20 救済

内村「人を救うとはかれに衣食を給するの謂(いい)にあらず、かれの欲心を充たしてかれに一時の快楽を供するの謂にあらず。人を救う

とはかれをかれの神なる在天の父に導くことなり。「われに父を示し給え、されば足れり」。われわが父のわがすべての祈祷を受納するあ

るを知りてわがすべての希望は充たさるるなり。われにわが父を示す者、これわが師なり、わが恩人なり。」

キリスト者をいわゆる福音派と社会派とに分けることがありますね。
カトリックでは、観想修道会と活動修道会っていう分類もあります。
これをあまりに峻別して、「あの人は福音派だから・・・・」「あの人は社会派だから・・・・」といって色眼鏡で見てしまうのは、危険な気がし

ます。
しかし現実のキリスト者は、どちらかにどうしても傾いてしまう傾向があるようですね。

福音書のイエス様を見ると、福音派とも社会派ともいえない、絶妙なバランスを、自然に保っていたように思います。
罪人や病人に、「あなたの信仰があなたを救った」「私を信じなさい」といいつつ、病気や障害を癒し、空腹を覚えた群集にパンを与えて

います。

イエス様のなかでは、信仰と社会活動とが一体となっていたのでしょう。
イエス様にとってはそのご生涯全体が祈りであったし、神に対する奉仕、讃美、感謝だったのだと思います。

そういうイエス様の根本姿勢は何だったのだろうと、考えると、わたしはやはり、人を裁かない、どんな人をもまず受け入れる、そういう

姿勢なんじゃないかと思うのです。
それは無我=自我というものを完全に拭い去って、神様の前に透明な水晶のようになった姿勢から生まれるのはないでしょうか。

神様の御心がそのまま映る鏡であり、その御心をそのまま実行に移せる水晶、そんなお方だったのだなあ、と思うのです。
そういうイエス様だからこそ、悲しんでいる人、苦しんでいる人の、今望んでいることを直感的に知り、受け入れ、必要なものを与えるこ

とができたのですね。
それは信仰や祈りであるかもしれないし、具体的なパンかもしれない。

「われらに父を示し給え、されば足れり」とフィリポが言ったとき、イエス様は、「わたしを見た者は、父を見たのだ。・・・・わたしが父の

内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。」(

ヨハネ14:9,11)と言われました。

キリストの霊を内にいただいた真のキリスト者にとっては、信仰と業は互いにリンクしているものであり、それを対立して考えようとする

わたしたちが、狭い分別から越えられるように、祈りたいものです。

11/09 (金) 21:58 目前の義務

すべてなんじの手に堪うることは力をつくしてこれをなせ(伝道の書9:10)、その何たるを思い患うにおよばず。すべて正直なること

、すべて世を益してこれに害を加えざること、これ吾人が全心全力を尽くしてなすの価値あるものなり、世に事業の選択にのみ気力を消尽

してこれをその決行に用いざる者多し。大事業の端緒はまず目前の義務を果たすことなり。


 正直に、世のためになるものであれば、その何たるかを問わない。
 「目前の義務を果たす」ことだ、ってわけですね。
 世の中には、あれをしようか、これをしようかって迷っているうちに、一生終わっちゃう人が多いってこと。

 う~ん、僕なんか、耳の痛い話です。
 青年時代から、ず~っと迷ってましたから。
 会社勤めをしていても、役所に勤めていたときも、何か本当にこれが自分の一生の仕事だ、ってなかなか思えなかった。
 やっと今の仕事に落ち着いたわけなんですが・・・・。

 自分の一生の仕事が何なのか、っていうこちらからの探求と、どんな場所でも与えられた所で努力するっていう、あちらからの摂理とい

うこと。
 自分と神様のそういうやりとりのなかで、だんだん自分独自の道が開かれてくるのかなあ、なんて、40過ぎてからやっと思うようにな

ってきました、遅きかな。

 内村さんは、「後世への最大遺物」という講演のなかで、金・事業・教育・文学とそれぞれの仕事の意義を認めていますね。しかし、こ

ういう賜物は誰にでも与えられているものじゃない、といいます。
 そして最後に、誰でもが後世に残せる「遺物」が、「偉大なる人生」だと言っているわけです。

「その何たるを思い患うにおよばず。すべて正直なること、すべて世を益してこれに害を加えざること、これ吾人が全心全力を尽くして

なすの価値あるものなり。」
 あなたのいう「偉大なる人生」というのは、こういうことが念頭にあったんじゃないかと思うのです。

 しかし人間は、なかなか「正直なること」もできないし、「すべて世を益してこれに害を加えざること」もできませんよね。
 でも僕は、亡くなった遠藤周作さんが言われた次の言葉を信じたいと思うのです。

「自分の人生をふりかえり、この年齢になってみると私はかつて犯した愚行も、かつて私の身に起こった出来事も──たとえそれがその

まま消えてしまうように見えたものでも、決して消えたのではなく、ひそかに結び合い、からみ合い、そして私の人生に実に深い意味を持

っていたことに気づくのだ。
 私の人生のすべてのことは、そう「ひとつだって無駄なものはなかった」と今にして思うことができる。ひとつとして意味のなかったこ

とはなかったと思う。」(「生き上手 死に上手」)

11/18 (日) 15:32 福音書を捲る

 古来、祈りには、様々な方法が工夫されてきました。
 カトリックにはロザリオの祈りや念祷、ミサへの参加、詩編を唱えたり聖歌を歌ったり。プロテスタントではやはり聖書を読むというこ

とが中心になるのでしょう。
 しかし私たちは弱いものです。いくら祈りに集中しようと努力してもどうにも気が散って仕方がない、そういうときがよくありますよね

。気にかかること、心配事があって、そればかりが祈りのなかで頭をもたげてきてしまう・・・・。
 そんなときのヒントになるかどうか、私の拙い経験的方法を一つ紹介したいと思います。

 それは、福音書を、「ただ捲(めく)っていく」、といういたって簡単な、安直な祈りです。
 これを祈りとしてみなさんに紹介するのは、ちょっとおこがましいかな、と少々躊躇する気持ちもあるのですが、簡単であっても安直で

あっても、経験的にともかくも効果があるのです。もしかすると、すでにご自分で発見されて同じ方法で祈られている方もあるかもしれま

せん。

 幸いに福音書は四つありますから、そのとき気が向いた一つを選んで、ページを眺めながら、ゆっくり捲っていくのです。ただそれだけ

です。読むのでなく眺めるというところがポイントです。新共同訳やフランシスコ会訳聖書には、ペリコーペ(段落)毎に便利な見出しが

太字でついていますから、眺めるだけでおよその筋が追えます。日頃聖書を読み込んでいる人なら、イエス様とその周囲の人たちのやりと

りも思い起こすことができるでしょう。
 もちろん、ふと目に付いた言葉に立ち止まって、そこから黙想に入ってもかまいません。ともかく無理に読もうとしないこと。

 これを度々繰り返していくと、やがて、福音書をゆっくり捲るというあなたの手のリズムが、福音書の中を静かに歩むイエスのリズムと

重なっていく・・・・あなたはイエスの生涯に付き添っていく、いやイエスがあなたの生涯に付き添っている・・・・ふとそう思う瞬間がきっとあ

ります。

 聖書は一語一句精読すべきものであるという先入観に囚われず、ときにはこういう斜め読み?流し読み?もしてみると、木を見て森を見

ず、という聖書読みの危険性も回避できるかもしれません。

11/20 (火) 08:27 神学的なる小説

 晩秋から冬へ向かっている。居間の金魚も水槽にじっとして動かない。
 あらゆる生き物が、息をひそめつつある。ほとんど陽の当たらないこの庭のわずかな木々は、夏でさえ寒々とした堅い葉を針葉樹のよう

に保っているのだ。ましてやこれから本格的な寒波を迎えるとなればすでに、越冬の厳しさに身構えるように、一葉の微動さえない。ふと

彼は思った、この木陰にマリア像など置いたらどうだろう・・・・。
 聖書世界と彼を取り巻く日常とが、なんとも耐え難くかけ離れているという寂しさが、少しずつ氷解してきたようにも思う。ここまで来

るのにずいぶん長い年月を要したものだ。
 妻が二人分のお茶を入れて、持ってくる。彼は「ありがとう」と気のない返事をしてテーブルに向き直り、小一時間も広げてある分厚い

聖書と注解書にあらためて目を落とした。

 そもそも聖書世界は色彩に乏しい。聖書が信仰という、形而上の問題に焦点を置いた宗教書であり、かつ旧約世界が厳しい自然に囲まれ

ていたことを思えば、それは当然と言えば当然なのかもしれない。今日はその色彩の乏しさが、ことさら身に沁みて辛い。ここ数日つづく

曇天のせいもあるのだろうか。しかし最大の要因は、身体上の問題のように思う。
 新約時代になっても、パウロの手紙や使徒行伝はもちろん、福音書にも自然を思わせる記述は多くない。その中でイエスの「山上の説教

」の次の記述は異色である。

「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。・・・・野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働き

もせず、紡ぎもしない。」(マタイ6:26,28)

 イエスは身の回りの自然を「よく見なさい」、「注意して見なさい」と言っているのだ。「ルカ」では「鳥」が「烏」になっており、文

語訳聖書では「野の花」が「野の百合」ともなっている。より具体的に表現されているのだ。
 イエスがキリストである、とは最低限のキリスト教の条件といっていい。しかしそういう信仰を告白することと、史的イエスが見たよう

に、また命じたように、自然を「よく見る」ことによってたどり着くであろう世界観とは、どこでつながるのか・・・・。彼はこんなことを、

長い間考えてきたのだった。

 なぜ彼がそんなことを考えるようになったのか。彼はいわゆる自然愛好家ではない。庭先にときどき来ては乏しい草の実やら小枝をつい

ばんでいくありふれた小鳥の名前すら、すぐ言い当てることもできなかった。植物についても同様だった。草木の名前や生態や、そういう

ことにはほとんど興味を持たなかった。ちょうど、見慣れない外国人の顔がみな、一様に見えてしまうように、鳥を見ても草木を見ても、

彼の目に映る物はせいぜい数種類にしか分類できなかった。

 イエスが百合を,烏を,世界を見たときに,驚きと感動をもって神を感じたことだあろう。それは,十字架の道までも突き進んでいくほ

どのものだった。その止むに止まれぬ,抜き差しならぬ感動。それが少しでもあったなら・・・・,しかし,まったく今の彼には不足していた

。自然ばかりではない。見るもの,聞くもの,すべてが,モノトーンにしか思われない,無感動と失望,虚無・・・・出口の見つからぬ洞窟の

中をさまよい歩いているような日々が続いていた。

 「体調が悪いのだ。」どうどう巡りの煩悶のなかで,彼が出したとりあえずの結論は,いたって簡潔だった。
 まず朝がよくない。目覚めて床で最初に思うことは、「つまらない」という圧倒的な感覚であった。とくにここ一週間はよくない。比較

的安定していた夏場に比べると、それは甚だしい下降であった。このつまらなさ、とは何なのか、長い間考えてきたが、十分に分析できな

いでいた。これほどつかみ所がない、圧倒的な虚無感に、ときに彼は驚きすら感じることもあった。
 心身一如というが、しかしそうとばかりは言えない。ぐっすり眠れた翌朝など、身体のどこの部分にも疲労や痛みが無くても、どうしよ

うもない虚しさに襲われることもあった。が、もちろんその確立は、身体不調の時の比ではない。


11/27 (火) 06:50 日本のイエス

Sさんへ
たしかに、ヨハネ伝のとおり、「イエスは道であり、真理であり、命」なんですけどね。
ヨハネ福音書自体、最初の非神話化といわれているように、ユダヤで起こったあの出来事を、ギリシャ化して語っているわけです。イエス

が「ロゴス」という発想自体が典型的な例。
この延長で考えれば、ローマへ、ヨーロッパへ、アフリカへ、アメリカへ、そして日本でも、その土地での土着化、ってのが行われるわけ

ですね。
たとえて言えば、聖画など、イタリアではイタリア人の顔つきのイエスだし、アフリカでは黒人のイエスです。
だから、日本という土地のイエスはどうなるのか、ってな問題なんですがね。
もちろん根底にある「イエスは主である」ってのは当然ですよ。

旧約聖書が七十人訳でギリシア語訳され,イエスのアラマイ語がギリシャ語コイネーに翻訳され,カトリック教会がラテン語訳し,ルター

がドイツ語に・・・・そして,各国語に・・・・,聖書も聖伝も翻訳一つとっても,必ず各国・各地域の文化と一体となって伝播するので

す。
文化は信仰を運ぶ船のようなものであって,そうした器というか,溶解液というか,そういうものがなければ,精神的なもの,抽象的なも

のは伝播されません。
長崎の教会で聞いたロザリオの祈りの節回し~~~これは長崎でなければ出てこない,関東の私などには,大発見でした。と同時に,とっ

ても感動したことを覚えています。それでいいのです。
長崎の,関東の,日本の,アジアの・・・・そうして初めて福音というものがそれぞれの歴史と文化という,不可避の背景の中で生きてく

るのだと思います。
文化を無視した福音表現の画一化,決めつけというのは,人種や民族や個々人の多様性を無視した暴論と言わざるをえません。
イエスの十字架による犠牲,という発想すら,多様な受け取り方があるのであり,そもそもヘブライ民族の一解釈,という見方もできるほ

どです。




11/29 (木) 21:17 今日

 目覚めの気分が一日を支配するわけではない,という単純な事実を何度も何年も繰り返しながら,身につかないばかりに,また一日を無

駄にする現代人がなんと多いことか。

11/30 (金) 15:53 現存

 偶然、運命のいたずら、不運と思われる出来事に、どう意味を見つけられるか。それが出来たとき、あなたは神を見出したのである。
 しかし、あなたが今はどう考えても、意味を見出せなくても、神がいなくなったわけではない。ただ、あなたの目には見えなくなってい

るだけである。
 長いトンネルを潜り抜けたとき、真っ青な空やまぶしい陽光に出会ってほっとするように、あなたが苦難のトンネルを潜り抜けるとき、

神にまみえることになるだろう。

11/30 (金) 20:16 秤

 今日食べることに事欠く人間の苦悩と,王宮に住んで生きる目標を失っている人の呻吟を,どちらが重いかと秤ににかけることのナンセ

ンス。

11/30 (金) 20:22 予兆

 たとえば,確実に冬に向かっていく時期の,ときに吹く南風。酷暑に向かう季節の,ときに降る涼雨。高熱に伏す病床で味わう一口の水

。救いの,天国の予兆は,日々新たなり。

12/01 (土) 17:28 驚き

 だれかは癒されて,だれかは癒されないということ。
 かつて奇跡は確かに起こっただろうし,現代でも,将来にわたっても起こるだろう。しかし,どこまでいってもすべての人が癒されるわ

けではない。
 イエスは,彼の所に来る「すべての人」を癒したが,それが「救い」の本質であれば,できるかぎりながらえて,治療に専念したはずだ

。しかしそうはされなかった。奇跡と治癒は,「神の国」到来の印でしかなかったのか。
 イエスが全能の力で治癒することを止めてまでも,十字架にかからなければならない「救い」であるなら,奇跡と治癒を目の当たりにす

る以上の驚きと喜びをもって迎え入れられるべきものだったはずだ。 

12/01 (土) 20:29 希望

 病か老化ゆえか,その直接の因は問わず,肉体の衰えや気力の衰えにもかかわらず,来るべき世の希望さえ失わぬなら,あなたは救いの

門をすでにくぐっているというべきではないか。

12/02 (日) 17:38 視点

 自らの失策にしろ,運命のいたずらにしろ,今すぐ現実が変えられないものであるなら,自分の視点を変えるほかない。
 それは,世間的には気休め,負け惜しみ,言い訳,心理学的には自己防衛と片づけられるかもしれないが,信仰的視点から見れば,自我

相対化への試みという一点において,救いへの萌芽を内包している。

12/03 (月) 16:11 貧しさ

 さまざまな御利益があるに越したことはない。奇跡が起これば、こんなすばらしいことはない。それを目の当たりにできる人は幸いであ

る。
 しかし多くの信仰者には、なお痛みもある。不安もある。迷いもある。
 信仰を持ったからとて、洗礼を受けたからとて、現世での弱さがすっかり克服されてしまうわけではない。
 多くの人たちは、そんな信仰など何の役にも立たないではないか、というだろう。そうかもしれない。そのとおり、信仰など、この世を

都合良く生きる足しにはならないかもしれない。特効薬にはならないかもしれない。
 こうして人が宗教に入る当初の目的──病気の癒し、心の平安、弱さの克服等々は、ことごとく裏切られるかもしれない。神も仏もある

ものか、と悪態をつく人もいるだろう。そして多くの人は落胆し、信仰の入り口で引き返し、あるいは持っていた信仰を捨てるだろう。
 しかし何人かは、この地点まで来て、なお信仰に留まろうとする。なぜか?
 あれもほしい、これもほしい、という「こちら」側の自我がうち砕かれて、神、仏、絶対他者・・・・「あちら」様が人生の主人公であるこ

とに気づき、それを受け入れたからである。
 したがって、世に信仰者ほど、みすぼらしく見えるものはないかもしれない。

12/04 (火) 15:56 寛容

 本来、信仰が増す程、寛容になっていくものではないか。

 「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。」(フィリピ4:5)

 「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」(ガラティア5:22)

 世に熱心な信仰者は多いが、寛容を身につけている者は少ない。
 マザー・テレサは、接するすべての人にキリストを見ていたから、多元主義者ではない。
 しかし一方で、イスラムでも仏教でも、相手の信仰を大切にし、その人の信仰を否定したり、改宗を勧めることは一度もしなかったから

、排他主義者ではない。
 すべての人にキリストを見ながら、相手の信仰を尊重する態度は、包括主義でしかありえない。排他主義でも多元主義でもない。
 自らの信仰を堅持しつつ他宗教も認めていく道は、包括主義以外に考えられない。

12/05 (水) 17:39 罪

 他者を傷つけ易く,他者に傷つけられ易い,という人間の病理現象。



12/06 (木) 09:05 背筋

 クレオパトラの鼻がもっと短かったなら、世界が変わっただろう、といったのはパスカルである。
 たとえば、一週間意識して背筋を伸ばして生活するだけで、発想・人間関係はたまた人生観・世界観までも変わり得ることをだれが否定

できるだろうか。
 自信たっぷりに理論武装された悲観主義さえ、例外ではない。

 

12/07 (金) 10:29 信仰と愛

 「信仰と、希望と、愛、・・・・その中で最も大いなるものは、愛である。」(一コリント13:13)
 「山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。」(13:2)

 伝道に熱心なある宗教の信者に聞いたことがある。「なぜ、あなたはそんなに熱心に布教活動をするのですか?」彼曰く、「真の神様を

知らないということは、不幸なことです。それに気づかせることが愛だからです。」なるほどと思う。
 しかし、さまざまな宗教団体が同じようにこの姿勢で他者に当たったらどうなるだろう。「うちがほんもの」「いやうちこそが本当の

神・・・・」そうしていがみ合い、宗教戦争に発展してきたのではないか。
 信仰からほとばしる愛、それは理想だろうが、その愛が独善に陥ってはいないのか。真に愛する、ということは難しいことである。信仰

や希望を持つことの何倍も、何十倍も困難なことである。

 キリスト教の「愛は忍耐強く、情け深く、ねたまず、自慢せず、高ぶらず、礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱か

ず、不義を喜ばず、真実を喜び、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」(14:4)
 「イエスこそキリストである」という信仰から導き出される愛の属性が、「イエスこそキリストである」という信仰が他者に対して前面

に差し出されることによって、その属性を失ってしまうことが多いのだ。それが歴史の現実なのだ。

 福音書のイエス自身は、「吾こそまことの神の子・キリストなり」という姿勢より、「神と等しい者であることに固執しようとは思わず

、かえって自分を無にして、僕の身分になり、・・・・へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順」(フィリピ2:6~

8)な姿勢こそ鮮明であった。
 そのイエスが「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」と言った、その意味するところをキリスト者は慎重に

考えなければならない。

12/08 (土) 22:17 冬夜

 音楽のように小言を聞いている。

12/09 (日) 20:48 共同回心式

告解を待つ老若男女の長い列
待降説第二主日の聖堂

人々のロザリオ・聖歌・聖書朗読・黙想・・・・
そして次々と告解室に入っていく

ステンドグラスの向こうに,北風にふるえる固い木々の葉が
陽光を浴びて輝き出す

来日40年以上にもなる外人修道司祭が,
たどたどしい日本語でゆるしを与える

いっしょに祈る

救いは近くにある
ガリラヤが今ここ,この日本にある

聖霊の同時性・・・・時空を超えた福音の現存

12/10 (月) 10:05 「パンセ」

 心身の癒しと文体について。
 パスカルが、キリスト教弁証論を完成できなかったことは、後世にとって幸いだったかもしれない。

12/11 (火) 10:33 人間

 絶対者を絶対とみている人間は相対的な存在である。従って、たとえ絶対者からのいかなる啓示であっても、受けとる側が相対的存在で

ある限り、啓示理解の蓋然性を免れることはない。
 聖書研究にしろ、信仰にしろ、どこまでいってもその蓋然性に留まるということを忘れないように。

12/12 (水) 16:18 中間者

「誰でも、神でさえ、誰かに尽くされていると知ったときには喜ぶものだよ。さあ、もう静かにしよう、われわれはまだここに来たばかり

なんだ。ここのことを知るのはこれからなんだ。」(修道士カドフェルフェル)

 神を信じる者が神を喜ばせたいと思うのは当然である。しかし、具体的にどうすれば神が喜ぶのか、ということになると、そう簡単な話

ではない。
 不信仰者と戦うこと? そうだろうか? 自分の持つ信仰に反対する人たちと議論したり、戦闘的態度に出ることを神が喜ぶとは、私に

はとても思えない。
 「もう静かにしよう。」
 私たちは、この地上に、この世に来たばかりなのだ。福音は知らされたばかりなのだ。
 いずれ天国に赴くとき、私たちは本当のことを知るだろう。それまでは人を裁いてはいけない。自分を裁いてもいけない。

12/13 (木) 20:49 祈りを測る

 祈りは目に見えません。その効果も普通ははっきりしません。
 しかし,自分の祈りがどれほど進歩しているかどうか,もしあなたがどうしても知りたいと思うなら,あなたが祈りのなかで,自分の人

生が自分のものではなくて,神が主人公なのだということを,どこまで合点出来ているか,それを目安にすればよいでしょう。

12/14 (金) 17:05 冬の日暮れ

 冬深まる夕刻。日の沈みかけた西の空は、青紫に染まる。準備室から見える体育館の丸屋根が寒そうな額を傾ける。外の静寂と内の生徒

の歓声。
 文字通りの師走の慌ただしさの中で、赤穂討ち入りの今日が過ぎ、そろそろ第九の季節を迎えようとしている。クリスマスも近い。
 今年の最終授業のクラスで、「読書のすすめ」なるプリントを配る。3年生には申し訳ないが、受験に直結するような本はそのリストに

はない。福音書、歎異抄、八木重吉の詩集・・・・マンガ日本史なども入れた。
 いつの時代も何らか混迷のなかにある。それでも何かに希望を持って日々生きていけたら・・・・そういう生徒が育って欲しい。育てたい。

そういう願いを込めて読書案内をした。積極的な生徒は、授業後にくわしい説明を聞きに寄ってくる。楽しいひととき。私も生徒に負けて

はいられない。教える側こそ希望を持たなければ。
 中年の希望は諦めと表裏一体だ。希望が叶わなければ死んでも死に切れない、という頑なさは避けなければならない。ベクトルこそ大事

になってくる。たとえ道半ばで倒れても、後悔しないものへと向かっている希望を持ちたい。
 メタノイア(回心)、神に顔を向け直すこと。その具体は人それぞれだろうが、祈りのうちに探し当て、軌道修正されていくだろう。安

んじること。

 どっぷり暮れた空に丸屋根が輪郭を失う。水平も垂直も夜のカオスのなかに溶け込んでいく。

12/15 (土) 17:16 お恵み

「「時がたてば,神様が解決してくれるさ」
 カイは神妙にいって,重い足をひきずるように暗闇の中に消えていった。(そうはいっても,神は人の手助けを少しは必要とするのさ。

どちらかというと人は神の邪魔をすることのほうが多いけど)
 カドフェルは不安な気持ちをいだきながら,帰り道をたどった。」(修道士カドフェル)

 人生の主導権は神にある。といっても,実際には信仰のあるなしでそう行動が変わるわけではないだろう。右に行くべきか,左にするか

,理性で冷静に考える,という点では,なんら違いはない。信仰があるからといって,日常の中で一人だけ,突飛な行動をとるということ

はそうあるものではない。
 ただ,その過程で,祈りがあるかないか,そこが大きな違いなのではないだろうか。
 祈りとは,信頼である。自分をゆだねることである。本来,自分の願望を神に押しつけることではない。ゆだねつつ行動する。これも簡

単なことではない。
 せめて,自分の行動の過程のなかで,困難を乗り越えるために賜るお恵みは,その時々に与えられるものであって,先取りすることはで

きないのだ,ということを肝に据えたい。
 これはいよいよ死を迎えようとするときも同じである。

12/16 (日) 17:45 アッバ

「アッバ。」(風の家の祈り一)
 
 キリスト教のインカルチュレーションをめざす井上洋治神父の「風の家の祈り」は、「アッバ」で始まる。
 聖書学者エレミアスによれば、イエスの祈りはすべて「アッバ」で始まっていたという。人間を、この世を遙かに越えた絶対者、「天に

在す」父なる神に対して、イエスが「アッバ」(パパ、おとうちゃん)と親しく呼びかける。その一言だけで、当時のユダヤ教からみてス

キャンダルであったのだ。死罪に値する不敬と映ったのだ。しかしイエスは、この「アッバ」に命をかけた。撤回しなかった。イエスには

、神はアッバなる方であるという確信があったからだだ。

 イエスが具体的に弟子達に教えた祈りは、「主の祈り」だけである。これも「アッバ」で始まっている。(おそらくルカ型の方がイエス

本来の祈りだろう。マタイはユダヤ教徒への宣教を意識して、「天におられる」を付加したものと考えられる。キリスト教会がどこもこの

マタイ型を採用しているのは、残念な気もする。) 

 こういうわけで、風の家の祈りも「アッバ」で始まるのだ。ちなみに井上神父は、「南無アッバ」なる祈りも考案している。この一言に

イエスの全生涯が凝縮されているからだ。


12/17 (月) 10:09 風の家の祈り1

「迷ってしまった一匹の子羊をどこまでも探し求める羊飼いのように,暖かな春の日も,凍りつくような冬の日も,今日までの私の人生を

,いつも暖かく見守ってきてくださったお恵みを心から感謝いたします。」(風の家の祈り一)

 「アッバ」という呼びかけに続く、最初の祈りです。
 アッバなる神は、高みから私たちを裁判官のように善悪に応じて裁く方ではありません。
 自らのエゴイズムや欲にかられて道を踏み外し、迷ってしまった私たちを羊飼いがどこまでも一匹の羊を探すように、御自分の方からこ

の世に降りて、手を差し伸べてくださるのが、アッバなる神なのです。
 放蕩息子が「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い(スプランクニゾマイ)、走り寄って首を抱き、接吻した」

ように、アッバなる神は、私たちを見守ってくださいます。
 それは私たちがどんな状況にあっても、変わりません。真夏の暑い日も、真冬の凍えるような日にも、変わりません。私たちが神を忘れ

て右往左往しているときも、御自分から手を差し伸べてくださるのです。
 神様の前に、水晶のような透明な存在だったイエスはアッバなる神と完全に一致し、死と復活を通して万物の永遠の同伴者となりました


 このお恵みを心から感謝したいと思います。

12/18 (火) 11:01 多元主義

 社会部の生徒たちは、今年の文化祭で「埼玉の隠れキリシタン」を研究発表した。
 その延長で今、日本人の宗教観を研究すべく、遠藤周作の「深い河」を読み解いている。高校生にはかなり難しいテーマになってしまっ

た。が、彼ら自身が選択した課題でもあり、熱心に取り組んでいる。
 現代カトリックは、第二バチカン公会議後、排他主義から包括主義に移行した。そしてさらに、多元主義が叫ばれている中で、これにブ

レーキをかけるがごとく教理省から「ドミヌス・イエス」文が発表された。
 私自身の立場は今は、あえて言えば、包括主義に留まる。「深い河」は遠藤氏が、多元主義に取り組んだ果敢な小説的実験という見方が

できる。
 遠藤氏は生前、井上神父とよくけんかになったという。このあたりの理由ははっきりと伺ったことはないが、「あいつとおれは似てるか

らけんかになるんだ・・・・」と井上神父が言っていたのを思い出す。
 おそらくこのへんの事情がからんでいたのではないかと、勝手に想像しているのだが・・・・。

12/19 (水) 12:56 仕事

 パウロの「キリストの体」論、イエスの「ぶどうの木のたとえ」から苦しみの意味を洞察。
 イエスが罪人・病人・弱い人たちの永遠の同伴者になったと同時に、イエスを貫いた槍の傷、苦悩を、今病む人・苦しむ人がイエスと共

に背負っている。痛んでいる。
 その傷は世の終わりまでふさがることはない、万物が天国に召し抱えられるまでは。 

12/20 (木) 08:09 予型

 歴史と経済と聖書を学んできて思う。
 あらゆる民族は、興亡を繰り返しつつ発展してきた。資本主義経済は必然的に、好不況の景気変動を繰り返しつつ経済成長してきた。
 それと同じように、私たちの人生は日々刻々小さな死と復活を繰り返しつつ、天国へと向かっていくのではないか。同様に人類全体も、

さらに万物もそれぞれ大小の死と復活を繰り返しつつ宇宙の完成へと導かれているのではないか。星の誕生と死の過程を見よ。
 しかし、こうしたそれぞれのレベルでの完成の保証はあるのか?この問いに「然り」と答えられる根拠は、キリストの死と復活以外には

ない。

12/21 (金) 09:57 福音の中で信ぜよ

「(定めの)時は満ちた、神の王国は近づいた。回心せよ、福音の中で信ぜよ。」(マルコ1:15 岩波書店版)

 新約聖書に記されている、イエスの公生活最初の言葉である。この言葉にイエスの主張が端的に表れていると言ってよい。従って、この

言葉をどう翻訳し、日本人にそのニュアンスをどう伝えるかは、イエスの教え全体を知る上で、大きな問題となる。
 どのような翻訳も限界があり、完全ということはありえない。それぞれに長短がある。
 この言葉、新共同訳では、

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」

となっている。
 岩波訳は直訳的で日本語としてぎこちない。新共同訳の方がなめらかである。しかし、この言葉を一度発して公生活に出れば、イエスは

神の言葉の代弁者、代行者として宣教することになるのであり、その帰結としておそらくはすでに十字架の死をも覚悟していたに違いない

のである。その緊迫感、抜き差しならぬ覚悟・・・・そうしたものを勘案すると、ぎこちなさを越えて、岩波訳に軍配が上がるように思う。翻

訳者もこの点を重視して訳している。それは、次のような点に見出せる。
1.「(定めの)時」。単に「時が満ちる」のではなく、終末感・特殊性を帯びた「救いの時」であるということで、「(定めの)」と補

足している。
2.原文では、「(定めの)時は満ちた」ことと「神の王国は近づいた」こととは現在完了の対句であり、同時進行的ニュアンスが強い。

「時が満ち」てから「神の国が近づ」くのではない。神の国はもうそこまで来てしまっている、という緊急性を意味する。したがってこの

ように「~た、~た」と訳すことは妥当である。
3.「回心せよ」。原語「メタノイア」には元来、悪い行いを「悔い改める」というより、神に顔を向け直す、という意味合いが強かった


4.「福音の中で信ぜよ」。直訳。従来訳は「福音を信じなさい」となっているが、ここでは福音を信仰の対象とするよりも、否応なく差

し迫っている神の国という場の中で、神またはイエスに全面的に信頼を置きなさい、という意味を訳出している。
 

12/22 (土) 20:30 年末読書=キリスト者として読むミステリー=

「すべての人が幸せになる可能性があるなら、どうしてあえて不快なことを持ち出す必要があるだろう?」(修道士カドフェル)

エリス・ピーターズの「修道士カドフェル・シリーズ」が面白い。
12世紀イギリスの修道院を舞台にミステリーを展開する。
いわゆる探偵ものなのだが、キリスト者としてこれを読めば、そこには主人公カドフェルをはじめ、キリスト教の何たるかを考えさせる様

々な示唆がちりばめられている。
上記の言葉は、第一作「聖女の遺骨を求む」で、窮地に陥ったカドフェルが解決の糸口を見つけだすときの方向性を示す言葉。
けっきょく彼は、修道院に対しては嘘をつき通すことになるが、それですべての人が幸せになる。
一般論で語れば、イギリス功利主義を先取りしたような発想ではあるが、キリスト教的な視点から見れば、嘘という不義と幸福とは何か、

奇跡とその意味、といった問題を私たちに突きつけてくる、示唆に富んだ作品である。 

12/23 (日) 17:15 ガレージのイエス様!

昨日教会で、子供のクリスマス会とミサがありました。
その中で援助修道会のシスターが、「イエス様は馬小屋で貧しくお生まれになり、飼い葉桶に寝かされましたね。これをもし現代の私たち

の生活に置き換えると、どんな場所になるんでしょう?」とみんなに問いました。
シスターの考えた結論は、「皆さんのおうちにあるガレージ! そのガソリンの臭いのたちこめる粗末な段ボール箱を寝床にして・・・・・」と

いうことでした。
うまいこと言うな~と感心させられました。

こういうちょっとしたことにも、福音のインカルチュレーションを思う、というのもうがちすぎでしょうかねー。


12/24 (月) 22:51 イヴに思う=聖書翻訳

「彼らは見ることは見るが、認めない。
また、聞くことは聞くが、悟らない。
〔にもかかわらず〕彼らは立ち帰って、赦されることになるかもしれない。」(マルコ4:12 岩波訳)

 イエスがなぜ譬えを用いて話されたのか、その理由を述べる箇所である。新共同訳など従来は、「それは彼ら(群衆)が、・・・・立ち帰っ

て赦されることのないようになるためである」と訳してきた。これではどうもおかしいな、神の奥義は万民には開かれていないのではない

かと、ずっと疑問に思ってきたのである。そこを岩波訳は、上のように見事に、思い切って訳している。おそらくこうした訳は初めてだろ

う。
 一方、フランシスコ会訳のこの箇所は従来訳のままなのだが、その注において、ローマ初代教会のキリスト者の疑問=ユダヤ人はなぜイ

エスを受け入れなかったのか=に答えるための著者の弁明と解説している。これもなるほどと思う。
 いろいろな機会に熱心な信者が聖書を頒布しているのを見かけるが、訳しっぱなしのものを何の解説もなしで、「さあ読んで下さい、あ

りがたいでしょう!」と言っても、一般には広まらないのではないかと思う。
 岩波、フランシスコ会どちらの方法をとるにしても、こうした読者の立場に立ったきめ細かな訳業が今後も試みられることを、願ってや

まない。


12/25 (火) 20:51 信仰を信頼に

「なぜ、あなたたちは臆病なのだ。信仰(あるいは信頼とも訳せる)がまったくないのか。」(マルコ4:40 岩波訳、(注)も含む)

 イエスの「嵐鎮めの奇蹟」の言葉である。
 「信仰」はやはり、「信頼」と訳す方がよかったのではないだろうか。
 現代日本で、「信仰の強い人」といったとき受けるイメージはけっして好意的なものばかりではない。えてして、教条主義的で思い込み

が強く、独断・独善の人、という揶揄に結びつく。実際、それは偏見とばかり言えないのだ。キリスト者の中にもそういう人がいるのは確

かなのだ。

 他者がどう受け取るかはともかく、自分たちの問題として、神・(もっと具体的に)イエスへの「信仰」というときと、神・イエスへの

「信頼」というときの信仰者としての受け取り方、それにもとづく生き方の違いを想像してみよ。教義論争には熱心だが他者へのいたわり

や憐れみに欠けるキリスト者ではなく、もっと寛容や愛を身につけたキリスト者が育つのではないだろうか。

12/27 (木) 20:31 「風(プネウマ)」発刊しました

日本の感性でとらえたキリスト教の在り方を模索する季刊誌「風(プネウマ)」59号が出ました。ご笑覧いただければ幸いです。

目次;「詩・・・・アッバ 私の心をもみじにさせて下さい」「一字の重み」「日曜日の福音ばなし(32)~(36)」=井上洋治
「井上神父の言葉に出会う(2)」=平田栄一
「深い河とマザーテレサ(1)」=山根道公

お問い合わせは、余白HPから「風の家」にアクセスしてください。
http://www.d6.dion.ne.jp/~hirata5



01/04 (金) 20:52 安心

パウロの「キリストの体」論、
あるいは、イエスの「ぶどうの木と枝」のたとえ話。

我ら、たとえ肢体の末端なるも、また、幹から遠く離れた一葉なるも、
中央にキリスト位置するなば・・・・
それ、大安心というべきか。

葉っぱのフレディの死と復活。


01/04 (金) 21:14 「余白の風」73号も出ました

新刊「余白の風」誌=俳句や詩と日本人キリスト者としての生き方の自由な探求の場です。どなたでもどうぞ。初心者歓迎。
*会費・手続き不要。ご連絡頂ければ、本誌をお送りします。無料。
*作品評・投稿はメールまたは「風の句会」掲示板 http://www.breaktime.jp/cgi-bin/bbs/mkgif.cgi?kukai まで。
次号に掲載(採否主宰一任)


01/05 (土) 06:14 聖書読みの勝利者史観

新約聖書に関して言えば、その全体的・網羅的読みが、部分的・断片的読みに絶対的に勝っているとは、必ずしも言えない。

少なくとも4~5世紀までのキリスト者は、その全体を持ってはいなかった。
だからといって、彼らの信仰がわれらのそれより劣っていたとはだれも考えないだろう。

全体的読みが部分的読みに勝るというのは、グーテンベルク以後の勝利者史観の一種である。


01/07 (月) 20:23 弔辞

石捨てし青年逝くや年の暮

01/10 (木) 08:25 ・・・・にもかかわらず信頼しよう 

遠藤周作さんが、最期に悟ったこと、それは「人生のすべてのこと、悪いこと、不運、罪、病気、苦しみ、失敗・・・・しかし、無駄なものは

一つもない」って言っていますね。
失言も、毒舌も、無駄なもんじゃない、いつかそれを神様が良い方向に用いて下さる。
(もちろん、だからってどんどん罪を犯しましょう、という本願誇りは、パウロも戒めています。)
最も大切なことは、神様への絶対信頼、です。
どんなことがあっても、不条理と思えても、なんで神様、そんなことなさるんですか!なんで赦されるんですか?ってことがあっても、信

頼して、自分のできることを、少しずつ、無理をせずにコツコツやっていく、ってことなんだと思うのです。
失敗も、後悔もありますよ。
それでも神様を信頼しましょう。


01/13 (日) 16:02 マカバイ記二5:19

「主はこの民族のために聖なる場所を選ばれたのであって、聖なる場所のために民を選ばれたのではない。」

これは、もちろん、
「安息日は、人のため・・・・」(マルコ2:27)を彷彿させる。
民族=人を生かすために、聖所=安息日がある。
人間に本来の生き方をさせるべく宗教があるのだ。
しかしややもすると、熱心な人ほど目的・手段が逆転していくという現象があらわれる。ファリサイ派。過激派。


01/14 (月) 16:20 マカバイ二7:11

「わたしは天からこの舌や手を授かったが、主の律法のためなら、惜しいとは思わない。わたしは、主からそれらを再びいただけるのだと

確信している。」

七人兄弟の三番目の者の殉教の言葉である。
この言葉の「律法」を「愛」に置き換えれば、そのままイエスの受難の姿となる。
旧約・続編・新約を貫く太い一本の道を見る。
文化、地理、時代背景をときに異にした聖書記者に働きかけた聖霊の業を見る思い。

01/15 (火) 10:27 叫び=ある質問に答えて

苦しさの投影、ってことは、心理学的にはそうなんだと思いますよ。人間だれしも淋しいし、苦しいこと多いですから。
ただ、近代科学でそう分析される「信仰」が、はたして単なる幻想でしかないかどうか・・・・そのへんの受けとめ方、っていうかそれが、遠

藤周作さんが「信仰とは99%の疑いと1%の希望(確信)」みたいなことをおっしゃっていたことと関連するんじゃないかと思うのです


だけど、遠藤さんのこうした言葉だけを取り上げて、「な~んだ情けない信仰だなあ、やっぱり遠藤は失格だ」と切り捨ててしまう信仰者

がいれば、やはり軽率な気がする。反対に、「それみろ、信仰なんてただの共同幻想でしかないじゃないか」って見限るのもやはりちょっ

と早急すぎると思うんだね。

まじめで正直な人がばかをみて、自分勝手な人がいい目をみている、そういう世の中の矛盾が、これはもうずーっと昔からあるんだけれど

、それでも、どっかに希望はないのか、いったいどうなってんだ、助けてくれ!って弱い人や貧しい人(金銭的なことだけじゃなくて、健

康や能力や容姿やいろいろな貧しさを含めて)が叫んでいる。
その叫びがイエスの生涯において聞き届けられた、って思っているのがキリスト者なんだね。
仏教やその他の宗教、哲学で叫んでいる人たちもいるね。社会事業でそれをやってる人もいます。
アプローチの仕方はそれぞれでも、みんな心の中で、助けてくれーて叫んでいるんだと思う。
その叫びをどこへもっていくか、ってことで道が違ってくるんじゃないかなあ。

01/15 (火) 15:34 復活のとりなし

「もし彼(ユダ=マカバイ)が、戦死者の復活することを期待していなかったなら、死者のために祈るということは、余計なことであり、

愚かしい行為であったろう。」(マカバイ二12:44)

ユダは、律法違反の守り札を身につけていたために戦死した人を「敬虔な心を抱いて眠りについた人々」として、その復活を信じて、彼ら

のために贖いのいけにえを献げる。

この姿は、新約のイエスにつながるものであり、しかもイエスは、自らを献げるのである。

ユダのとりなしがなければ罪ある戦死者の復活が期待できなかったように、イエスのとりなしがなければ、わたしたちの復活もない。


01/17 (木) 15:33 愛の関係

「しかし、先祖たちの中には、後世に名を残し、輝かしく語り継がれている者のほかに、忘れ去られた者もある。・・・・しかし慈悲深い先祖

たちの正しい行いは忘れ去られることはなかった。彼らの子らのもとに、良き遺産、孫たちが残る。先祖たちのなきがらは安らかに葬られ

、その名はいつまでも生き続ける。」(シラ書44:8~11)

旧約では血族的つながりによる信仰の継承が、死者の慰めとなった。
新約ではどうか?
イエスは、「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と言う。血縁的信仰ではなく「神の御心を行う」人たちの信仰

継承と救いを強調する。新約の時間・空間をこえた普遍性がここに宣言される。

更に「神の御心」の「行い」が、律法主義から「愛」へと内容的にも普遍化するのである。

しかし律法の行いと愛の実行とを比較すれば、明らかに愛の完全実行の方が至難ではないか。
イエスが何百とあった旧約律法を「愛」一つに統べたときの思いはいかなるものであったか?

少なくも、律法に替えて、愛を救いの条件としたものではなかろう。
律法が救いの条件とすれば、愛は救いの結果と言えるのではないか。

とすれば、先のイエスの言葉は、「わたしたちが兄弟、姉妹、母の関係にあるからこそ、神の御心を行う(ことができる)のだ。」との意

味になるのではないか。

その愛の関係の中心にいるのがイエスである。
これは、「キリストの体」論へとつながる。

01/18 (金) 11:08 復活、その意味するもの(質問に答えて) 

復活はたしかに、これがなければキリスト教は成立しなかったでしょうから、大変重要な事柄ですね。

以下、私なりにコメントさせていただきます。
まず、イエスの弟子たちが出会ったと言われる「復活」で、実際に何が起こったかということは、残念ながらわたしたちは正確にはつきと

めることはできません。それは復活のような深い宗教的体験は、私たちの日常言語表現を超えた深層意識に根ざしたものと考えられるから

です。
(少なくとも死人の蘇生のように、三次元のこの世界に再び生き返ったというものではありません。もしそれだけのことなら、また同じよ

うに死んでしまうのですから。かといって、弟子たちの作り話や幻覚という、よく一般にいわれているようなものとも考えられません。も

しそうなら、復活後の弟子の根本的変貌を説明できないからです。)
したがって私たちは、福音書に書かれた象徴的表現を手がかりにして推測、というより追体験していくほかはないのです。

以下、拙著『雨音のなかに』からご参考になると思われる部分を抜粋します。
「(イエスの)復活の体は福音書によれば、園の番人や旅人の姿、あるいは光として感じられ、しかも五百人以上の者たちに同時に現れ、

ある者には見え、ある者には声だけしか聞こえないこともあったといいます。
すなわち、復活とは、三次元を超えた出来事であるということです。このことは、・・・・神が、(罪人の同伴者となり、人々の苦しみや病を

背負った)イエスを、「よし!」として神の国=永遠の命に入らせたということです。・・・・
復活したイエスは、弟子たちと食事までいっしょにするのです。・・・・復活したイエスが裏切った弟子たちと食事をする──このことはとり

もなおさず、イエスが彼らの罪をゆるしていたことを意味するのです。・・・・
復活によって、このイエスのゆるしのまなざしに証言者たちは気づかされました。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これ

に聞け」と言われて、神の全権を一任され、またそのことを、復活によって証明されたイエスが、彼らを許しているという事実。このこと

から、救いは、イエスをとおして罪人に及んでいる・・・・。
復活は三次元的な空間を超え、時間を超えたものとして確認されたものでした。そして、神のもとに帰ったイエスは聖霊を送り続けます。

この聖霊の働きによって、あの当時とまったく変わらないイエスのまなざしが、愛の息吹が、風のように・・・・時空を超えて、わたしたちに

降り注がれているのです。」(114~116頁)

復活はおそらく三次元的な表象をともないながら、弱かった弟子たちを根底から揺り動かし変貌させる衝撃的な出来事であったと推測でき

るのです。

要約すれば、復活とは、第一にイエスの愛の生き方を神が承認したという証明であること。第二にそのイエスにつらなる私たちが神の国に

受け入れられる保証になっったということ、大きくこの二つの意味を持っていると考えます。

それから気を付けたいのは、「復活ってなんだろう?」と考えるとき、えてして「復活」だけを取り出して、分析しようとする態度です。
わたしは、十字架も復活も、それ以前のイエスの「全生涯」があって、その終局にあるものだと考えます。復活や十字架だけを取り出して

考えるのは、福音書記者の証言を歪曲する危険があるのではないかと思います。

したがって具体的には、十字架につらなる受難物語と復活をつねに念頭におきながら、福音書や新約聖書、さらに旧約聖書全体を読んでい

く、という姿勢が、キリスト者としての聖書の読み方ではないかと思います。

イエスの復活・昇天以来、わたしたちの日常には、聖霊というパイプを通してイエスのまなざしがそそがれているのですから、上のような

態度で聖書を読みつつ黙想し、祈り、生活していく・・・・そういう繰り返しのなかで、少しずつわたしたちは神の良しとする方向に変えられ

ていくのだと思います。

この辺のことについては、現在「風(プネウマ)」にエッセイを連載していますので、お読みいただければ幸いです。

01/18 (金) 13:45 聖書の旅

「神はアロンに掟を託し、律法を解釈する権限をお与えになった。それはヤコブに主の御旨を教え、イスラエルを律法の光で照らすためで

あった。」(シラ書45:17)

この句をキリスト者は、たとえば次のように類比解釈する。
「アッバなる父は、イエスに掟を託し、律法を解釈する権限をお与えになった。それはイエスに主の御旨を教え、すべての人を福音の光で

照らすためであった。」

旧約の預言者は、それぞれの個性をもちながら、イエスの予型としての影をもっている。
旧約から新約へと、太い流れをたどりつつ、新約が旧約を越えていく。

01/18 (金) 22:12 処女懐胎ってホント?(質問に答えて)

復活とは何か、というところでも触れたと思いますが、わたしは、聖書の言語表現の真偽をそのまま現代の科学的知識で判断することに

疑問をもっています。
聖書時代の宇宙観は、地球が平面であることを疑わなかったし、病気は罪や悪霊の仕業であると考えていましたし、イエスの昇天とは具体

的に上空に上がっていくことを意味したのです。
そうした古代の科学的常識のもとに聖書が書かれていることをわたしたちは考慮しなければなりません。
それは科学的真理において、近代科学以降のわたしたちが持っている科学的知識が、いずれ未来の更なる科学観によって、克服されるのと

同じだと思います。今から何千年後の人たちが聞いたら、私たちが今、宇宙や遺伝子や医学等々に対して常識と考えているものは、神話と

して一笑されるかもしれんませんね。

しかしだからといって、科学の発達していない時代の発想がすべて何の意味もないのか、といったら大きな間違いだと思います。
科学的真理と人間の本質や根本的な生き方に関する洞察というものは、一線を画しています。人類が誕生して以来、人間の本質は変わって

いない、ともいえるのです。

したがって、たとえば処女懐胎に関して、聖書に表された表層的言語を、現代科学の合理的言語によってその真偽を云々することは、大き

な危険があると考えます。
われわれから見れば神話的な古代表現が意味するものを、現代的「意味」に翻訳する作業が必要なのではないでしょうか。

それはたとえば、「処女懐胎」という表現を生物学・生理学的な意味としてではなく、イエスは確かに私たちと同じこの世に肉体をもって

生活した人間ではあるけれども、同時に私たちとは決定的に違う神性、神の子と呼ぶにふさわしい方であった、という初期キリスト者の信

仰告白として、読むということです。

新約聖書は徹頭徹尾、「イエスはキリストである」という信仰宣言の書です。それは、人間と神に関する普遍的真理であるとキリスト者は

信じていますから、時代の流れによってそのときどきに変化する科学的手法によって証明されるべき必要はないと考えます。

01/19 (土) 10:00 すべての人への福音

「ヨシュアはその名のとおり、主に選ばれた人々の大いなる救いとなった。彼は立ち向かってくる敵に報復し、約束の地をイスラエルに受

け継がせた。」(シラ書46:1)

ベブライ語「ヨシュア」のギリシャ語訳が「イエス」(イエーシュースー)であり、それは、「神は救う」という意味である。

「イエスはその名のとおり、すべての人の大いなる救いとなった。彼は立ち向かってくる悪霊を追い出し、悪に愛をもってうち勝ち、神の

国へすべての人を導き入れる福音をもたらした。」(新約的読み替え)

イエスの福音は、特定の民族・信仰者に限定されるものではなく、すべての人に開かれたものと考える。

01/22 (火) 14:18 野獣

「彼(ダビデ)は子山羊と戯れるように、獅子と戯れ、小羊と戯れるように、熊と戯れた。」(シラ書47:3)

「イエスは四十日間そこ(荒れ野)にとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた

。」(マルコ1:13)

獣は聖書では伝統的に、人類の敵の象徴として語られることが多い。
新約でも、サタンは獣の形として現れ、王たるキリストの前に、反キリストとして立ち、冒涜の言葉をはき、聖徒たちを迫害し、自分を礼

拝させる。(黙示13:1~9)

しかし、旧約モーセやダビデ、ダニエルのように、すでに獣に対する勝利も見られたのである。
これは、イエスの勝利の予告と考えられる。

さて、わたしたちの内に、また社会のなかに住む「野獣」とはどんなものか。
具体的歴史のなかで、この「野獣」を特定しようとする人たちがいる。
しかし、その特定が正しいという保証はどこにあるのだろうか?

その特定に、ああかもしれない、こうも考えられると揺れるよりも、キリスト者として確実に言えること、イエス・キリストのすべての「

野獣」に対する決定的勝利、すなわち福音を宣べ伝えることにこそ、心を労したいと思う。

01/23 (水) 13:09 シラ書48章よるキリスト賛歌

あなた、イエスはいと高き方の言葉によって
死者を死から、陰府から立ち上がらせた。

あなたは書き記されているとおり、
定められた時に備える者。
アッバなる父の心を人々に向けさせ、
道に迷った人生を立て直させる者。

「あなたを見る者、
また、愛のうちに眠りについた者は幸いである。
確かに、わたしたちも生きるであろう。」

「彼は生きている間、不思議な業を行い、
死後もなお驚くべき業を行った。」

人々は主に向かって両手を広げ、
憐れみの主に呼び求めた。
聖なる方は天から直ちにその願いを聞き入れ、
イエスの手によって彼らを救い出された。

イエスは大いなる霊によって終末の時を見つめ、
嘆き悲しむ貧しい人々を励ました。
彼は永遠に及ぶ未来の事、
隠された事を、それが起こる前に示した。

01/24 (木) 20:33 シラ書読了

ここに出てくる旧約の預言者たちは、不完全ながらすべてキリストの予型であり、影である。
キリスト者としては、ユダヤ教には申し訳ないが、こうした読みが赦されるのではないか。


01/25 (金) 12:33 わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか

「わたしたちは神なる主に背き、主を軽んじて、御声に耳を貸しませんでした。そのためわたしたちは今日、数々の災いと呪いに付きまと

われているのです。」(バルク書1:19,20)

しかし、迷い出た一匹の子羊をどこまでも探し求める羊飼いのように、主はわたしたちを心にかけてくださる。それが新約的主張である。

わたしたちの日々の行動には、不注意、不見識、我欲、思いやりのなさが常につきまとう。そしてまさに「迷い出る」のだ。
それでも主は、そういうわたしたちを招こうと温かなまなざしを向けていてくださる。

それは、七度を七十倍するほどの忍耐と愛をもって、繰り返される。

どこにそんな神の力が、愛が、働いているのだ?と疑問を持つことも多々あろう。この戦争、あの殺人、虚偽、病苦、飢餓、ニヒリズ

ム・・・・。
人々は言う、神が居るなら、神の力が働いているなら、なぜこうした悪を許されているのか? なぜ神は沈黙し続けるのか!!と。

イエス自ら、叫んだではないか、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ!」

しかし異邦人の百人隊長は、「イエスがこのように息を引き取られたのを見て、<本当に、この人は神の子だった>と」告白するのである



どん底に落ちて叫んだイエス。
その叫びは、まさに、今のわたしたちの叫びではないか。

弟子たちが本当に、神の愛を悟るのは、復活においてである。

イエスは、復活させられて神の国に入られた。
われらの救いの保証は、ここにある。

この保証に希望を得て、
この世の、この悲惨に立ち向かうことはできないか。
その力が湧いてこないか。

01/26 (土) 20:23 普遍

わたしたちは、神の子とされる希望によって救われている(ロマ8:24)。
そして、その希望は失望に終わらない(同5:5)。

世間がなんと言おうと、
負け惜しみと言われようと、
奴隷の信仰と言われようと、

イエス様による救いは変わらない。

01/28 (月) 10:51 完全な自由

「目を開いて見てください。陰府におり、息を肉体から取り去られた者は、主に栄光と義を帰することができません。ただ、人を押しつぶ

し弱らせる大きな苦しみに遭って嘆き悲しむ魂と、視力の衰えた目、飢えた魂が、主よ、あなたに栄光と義を帰するのです。」(バルク書

2:17,18)

この世にあって、さまざまな苦しみに遭い、苦しみの意味がわからなくて暗雲に包まれるとき、わたしたちはこのことを思い出しましょう


生老病死の深い意味を思いめぐらしましょう。
苦しみや病は、けっして本人の罪や親の罪の結果としての罰ではないことを、イエス様は宣言されましたね。(ヨハネ9)
そしてそれは神の業が苦しむ人を通して現れるためだと、言われましたね。

日常のなかで、「人を押しつぶし弱らせる大きな苦しみに遭って嘆き悲しむ魂」と、老いて「視力の衰えた目」と、助けを求めてもかなわ

ぬ「飢えた魂」を、イエス様の十字架に合わせてアッバなる神に奉献しましょう。
それこそすべてのキリスト者に平等に与えられた自由ではありませんか。

01/29 (火) 21:00 驚くべき福音

「あなたたちがバビロニア人の王ネブカドネツァルによって捕らえられ、バビロンに連れて行かれようとしているのは、神に対して罪を犯

したからです。・・・・しかしその後、神はあなたたちを平和のうちに連れ戻してくださいます。」(エレミヤの手紙1、2)

人間には常に過ちがある。
不見識、我欲、様々な誘惑で曇ったわたしたちの理性と心は、その連続である。

過ぎ来し方を正直に思い返して、後悔のまったくないものがいるだろうか?
あのときも、このときも、失敗だったと思うことも数知れない。
そしてこれからも、その馬鹿な過ちを繰り返していくのだろうか・・・・。

「しかしその後、神は」そういうわたしたちを「平和のうちに連れ戻してくださ」ると、虫が良すぎると呆れられても信じているのが、キ

リスト者ではないか。

「福音」が、躍り上がるどれほどの喜びの知らせ、全財産をなげうっても手に入れるほどのものであるなら、そのようなものであるにちが

いない。


01/30 (水) 14:13 苦悶の中での賛美

「地に生える草木よ、主を賛美し、代々にたたえ、あがめよ。・・・・」(ダニエル書補遺 アザルヤの祈りと三人の若者の賛歌53)

この賛歌は、旧約にめずらしく、自然が声を合わせて、神を讃える、という内容になっている。
29節から67節まで、約40回も賛美が繰り返される。

ただ、見落としてならないのは、このくどいほどの賛美が、火あぶりの処刑のただ中で唱えられた、ということだ。

死を前にした苦悶の中での神への賛美、これはまさに、イエスの十字架上での言葉を想起させる。
「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」(ルカ23:46)

01/31 (木) 21:17 黙想二句

日常を越え日常にいます神

人事越え人事の中にいます神

02/01 (金) 21:48

主にゆだね死に切る祈り冬の月

02/02 (土) 20:07

わが生を文学とみてやや和む

02/03 (日) 18:37

MARIA五字称名の屍のくちなしよ

02/04 (月) 22:28

後悔先に立たずと春の戸を開けて

02/05 (火) 15:44

これもまた人生とみて春が来る

02/06 (水) 21:01

諦観や飲み屋の先のぬくき坂

02/07 (木) 20:53

御力をいただき春はつと立ちぬ

02/08 (金) 20:24 あわれみに生きる

聖書にはこう書いてある。牧師や神父や教会はこういう。ああかもしれないし、こうとも言える。
そういうやりとりは、ときに大切とは思います。
しかし、自殺や結婚・離婚やその他、具体的な個々の状況に至った相手の悲しみや苦悩を心の鏡に写し取ることなく、こうであるべき、と

いうのはどこか根本のところで誤っている気がしてなりません。
イエスが最も大切にした「あわれみ」が欠けているからです。

わたしたちは、教理の正しさによって生きるのではありません。
イエスがキリストである、という信仰告白は、そのように「あわれみ」に生きたイエスの生涯に対してアーメンと答えることであって、
個々の聖句や掟を、具体的な人間状況に当てはめて、物事を判断すること以上に重要な大前提になるものと考えます。

もしかりに、(本来そういうことにはならないはずですが)、
イエスはキリストであると堅く信じ、聖書に精通して人を裁く信仰者と、
目前の相手をまず受け入れて、「あわれみ」をもって理解しようとする未信者とがいるなら、
イエスはまちがいなく後者を是としたに違いない、と私は思います。

02/12 (火) 16:43

図書館に座す黙想や三寒四温

02/19 (火) 09:09 このごろ強く示されたこと

祈っても何も変わらない、と早合点、落胆してはいけない。

神は二つの方法で、あなたの祈りを聞き遂げられる。

1.あなたの置かれた状況を変える。

2.あなた自身を変える。

どちらの方法が施されるとしても、それは神の愛から発する。

ただし、祈りの効果には、神の時間のタイムラグがあるので、焦ってはいけない。

大事なことは、神の愛、摂理に信頼すること。

どこまでも信頼して、祈り続けること。

02/20 (水) 21:49 汎在神論

> あちらこちらの掲示板を見ていましたら、余白さんの次のような話がありました。
> そこで、ちょっと教えて下さい。
>
> 『・・・。たしかに、ヨハネ伝のとおり、「イエスは道であり、真理であり、命」な> んですけどね。ヨハネ福音書自体、最初の非神話

化といわれているように、ユダヤで起こったあの出来事を、ギリシャ化して語っているわけです。イエスが「ロゴス」という発想自体が典

型的な例。この延長で考えれば、ローマへ、ヨーロッパへ、アフリカへ、アメリカへ、そして日本でも、その土地での土着化、ってのが行

われるわけですね。』とありますが、ヨハネ福音書がユダヤでの出来事をギリシャ化しているとはどういうことでしょうか?すみませんが

もう少しわかりやすく解説してもらえませんか?さっぱりわからないので・・・
>
「ヨハネは最初の神話化」はたしかブルトマンあたりが最初に言った言葉だったと思います。これはたとえば井上神父が言っているように

、ヨハネにはイエスが贖罪の犠牲という、ユダヤ的な発想がほとんどありません。
むしろ、ロゴスからアガペーという発想に連なっていますね。
このあたりは、今連載中の「風」にも、井上神父の言葉から抜粋していますので、ご確認下さい。
ここで言いたかったことは要するに、罪・罰という一見キリスト教の常識といわれている原理も、ユダヤの文化・風土からの発想が根底に

あるわけで、他民族がかならずしもその発想からしかキリスト教に入れない、ということはない、ということです。
>
> ②『井上洋治神父は、キリスト教は汎神論ではないけれども、汎在神論(パンエンヒィズム)だとおっしゃっています。これは日本人に

はとても共感しやすい神ですね。』井上洋治神父の本にも出ていましたので、《汎在神論》について調べてみました。そこには、[神に万

物が内在する]、つまり、すべての物事は神の精神の中でのことにすぎない、という立場とありました(もしここに書いておることが間違

っていれば訂正をお願いします)。私にとって、とっても共感しやすい神ですが、現在、キリスト教内では《汎在神論》を考える人は少な

いのでしょうか?

確か「風」58号に「風の家15周年記念講演」要旨がのっていたと思うので、そこに汎神論(パンテイズム)との違いが出ています。
万物(自然)は神そのものではないけれど、万物は神の支えなくては存在しない、そういう意味で神が万物に内在するというような意味で

す。
そうですね。現在のキリスト教界では、こうした考えはマジョリティではないと思います。
そもそも、日本人とキリスト教の問題を考えるキリスト者が少ないのですから。

02/27 (水) 23:29 SMP・ガブリエル「神との親しさ(1)」p121より

「信仰とは、・・・・神の言葉への、暗いながら、しかし確実な同意である。」

手探りのようでいて、けっして危うくはない道。
神への、ほとんど唯一の道。
今日も、無数の人々が、見えない神に、目を上げる。

03/01 (金) 12:12 (1)126

「信仰は霊魂が神に行くために用いる足である。愛は霊魂に道を示す導き手である。」(十字架のヨハネ「愛の賛歌」1)

信仰と愛は手足となって、私たちを神へと運んでくれる。
信・望・愛が増すほど神へと近づき、神に近づくほど、信・望・愛は増す。


03/06 (水) 20:19

助け給えと度々目を上ぐ夜更けかな

03/07 (木) 09:14 (1)151

「あなたがわたしに与えてくださった霊というこの小さなしずくを、その源であるあなたのいつくしみの海に沈めてください。」

大海も一滴の水から成る。
同時に、一滴の水は、大海へと溶け込んで無となる。
しかしその無は、虚しいものではない。
海の記憶に、血肉に溶け込むものではないか。

ああ、うららかな春の日、
揺れる不安を抱えながら、
ぼくたちの糧となってください。
主よ、あなただけが希望です。


03/09 (土) 17:10 ラ・エーヴ岬の引潮から

迫り来る不安、
垂れ込める暗雲、
旅人の後ろ姿は、悲しい。

往年の後悔が蘇ってくる。
なぜあのとき、気がつかなかったのか、
なぜ、予期できなかったのか、
いや、できたはずだ・・・・なのに・・・・

よろめく荷馬車、
海は不穏な波を白々と運び来る、
そして旅人の、荷馬車の足をさらおうとする。

しかし、
祈りつつ、よく目を凝らせよ!

遙か彼方、あの黒雲の下に、
一艘の帆掛け船が浮いている。

黒雲の切れ間からは、
明るい青空が覗いている。こちらを見ている。
おお、向こうの丘の斜面の明るみよ。

旅人の背は、なお暗い。馬も暗い。
名もない人生。生は病み、苦しいばかりだ。

しかし間違いなく、
旅人らは、あの明るみに、遙かな光の出所へと、
向かっている。
曲折する海岸線も。

03/10 (日) 20:44 印象、日の出より

祈っても、祈っても、現実は変わらないのか・・・・

一艘の小舟。
朝日はこんなにも輝いてはいても、
悲しい波間に漂う小舟。

だれもいない。
神と自然との静かな対話。

日の出か日の暮れかも見分けがつかぬ。
桟橋も見当つかぬ時間。

水平線はあるのか?
確かなものといえば、
日を映すさざ波ばかり。

孤独よ、神の光よ、
漂うわれらを、どこへ運ぶのか、
あるいは運ばないのか?

オレンジ色の太陽ばかりが、
酔い心地の脳髄に信号を打つ。

03/11 (月) 14:51 エスタックから見たマルセイユ湾より

憂いを含んだ静かな海。
向こうの山々は哀しみに沈む。

ああ、人生の織りなす喜怒哀楽よ。

陽のあたる此岸の温もり。
家々は、春の明るさの中で、
営みを繰り返す。

眠たい空の灰色の感覚が、
午後の光に応答する。

ああ、人生の重さよ、
泥濘よ。

キリストの現れるまで、
明暗のコントラストを続けるつもりか。
同時共存の喜怒哀楽。
ぼくらはいつも、その一面にとらわれ続ける。

全体を見よ!
全体を見ることは、
神を見ることなのだから。

03/14 (木) 22:18 洋梨の凡庸さ

不安が、ある一定点を超えると、
一種の開き直りが訪れる。

翌朝、また不安はぶり返し、
夕方にはさらに、開き直る。

その訓練を続けていくと・・・・・
その先に何があるというのだろうか。

それでも洋梨は、盆に盛られ、
てんでに向いていながら、
一つの調和を創造する。

そばに斜めに傾いて眠る壺は、
いつまでも動こうとはしない。

03/17 (日) 05:34 岩の上に倒れかかる木より

黙想的朝の、白い大木。
いや、白い朝の、黙想的大木。

鬱蒼とした枝葉は、混乱して、
伸びた手の行方は、定かでない。

曖昧な、まことに曖昧な、未来に向かって、
曖昧に伸びていく枝葉。

しかし過去も、そうだったのだ。
過去も未来も、そう、現在も何もかも、あいまいなのだ。
ぼくの手の中ではね。

神の手にゆだねること。
100%ゆだねること、そうできなくても、
ゆだねようと努力しよう!(報いを期待しない報い・・・・)

死んでも良いのだ。
神の道具になりきって、惨めに、苦しんで、
なんの報いもない(ように思う)死を、
覚悟できるなら・・・・。

03/19 (火) 03:57 ぼくらは弱くて小さい

せめて、祈りの達人になろう!

03/26 (火) 11:17 ベストセラーの人生論

「夜と霧」のフランクルは、人生には意味が所与に与えられていることを前提に、創造価値、態度価値等に生きがいを見出すようすすめる



「小さいことにくよくよするな」は、アメリカ的実践哲学らしく、世に起こるすべてのことは、おおかた小さなことであって、そうしたも

のに振り回されないで自己実現をはかる生き方をすすめている。

一万堂から出た「なぜ生きる」は、いわゆる人生の目標と目的は根本的に異なるものであって、人生の普遍的目的をしっかり押さえていな

ければ、目標が達成されても、虚無に陥らざるをえないという。

これらベストセラーに共通する思想は、避けようとしても避けられない不幸や困難につぶされそうになりながらも、われわれはなんとか生

きていかなければならない、そのヒントを与えようという点である。

戦後個人主義は限界に達し、マズローの欲求五段階説に唱えられた自己実現こそが人生最大の幸福であるという常識的な主張に、かげりが

見えてきている。

ところで、毎年枝の主日で朗読されるのは、イエスの受難物語である。四旬節中、キリスト者は、福音書のイエスの受難に思いを馳せるよ

う教会はすすめる。こうした伝統と、現代の生きがい喪失状況とはどう結びつくか。

キリスト者の「生きる目的」は、「イエスの命がこの体に現れるため」という第二コリント書4:10他に端的に表現されているように思

う。
キリスト者にとって自己実現とは、あれこれのこの世的な事柄の達成ではない。金、地位、名誉、学歴、健康・・・・のもたらす自己実現的幸

福観を相対化する。
この身にイエスの命が現れることこそ、キリスト者にとっての自己実現なのである。つまり、イエス実現が自己実現なのである。
イエスの命がこの身に実現するとは、普遍的命、永遠の命の自己内実現である。
それは生きる意味であり、目標であり、かつ最終目的であり、自己実現ともなるのである。

それゆえ、わたしたちは、弱い「土の器」であっても、「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても

見捨てられない。」(4:7~9)それは「いつもイエスの死を体にまとう」からである。(4:10)

ではそのための具体的生き方はどうあるべきだろうか。
イエスは言う、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マルコ8:34)と。
「日々、自分の十字架を背負う」こと、それはあなたにとって、困難な仕事、病気、人間関係、性格・・・・かもしれない。

03/31 (日) 06:06 何かが起こる

復活祭の朝は、何か起こりそうな気がする。
驚きと不安、
期待と落胆、
過ちと後悔・・・・
徹夜してロザリオを繰る老婆の後ろ姿。
希望は黙っていては来ないのか?

65歳で放送大学に入学した女性はラジオで、「生き方に迷って・・・・」と言っていた。
振り返れば、40でも迷っていたし、30でも、20でも迷っていた。
いや、十代・・・・物心ついて以来、ずっと迷っていた。
「人生は迷いの連続だ」と本に書いたことが間違いなく現実だったことに、自分で驚いている著者。

老婆は何を祈っているのか。
人生に後悔はないのだろうか。
諦念?
そう、その諦念が羨ましい気もする。
偉大なる諦念!

老婆の顔はしだいに、聖堂にさす朝の光に輝いていく。
もう何も考えてはいない。諦めもない。後悔もない。
祈りの意識すらないだろう。

ただもう、キリストに抱かれている。
復活の朝の事件!

04/07 (日) 15:55 Re:質問

K様
ほんとうはちゃんと調べてお返事書けばいいのかと思いますが、ここのところ私もちょっと忙しいので、所感ということで、カンベンして

下さい。
あとは、やはり専門の神学者や井上神父、それから百瀬文晃神父の本など、参考にしてください。

> 以前にもお聞きしました次の個所ですが・・・
>  ヨハネ福  14:6 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くこ

とができない。
> この個所を読むと他宗教ではキリスト教で言う神のもとへは行けないことになります。
> 井上神父は山登りにたとえられています。キリスト道・仏道などいろいろな道の入り口があり、山頂つまりその道の先は別々なのか同じ

かどうかはヘリコプターにでも乗らなければわからないと言われています。
> さらに井上神父は包括主義的立場にあると思っているのですが、包括主義は,他宗教を通じても救われうるが,その救いはイエス・キリ

ストの救いに他ならないと考える。
包括主義において,イエス・キリストは本質的なそして絶対に必要な救いの仲介者である。仏教徒もその宗教的実践によって救われうるが

,その救いは本人の自覚はないがイエス・キリストによる救いである。
> しかし、ヨハネの福音書には「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」とはっきり書いております。
> この個所はどのように考えればよいのでしょうか?

「わたしを通らなければ」という所を、たとえば「キリスト教の定めた方法を意識的にとらなければ」というように解釈すればこれは他宗

教じゃ救われませんね。
しかし包括主義では、まさにたとえば「仏教徒もその宗教的実践によって救われうるが,その救いは本人の自覚はないがイエス・キリスト

による救いである。」と考えるのです。
具体例をあげれば、仏教徒が仏像を拝んでいたとして、それを見た包括主義キリスト者は、「あれは本人が自覚せずとも、無意識にキリス

トに向かっているのだ」というふうに考えるってことなんです。
ですから、当の仏教徒にとっては、「余計なお世話」ってなことになるかもしれません。

それから、井上神父は包括主義者ではありません。
井上師は、「他の道で救われるかは、キリストの道しか歩いていない者が、云々する資格はない」と言っているのです。他でも救われると

は断言して言っていません。
この点ではよく一緒に飲むと、私と議論になります。
多元主義に近い遠藤周作さんとよくケンカしたとも聞いています。

> ヨハネ福音書は共観福音書と大きく違うように思うのですが? どのように読めばよいのでしょうか?

「ヨハネ」はギリシャ文化を前提に書かれた、最初の福音の非神話化だともいわれます。
そもそも共観福音書とほとんど関連のない資料をもとに書かれていると思われます。
ただ、必ずしも「ヨハネ」が新しいからと言って、共観福音書より史実に遠いとも言い切れません。
私は、「ヨハネ」はイエスの福音をヘブライ以外の他民族が理解する場合の、一つの福音解釈の例だと思っています。
ということは、もし日本人向けに福音書を書けば、これまた違った形で書かれたのではないか、という可能性を示すものとして大変貴重だ

と思うのです。

>今、井上神父の本を読みながら、余白さんの本も読みながら、福音書を時々読んでいます。
> 井上神父の本に解釈があるものは良いのですが、そうでないところはむずかしいです。そのまま読むと、イエスがとても旧約の神に見え

てきて、どうも自分の考えているイエスとは離れていってしまいそうなところもあります。こんなとき、もしかしたら自分の考えているイ

エス像(前にも書きましたがとっても優しいのです。)は本当は違うのではないか?
> 勝手に自分が美化して作ってしまっているだけではないだろうか?と悩むことも多いです。
> それでも井上神父の本を通して、いろいろな事がわかってきました。
> 旧約と新約は不連続であること
> 弟子たちがイエスを第2のダビデ王と勘違いをしていたこと
> これらのことは福音書を読む上で、とても助かります。
>

はい、よくわかります。
私も受洗直後は、井上神父と話したり読んだりしているときは、ああそうだなあと思うのですが、いざ、自分で福音書を素手で読むと、イ

エスの厳しい面ばかり目について、井上神学のイエス像を疑ったときもあったのです。
しかしさらに、イエスの厳しい姿勢を探っていくと、その奥に限りない優しさが「前提」とされていることに、だんだん、気がついていき

ました。
そこへ突き抜けるまで、祈りと勉強とそして現実の中での具体的な試練が必要だったのかな、と今では思っています。

今後とも共に歩んで行きましょう。

04/20 (土) 08:34 kさんの質問に答えて

> 前回井上神父の本を通して
> 1.旧約と新約は不連続であること
> 2.弟子たちがイエスを第2のダビデ王と勘違いをしていたこと
> がわかりました、と書きました。
> しかし、このような考えは少数意見なのでしょうか。
>
> HPを見ていたら、次のようなものを見つけました。
> そのまま載せます。
>
> ――――――――――――――――――――――
> ここで皆様は一つの疑問を持たれるかもしれません。すなわち、旧約聖書を背景にして「イエスはメシアである」と信じ告白することは

、ペトロのようなユダヤ人にとっては自然なことかもしれないが、ユダヤ人でない私たちにとっては不自然なことである、もっと別な理解

の仕方があって良いのではないか、という疑問であります。例えば小説家の遠藤周作は、イエスという人物の姿に旧約聖書のメシアではな

く、むしろ人間の苦悩に優しく寄り添う「永遠の同伴者イエス」という存在を見出そうとしました。彼の『イエスの生涯』や『キリストの

誕生』という小説には、現代の日本人に近づきやすいイエス像を提供しようとする意図がよく表されています。しかし、私たちはそのよう

な小説家の思いつきに飛びつく前に、神の言葉である聖書自身がイエスという方をどのような方として描いているかということに十分な注

意を払わなければなりません。ルカによる福音書は、異邦人、すなわちユダヤ人以外の人々にイエス・キリストの福音を宣べ伝えようとし

て記された書物だと言われております。それは、ユダヤ人に福音を宣べ伝えるために記されたマタイによる福音書とは別の読者を想定して

おりました。すなわち、ルカによる福音書の読者は、私たちと同じような異邦人でありました。ところが、それにもかかわらず、ルカはイ

エスという方が旧約聖書に預言されたメシアであるということを繰り返し強調しているのであります。例えば、イエスの誕生における天使

のお告げには「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」(2:11)という言葉があ

ります。また、復活したイエス・キリストは旧約聖書を要約して「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦

しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」(24:46-47)とおっしゃったと記されています。また、

20:41、22:67、23:35においては、イエスがメシアであるか否かということが重要な問題として問われております。すなわち、ルカはユダヤ

人でない人々に対しても、イエスという方は旧約聖書に預言されていたメシアであるということを徹底して強調しており、そこには何の妥

協もないのであります。このように考えてみますと、私たちが現代人であるとか日本人であるとかいうことを理由にして、メシア(キリス

ト)という概念を他のもので置き換えようとするのは、たとえ善意で為されたとしても、聖書の著者の意図を曲げようとするものに他なら

ないことに気付かされるのであります。
> ――――――――――――――――――――――――――
> この考えは旧約と新約は連続であり、イエスを第2のダビデ王と考えていると思います。
> つまり井上神父の考えとは全く根本的に違うことになります。
> これはイエスの捉え方にも大きく関係すると思うのです。
>
> お聞きしたいことは、
> ①私は井上神父の考え方(旧約と新約は不連続で、弟子たちがイエスを第2のダビデ王と勘違いをしていたこと)の方がとてもわかりや

すいのですが、井上神父のような考え方は 少数派なのでしょうか? 
> (別に少数派でも一向に構いません。ただ今の現状を知りたくて。)

僭越ですが、「風」誌に連載している拙文「井上神父の言葉に出会う」をお読みいただいているでしょうか?
そこにも書きましたが、イザヤ書「苦しむ僕」としてイエスが背負ったのは「罪」と「苦しみ」という大きく2点に分けられます。
前者に重きを置けば、贖罪云々という話、これは旧約の完成として新約をとらえ、新旧の連続性が罪というキーワードで強くなると思いま

す。
一方、苦しみを負う身代わりとしての姿を強調すれば、遠藤さんや井上神父の、苦しみを共にするイエス像が強調されると思います。

ただどちらにしても、それは旧約以来弟子達も勘違いしたような、「政治的」つまり他民族やローマから解放してくれる「メシア」の姿で

はないのですね。
ユダをはじめ、政治的メシアを期待していた弟子達がイエスを裏切った。
しかし後に弟子達は、イザヤ書にあるような「苦しむ僕」としてイエスを再発見する、という告白を新約聖書に見ることができると思いま

す。
井上師が新旧の不連続をいうのは、こうした点や、ユダヤ律法的な「かくあらねばならぬ」という父性原理から、「すべてをゆるし包み込

む」母性原理への重心移動、それがイエスにはあったことを強調しているものと考えます。

上記引用の文書ですが、「メシア」という言葉の旧約から新約にかけてのニュアンスの変化を無視した論と思われます。
旧約では「政治的」メシアによる救いが強調されていましたが、イエスはそういう形での救いは提供しなかった。罪や苦しみを背負い、と

もに私たちの人生を歩んで下さる方、そういう意味での「メシア」(キリスト)としてとらえるのが妥当だと思います。
であるから、ユダヤ解放としての民族的メシアではなく、『ルカ』のように、全人類のメシアという普遍性が出てくるわけです。

>
> ②旧約と新約は不連続であること、弟子たちがイエスを第2のダビデ王と勘違いをしていたことと解釈できる理由は文脈からでしたか?

特に何かありましたっけ?

イエスの言動の母性的な優しさを表す表現、とくに言葉伝承より物語伝承に「不連続」を思わせるものがおおく見受けられます。
「第2のダビデ王と勘違い」は、たとえば十字架の前であっても、「弟子達はだれが偉いか論じていた」といった記事からも読みとれると

思います。

>
> ③上記の聖書個所(ルカ2:11)について、井上神学ではどのように考えればいいのか?特にメシアという言葉はどういう意味を持ってい

るのか?

上述のとおり、「政治的」メシアではなく、人生論的(といったらよいでしょうか)メシアとしてとらえていると思います。
しかしこれは、井上神学独特の発想ではないですね。
新約のメシア(キリスト)をこのようにとらえるのは、一般的だと思います。
その上で、「罪」と「苦しみ」のどちらに力点がかかるかで、神学が別れていくと考えています。

申し訳ありませんが、個々の具体的な聖句解釈については、ちょっと膨大になるので、ご自分でお調べ下さい。
おそらく、日本キリスト教団出版局から発行されている新旧約聖書「略解」や、ちょっと高価ですが、より詳しいものとして、新旧約聖書

「注解」というのが分冊で出ています。これはかなり詳しいので、買って置いて損はないと思います。
その上で、井上師や遠藤文学と比較されるといいと思います。

04/21 (日) 07:43 贖罪観

k様

> 早速、新約聖書注解(1) 新共同訳 マタイによる福音書―使徒言行録 を注文いたしました。
> 新旧全てとなるとちょっと手が出ないので・・・
> また他にも参考になる本などがありましたら教えて下さい。

そう、「注解」は一冊でもたしか1万7千円以上したように思います。
ぼくもまだ旧約までは持っていません。(悲)(図書館で借りてます)
旧約は「略解」でもいいんじゃないかな。

そうですねあと、もしできれば「コンコルダンス」(索引)っていうのがあるんです。
これは、聖書のなかにどんな言葉が何処で使われているかを調べるのに役立ちます。
簡略版でも一冊あると便利ですね。
あとは、聖書用語辞典とか聖書思想事典とか・・・・・・
こう集め出すときりがないので、私もいい加減にしようと思っています。呵々。

> 「風」誌に連載されています「井上神父の言葉に出会う」は読んでおります。
> しかし、表面的な理解しかできていないと実感しました。

すいません。もっとわかりやすく書くべきなんだと思います。
今度出る「春号」では連載の(3)になるかと思いますが、もうすこし敷衍していますので、懲りずに引き続きお読みいただければと思い

ます。


> さて、今回いただいたメールの中で、「前者に重きを置けば、贖罪云々という話、これは旧約の完成として新約をとらえ、新旧の連続性

が罪というキーワードで強くなると思います。」とありますが、「旧約の完成として新約をとらえる」これが実は今ひとつわかりません。
> 旧約にある「罪」がイエスの死によって赦されたという意味での完成でしょうか?
>

旧約はマラキ書まで全体として、メシア待望で終わっていると考えられます。
その実現は、神との契約として人間としては「義」(ディカイオシュネー)の関係が求められると考えられます。
これは具体的には十戒以下の律法を守ることになります。
その反対が「罪」( ハマルティア)ということになります。
アダムとエヴァ以来の「原罪」ゆえ、人は「義」であろうとしながらどうしても「罪」を犯してしまう・・・・
そのたびに悔い改め(メタノイア)たり、動物犠牲などをささげる・・・・・
しかしまた、罪を犯す(律法違反)・・・・・
しかしついに、イエスが現れて、自らを十字架の上に犠牲としてささげ、完全な贖罪を果たした・・・・・。

以上が「旧約との連続性」に重点をおいた新約理解の概要だと思います。
おわかりのように、こうした説明には人間のどうしようもない「罪」をどうするか、ということがポイントになっています。
しかしこれは、ユダヤ教からの「一つの解釈」であって、これだけが絶対的なイエス理解ではない、というのは、著名な神学者カール・ラ

ーナーなども明言しているわけです。
日本人には、その感性に根ざした別のアプローチがあっていい、それが遠藤氏や井上神父の苦労なんだと思います。

by余白

05/13 (月) 14:23 Q&Y余白 (ICFより抜粋転載)

(Q)
>そして、スッゴイい、意外でした。私は、時代錯誤かもしれないのですが。
>カトの方は、未だに煉獄制を統一見解として、持っているものと信じてました。
>ですから、初めのレスでは、少しだけ、カトの方に気を使ったかな~~と、
>自分でも持って他のですが、それが、早とちりだったようですね。
>
>今回は、良い勉強になりました。余白さんの暖かさも伝わってきたし・・・。。
>色々、疑問は、沸いた来るのですが、その内、別の時に、胸をお貸し下さい。

(Y)
「煉獄」についてですが、現在教会の正式見解がどういうものか、私も調べたことはありません。
これはその他のカトリック教義についても言えるのですが、バチカンの正式見解のようなものは、それはそれとしてあるのですが、現場の

教会ではそれをそのまま末端まで逐一流す、というようなことはないのです。
もちろん災害援助の協力とかは、バチカンから全カトリック教会に一斉に依頼があったりしますが、教義上の押しつけ?みたいなものはま

ずありません。
したがって、各信者が興味をもったことについては多く語れるのですが、あまり意識していない事柄は、まあ、各人のかなりの判断・裁量

をゆるしていると考えられます。

ちょっと話題離れますが、たとえば「マリア信仰」。自分の信仰でマリア的な要素が強い人は熱心ですがそうでもない人もいっぱいいます

よ。
例えば、私の知るかぎり、遠藤周作さんはマリア信仰は大きな部分を占めていたように思いますが、その友人の井上神父にはほとんど見ら

れません。井上師にはマリア的なものがイエスに包含されているのですね。
私自身もマリア様は大好きですが、それをことさら強調する信仰はありません。

よく「カトリックはこう考えているんですか?」と質問を受けることがありますが、一般論では答えられても、各人の信仰はかなりの幅が

あります。
現実は「ごった煮」状態と言えるかもしれません。
ですから私もその一人で、バチカンの代弁者でもないし、教会や教皇がすべて正しいなんて思ってもいません。(人間として尊敬はしてい

ますが)

「煉獄」思想にしても、正式見解とは別に、カトリック信者にはさまざまな受け取り方があること、またそういうことを教会側も(黙認を

含めて)許しているということをご理解いただければ、と思います。

>>これはその他のカトリック教義についても言えるのですが、バチカンの正式見解のようなものは、それはそれとしてあるのですが、現場

の教会ではそれをそのまま末端まで逐一流す、というようなことはないのです。

(Q)
>知りたい人には、週報とか月報とかが、教会に送られてくるのですか?

(Y)
必要に応じて教令のようなものが抜粋してプリント・配布されることはありますが、定期的なものではありません。
信者は、カトリック新聞(隔週刊)を購読したり、他のスレでもあった「聖書と典礼」などによって、情報を入手するのが一般的だと思い

ます。
あとは、「あけぼの」(女子パウロ会)、「家庭の友」(サンパウロ)、「カトリック生活」(ドンボスコ社)、「聖母の騎士」(コルベ

神父が始めた)など、月刊誌もたくさん出回っています。
それ以上のくわしい神学的声明や論文は、カトリック書店で必要に応じて手に入れています。

>>ちょっと話題離れますが、たとえば「マリア信仰」。
>>私自身もマリア様は大好きですが、それをことさら強調する信仰はありません。
>>「煉獄」思想にしても、正式見解とは別に、カトリック信者にはさまざまな受け取り方があること、またそういうことを教会側も(黙認

を含めて)許しているということをご理解いただければ、と思います。

(Q)
>それは、以前から、そうなのですか???
>私は、大きな勘違いをしていたのだな~~~と思いました。本当に勉強に
>成りましたし、カトリックが、魅力的で有ることが、解る気がしてきました。

(Y)
私が知る限りでは、こういう柔軟?路線に転換したのは、1960年代の第二バチカン公会議以降でしょう。その具体的なもの(たとえば、典

礼の各文化による刷新)が出てきたのは、70年代に入ってからです。
ですから、カトリックには大きく3種類の信者がいる、などと言われることがあります。
つまり、戦前のゴリゴリの信仰教育を受けた信者、戦後から第二バチカンの改革期に洗礼を受けた信者、そして70年代以降に洗礼を受け

た信者、ということです。
よく教会の分かち合いなどで話すとき、「私は~の時期に受洗したので・・・・」という言い方をする信者もいます。

いずれにしろ、「おでん」のように「ごった煮」的で、まあそれぞれの信者がそれぞれの考えで、自分の賜物を生かそう、っていう点では

共通していると思います。

>>よく教会の分かち合いなどで話すとき、「私は~の時期に受洗したので・・・・」という言い方をする信者もいます。
>>いずれにしろ、「おでん」のように「ごった煮」的で、まあそれぞれの信者がそれぞれの考えで、自分の賜物を生かそう、っていう点で

は共通していると思います。

(Q)
>では、私もプロテスタントなのであんまり良く知らないのですが、
>マリア様や、ハンナ様や、聖人の取りなしの祈りや、ロザリオの祈りを言うのは、
>皆さんは、行わないのですか???

(Y)
いつも、どうもです。
取りなしの祈りは、現在ではあらたまった形ではなく、たとえば洗礼式などにマリアやヨセフや聖人に対する「連祷」などは行うことがあ

ります。
もちろんイエスへの「連祷」もあります。御心の連祷とかも。
ロザリオの祈りは、マリアの取りなしを願う祈りですが、義務的な規定はありません。熱心に毎日続けている信者もいますが。
教会ごとに、ミサの前や後に、みんなで前半後半に分けて祈っている教会もあります。
わたしはコンスタントには今はやっていませんが、特別の願いなどあると、何環も続けることがあります。

(Q)
>そして、キリストの御名だけで祈られる、方は、どのぐらい居られるのでしょう?

(Y)
毎週のミサのなかでは、すべての祈り文の最期は、「~私たちの主、イエス・キリストによって、アーメン」で結ばれます。
救い主はあくまでイエス様だけなのですから、けっして「マリア様の御名によって・・・・」なんて言いませんよ。
イエス以外はすべて、とりなしを願うわけですから。

(Q)
>聞いて良い質問では、無かったら、無視してください。

(Y)
ぜんぜんかまいません。
もし、カトリックの現状を誤解されていた方がいれば、ご質問どんどんしていただいた方が、うれしいですから。

(Q)
>久しぶりにきました。なんかHNがにていますが、私もガリラヤのトコが好きです!最近とてもいい天気で、本当に気分がいいです!また、

時間があれば、ここに来ます!その時は、よろしくお願いします! 

(Y)
イエス様の伝道の中心が、ガリラヤ湖畔だったってことは、キリスト教を考える上で、すっごく大事なことなんですね。
砂漠の父性原理の強いユダヤ教と決別して、母性原理が中心のイエスの教えに転換した。それは、「ガリラヤの風薫る丘」に立って、様々

な花咲盛り、様々な種類のお魚が獲れる湖を前にしたイエス様の心情から生まれたものだったんだなあ、と思います。

(Q)
>本当は体力も気力も充実しているはずの年頃なのに、
>就職したら「もう22だから」とか「もう23だから」
>なんていってる人、割といてビックリしますよ。。。

(Y)
うん、よくわかる。
なんか、就職しちゃったらもう人生を変えられない、というか、わりきりたい、って気持ちが働いて、そういう言葉になるのかな、って、

(ず~~っと前の)自分の過去を振り返って理解します。

(Q)
>人間いつ死ぬかは分からないけど、とりあえず今日、
>今じぶんは生きているんだから。
>神さまはその人ひとり一人のいのちによびかけて、願って
>いる気がするのです。今の年齢のそのひとそのままに。
>だから、へたくそでもドジ踏みながらでもいいから、
>精一杯応えていきたいなぁって思うのでした。

(Y)
だよねー。
ぼく、46歳になっちまったけど、驚くべきことに、恐るべきことに、20代の学生時代からの悩み・疑問って、何にも解決していないん

だよね。何も悟ってもいないし、強くもなっていない、と思う。
若いテレジアさんとかの言葉みて、正直慰められたり、励まされたり・・・・(ほんと)高校生の教え子の言葉に涙ぐんだりすることもありま

す。
人生論に先輩・後輩まったく関係ないなあ、とつくづく思うのです。

でも、そういう自分だからこそ、もう何が何でもイエス様しかない、イエス様にすがるしかない、そういう気持ちだけは、これは間違いな

く強くなっていくように思います。

やっぱり有り難いな~。

(Q)
>外典集なんて わたしも持ってません。
>ふつう めったに持ってません。
>
>学生時代にガッコの図書館で見たことはありますが。
>教会にも置いてある教会 知りません。
>

(Y)
外典どころか、新約27書旧約39書を通読していない信者も、カトリックではかなりいるんじゃないかな。(ここだけの話)
しかし、そういう信者でも、たとえばロザリオをそれこそ100万遍唱えたようなおばあちゃんとかが、いるんですよね。
そういうお年寄りのなかに、「あたしゃ、むずかしい聖書のことはわかんないよ」とか言いながら、威厳に満ちた優しさ?のようなものを

、芳香させているから、近づきがたいというか、いやでも抱き取られてしまうというか・・・・・。
たとえば、だれにも言えない悩みを抱えて教会に行く。そしてそのおばあちゃんに「お元気ですか」と声をかける。すると彼女が「え~大

丈夫ですよ」と答えてくれる。そのしわくちゃな顔に輝く涙ぐんだ視線に触れた瞬間に、「癒された」と思ったことは度々です。

(Q)
>さて、カトリックでは、ルターは、今でも教会に反抗した異端指導者の一人として
>扱われて居ると言うことを、聞いたことが有ります。事実でしょうか??
>確かに、1500年代の教会にとんでもない、悪影響を及ぼした事は、事実ですよね。
>私は、超教派のばでは、あえて、「煉獄」「マリアの取り成し」「ルター」は、
>タブーだと思いこんで、疑問は有っても、話題を避けてきたのですが・・・。。

(Y)
え~っと、前にも書きましたように、ぼくたちは(テレジアさんも)、現場の一信者にしかすぎないもので、教会の正式見解を代表するこ

とはできません。
たとえば、下記のイグナチオ教会のサイトで、ご質問なさるといいかもしれません。
http://www.ignatius.gr.jp/webforum/wforum.cgi
ここなら、そういう方面の神学的・教会見解に詳しい方もいると思いますので。
私などが言えることは一般の教会で、「ルター」ほか宗教改革者について、「彼らは異端だ」というような説教を一度も聞いたことがない

ばかりか、エキュメニズムに触れるとき多くの神父の、「過去のカトリックの侵した過ちをまず認めて、改めましょう・・・・」という説教は

よく聞きます。(2CHで問題になっているような、一部の保守的・ネオ・カトリック的な人たちはいるようですが、私の周辺には皆無で

す。)

(Q)
>また、カトリックの神父さんや、プラザー・シスターが、十字を切りますよね。
>あれは、どの様な場合に用い、どの様な根拠が有るのでしょうか???・・・。

(Y)
神父たちだけでなく、一般信者も度々十字を切ります。
教会に入るとき、ミサの初めと最後、家庭での祈りのとき・・・・あらゆる機会に。
おでこ(父)と胸(子)と左肩から右肩(聖霊)へ「父と子と聖霊の御名によって」とつぶやきながら動かします。やはり神様を意識し、

向かう動作の一つだと理解しています。
その他、教会によってはミサ中にひざまずいたり、合掌したり、立ったり・座ったり、聖体拝領に並んだり・・・・・体全体を使って礼拝するっ

ていう促しだと思います。
ミサは確かに「儀式」的要素は強いのですが、それは単なる形だけの(心を伴わない)儀礼ではないのです。
体が心にも作用する、「祈りの身体性」といったらよいでしょうか、昔パスカルが言いましたね、「祈りがどういうものか知りたかったら

、まず黙ってひざまずいて手を合わせなさい」というようなことを。
実際信者は一連のミサの動作や聖体拝領のなかで、魂の浄化のような実感を度々体験します。

(Q)
>もし、その思うところが同じで有ったなら、私が行うのはいけない事でしょうか?

(Y)
これは逆に、私の方からプロテスタントの方にお聞きしたいところです。
何か、偶像崇拝?的な問題があるのでしょうか?

(Q)
>ロザリオの祈りの付いてですが、テレジアさんが、言われた用に、自由に用いる
>と言うことですが、もう少し、わかりやすく、具体的に、メールでも結構です。
>お教え頂けませんか??また、ロザリオは、自分で作るのですか、教会公認の物が
>あるのでしょうか??

(Y)
自分で作ってもいいんです、どんぐり?とかで。
でも一般にはカトリックグッズのお店で、売っているものを使います。
正式には、それを神父に頼んで祝別(聖別)してもらう(お祈りして聖水をかける)のが良いとされています。
ちなみにぼくのうちは、ロザリオは一本も祝別してもらっていません。あまりそういうことにこだわるのは、なんというか、まじないみた

いな感じがするので・・・・小さな家庭祭壇と、マリア像一体だけは、祝別してもらっていますが。

(Q)
>> 特に、濃茶の作法が似ているって言われるらしいのですが、そうなのですか?
>
>お茶のほうは まったくの素人なので,よくわからないのですが,
>茶碗を茶巾で拭いているしぐさなんかも
>聖杯を聖水で一回洗って拭くしぐさによく似ています。

(Y)
茶道の作法がミサからとったものだ、というような本を、チェスタトンやシェークスピア研究で有名な、上智大のピーター・ミルワード神

父が書いていたと思います。
実際、近世の茶碗が見つかると、どうも茶碗に十字架の印がついていて、それを故意に消した痕跡がある、とか聞いたことあります。

(Q)
>小テレジア (1873-1897)
>   幼いイエズスの,リジュの,小さき道の,小さき花の
>
>
>ぼくの地元の教会は「小テレジア教会」です。

(Y)
うちの教会も「小さき」の方です。
で、この小さきテレジアさん、24歳(だった思う)で死んで、ほとんど奇跡的なことを何もしなかったのに、聖人に異例のスピードでな

っちゃったんですね。
そんでもって、最近、とうとう、あのトマス・アキナス他何人かしかいない「教会博士」にまでなっちゃったんです。
ということは、彼女の単純な信仰、「幼子のようになってイエス様のエレベーターにのっかって天国に行く~」っていう信仰を、カト教会

が奨励しているってことなんだと思います。

(Q)
>実は、最初カトリック信者になろうと心に決めた事がありました。
>ブロよりもカトの方が、ノンクリスチャンにとっては、
>分かりやすく理解しやすいスタイルが多く、

(Y)
そうとも言えますが、まったくキリスト教を知らない人が初めて行くなら、プロテスタントの礼拝の方がわかりやすいと思うのではないで

しょうか。私自身がそうでした。
ミサは、なにをやってんだか、立ったり座ったり、平和の挨拶をしたり・・・・あげくに、ウェハースを「キリストの体」なんて言って食べて

るんですから、初めて来た方にはすっごく説明しにくい、という経験をしています。

(Q)
>社会活動の素晴らしさに惹かれた惹かれた一人です。

(Y)
これはプロテスタントでも同じだと思います。ただ、カトの場合は、カリタスジャパンとか大きな組織があり、アムネスティやってる人も

多いとか、マザーテレサ・・・・とかが目立つのですかね。

(Q)
>しかし、ずっと心の底で疑問を抱き続けている私です。

(Y)
>>これは逆に、私の方からプロテスタントの方にお聞きしたいところです。
>>何か、偶像崇拝?的な問題があるのでしょうか?

(Q)
>偶像崇拝というよりも・・・私が一番引っかかったのが「マリア像」と「ロザリオ」です。
>
>前に、一度修道院にお伺いして、美味しい手作りケーキを頂いたついでに
>草取りもさせて頂きました。その時、一人のシスターが話しかけて来ました。
>ロザリオをお持ちでしょうか。と・・・。その上に
>「十字架のペンダントも大切だわ」と別の若いシスターが話していました。

(Y)
どういう状況でそのように聞かれたのかはわかりませんが、そのシスターたちは、もしかすると、あなたに対して配慮が欠けていたように

思います。
おそらくプロテスタントのことをほとんど知らないシスターたちだったのでしょう、許してあげて下さい。
かくいう私も、この前の東京オフ会のときに、ちょっと迷ったのですが、遅刻のお詫びにルルドのメダイとロザリオを持って行き、何人か

のプロテスタントの女の方に「アクセサリー、おみやげとして」差し上げました。
喜んで受け取って頂けた(もしかしたら、無理してかなあ?)と思っていますが。

(Q)
>投獄された神父のエピソードがありますが
>わざわざ衣服の生地をさいてまでロザリオを作らないと祈れなくなるのか・・・?

(Y)
いや、他の祈り方もできたのでしょうが、おそらくその神父にとっては、ロザリオの祈りが習慣化していて、最もマッチした祈り方だった

のでしょうね。
今の教皇なんかも、ロザリオが大好きみたいです。

(Q)
>本当は何も使わなくても「聖霊」によって祈る心を神様が与えたのでは・・・?
>しかし、何故、ロザリオが必要なんだろう?どうしてマリア像を作るのだろう?

(Y)
はい、よくわかりますよ。
ちょっと屁理屈に聞こえたら許していただきたいのですが、ロザリオやマリア像がなくても、聖書という本になっている「物」を目の前に

開いて祈るのと、何もないのとどちらが祈りやすいでしょうか?
また、何もないとしても、足を投げ出してふんぞり返るよりは、正座したり、姿勢をただしたり、頭を下げたり、また天を仰いだり・・・・そ

ういう動作や姿勢が祈りを助けるということがあるように思うのです。
その延長線上に、ロザリオやマリア像のような「道具」があるのだと思っています。
音楽でも、絵画でも、自然でも、そこに向き合うことによって、神様との対話を誘発してくれるなら、偶像とは考えないのがカトリックだ

と思います。
東方教会との聖像論争で、聖像を認めたカトリックと、厚みがあるものはいけないとしてイコンが広まっていった東方教会・・・・このへんは

、ずいぶん古くから論じられてきたのですね。
これは前述したように「祈りの身体性」に関する問題だと思っています。
心身の疲労や病気・苦しみのなかで、「祈ろうとしても祈れない人間性の弱さ」に教会が妥協したという言い方もできるかもしれません。

(Q)
>ずっとずっと心の隅で引っかかる部分です。
>それが正直な気持ちです。乱暴な質問になってしまった事、お詫び致します。

(Y)
いいえ、そんなことはありません。ご質問、ありがとうございました。
いずれにしろ、こうしたことは所詮「道具」や「身体」の問題なのですから、決定的な霊の救いとは一線を画した、「方法論」の問題なの

だと思います。

(Q)
>ファティマの預言を、どの様に受け止めておられますか?此処に書ける程度で、
>結構です。(私に取っては、大きな関心事です。)

(Y)
う~~~ん、これも、テレジアさんと同じ感じかナー。
信者になりたてのころ、ロザリオの祈りの本などに、ファティマの奇跡のことが触れられていたんで、ちょっと知っている程度です。
第一が世界大戦のこととか・・・・共産主義がどうとか・・・・第三の秘密を教皇が知ったとき、卒倒したとか・・・・う~~ん、やっぱりあんまし興

味ない、というのが正直なところです。
むしろ、マスコミとかの話題として大きくなっていて、教会でもほとんど聞きませんね。

ファティマとかルルドとか、いろいろ奇跡的な話題はいっぱいあって、う~ん、否定もしないけど、のめり込む気もないって感じですかね

ー。
むしろそういう奇跡的なことを通して、「あなたがたはよく祈りなさい。愛をもって生きなさい。祈りは必ず聞き届けられているのですよ

」っていうマリア様のメッセージに、興味がありますです。

ちなみに、ルルドの水は私も飲んでいます。
あれ、ほんと、なんで腐らないんでしょうかねー???
だれか、おせーって。

(Q)
>余白さんに質問し忘れたのですが、バチカンで、色々な超宗教的活動が盛んですが、
>どの様な立場を取られておられるのでしょうか??

(Y)
「超宗教的活動」っていうのは、たとえば人権問題や平和問題などってことですかね?
教皇(庁)のメッセージが絶対だなんて思いませんが、たとえば来日したときの広島の「平和アピール」など、当時読んで、そのとおりだ

なあ、て思いました。
教皇(パパ様なんていう信者もいますが)は、カトリックの最高指導者、ってなことになっていますし、私は今のヨハネパウロ二世は、人

間的に尊敬できる人だとは思っています。
でも、間違ったことを絶対言わない、なんて思ってはいませんよ、「人間だもの」ね。
メッセージも行動も、内容によって判断します。

(Q)
>ご丁寧な説明を本当にありがとうございます。
>
>みことばの入ったカードとか、ペンダントとか、きれいな押し花ブローチとか
>賛美歌の楽譜とか、色々なものを用いて、神さまを思う。イエス様を思う。
>みことばを吟味する。などなどいろいろありますよね。
>
>ただ、ロザリオやマリア像などの場合は、数珠とか、魔術や厄除けなどに使うために
>作られた様々な道具と、スタイルが似ているので、
>今まで偶像礼拝に強く染まってしまっていた人たちや、または
>物にとらわれやすい一部の人にとっては、
>それらを心のよりどころにしてしまいやすい部分があるのではないか・・・。
>
>>付け加えますが、仮に「マリア像やロザリオがなければ生きていけない」
>という人がいたら?? そのような人たちはどうなるのでしょうか・・・?という事に
>心が痛むからです・・・。神さまの御手の中にあるという事がどんなに素晴らしいか。
>それを知らない人たちが物に執着してしまう。それは悲しいですよね・・・。
>そういう訳で質問させて頂きました。
>
>日本人の場合は「交通安全」とかお守りを身につけたり
>自動車のバックミラーにぶら下げたり、鞄の中にしのばせたり
>その習慣がありますよね。その延長線にロザリオとマリア像を置くと
>それを心のよりどころにしてしまう傾向が出るのではないか。に対して
>懸念を感じる立場です。

(Y)
う~ん、問題は微妙ですね。
というのは、「心のよりどころ」っていう所で考えちゃうのです。
マリア像もロザリオも聖書という本も、たしかに神ではありませんが、・・・・こういう話を恩師の井上神父から聞いたことがあります。
彼が修道院にいた頃、とても祈りに熱心な修道士がいて、ふと見たらぼろぼろのすごい古い訳の聖書を持っていた。「今はもっといい訳の

が出ているよ」、って言ったら、「ぼくはこれがいいんだ。これは母の形見で、この聖書を読むと母を通して神様と会話できるんだ」とい

うような話を聞いたというのです。
やっぱりただの「物」であっても、そういう特別な意味、「心のよりどころ」になるような「モノ」になることはあるんじゃないかなあ、

って思います。
特別な人や記念にもらったものは、やっぱり捨てられないし、それを身につけていることで、勇気や希望や愛が沸くっていうのは事実じゃ

ないかなあ。
ぼくはやっぱり、聖書という本は故意に踏みつけられないし、マリアや十字架像も大事にしたいです。
「これは私の身体である」といって渡される聖体は、やっぱりただのウェハースじゃないし、「これは私の血」といって渡される御血も、

うちで飲む葡萄酒じゃないと思うのです。

>>音楽でも、絵画でも、自然でも、そこに向き合うことによって、神様との対話を誘発し
>>てくれるなら、偶像とは考えないのがカトリックだと思います。

(Q)
>それはカトリックに限らず、多くのクリスチャンがそうだと思います。
>いえ、クリスチャンのみならず、聖書を読んだ事がないノンクリスチャンも、
>神が与えられた芸術の素晴らしさには心を打たれるものなんですね・・・。
>
>写真におさめたり、絵にしたり、歌を歌ったり・・・。
>自然を通して神様の作品の素晴らしさ、神様の愛の深さを
>本当に教えられるんですよね(*^^*)

(Y)
>>これは前述したように「祈りの身体性」に関する問題だと思っています。
>>心身の疲労や病気・苦しみのなかで、「祈ろうとしても祈れない人間性の弱さ」に教会
>>が妥協したという言い方もできるかもしれません。
>

(Q)
>なるほど・・・。そういうものなんですね。理解できました。
>
>ただ「祈ろうとしても祈れない」について気づかされたのですが、
>余白さんは、「祈り」とはどんなものか。どのように思っておられるのでしょうか。
>
>実は、私も祈ろうとしても祈れなくて苦しみ苦しんだことがある身です・・・。
>ですが、その前に余白さんからもぜひ「祈り」についてお伺いしたいです☆

(Y)
僕が「祈り」について一番思うことは、祈りはなんのためにするか、っていうと、神様の前に自分が相対化するため、っていうことだと思

っています。
願いを聞いてもらう、悔い改める・・・・意味はいろいろあると思うのですが、一番大切なのは、「自分の人生は本来自分のものではなく、神

様がご自分の御業を表現する場」なんだということです。
「私の人生の主人公は私ではなく、神様が私を通してご自分を表される場」なんだということ、それを心身含めて感じ取ること、それが祈

りじゃないかと思っています。
イエス様の祈りはそういうものだったと思います。
僕たちにはなかなかできるもんじゃありませんが、そう努力したいです。

>>いずれにしろ、こうしたことは所詮「道具」や「身体」の問題なのですから、
>>決定的な霊の救いとは一線を画した、「方法論」の問題なのだと思います。

(Q)
>決定的な霊の救いだけでなく、
>"救いの確信"も大切ではないでしょうか。信仰生活を送るにあたって・・・。
はい、確信は大切ですね。
でも、わたしたちが確信していようといまいと、神様はその御手のなかに抱き取ってくださっている・・・・というのも、やっぱり確信ですか

ね。
>
>ちょっと言葉の表現が足りなくてご理解に苦しむ部分があるかもしれません^^;;
>
>長くなってしまって申し訳ありません。

(Y)
いいえ、とても誠実に受け取って頂けて、感謝するとともに、僕自身も勉強になります。
ありがとうございます。

06/27 (木) 00:00 八木重吉を読む

「ときと
 ところと
 すべてはキリストへむかっている
 おがんでいる」

 わたしが大好きな八木重吉の詩集『神を呼ぼう』(新教出版社)にある、無題の詩です。

 新約聖書におさめられている四つの福音書は、それぞれに対象とする読者がいたことがわかります。『マタイ』はユダヤ教からの改宗者

、『マルコ』は異邦人へ、等々。
 また、旧約の「詩編」はよく「第二福音書」などとよばれるように、キリスト者はこれをすばらしい福音賛歌として読むことができます


 こうした意味でわたしは、重吉の詩は、「日本人へ向けた」福音書あるいは「日本人にとっての」詩編として、最良のものではないかと

密かに思っているのです。
 キリスト者であれば、日常のなかで度々聖句を思い起こす時があるものです。それと同じように、わたしは重吉の詩をよく思い出すこと

があるのです。
     *
先日、家族に難しい病気を抱える方から相談を受けたのですが、彼の様々な苦しみの根本には、「なぜ、わたし(の家族)ばかりが、こう

いう不幸に見舞われなければならないのだろうか・・・・」という感情があることが、話を聞いていくうちにはっきりしてきました。
 「人の幸不幸は何によって決まるのか?」という問題は、旧約聖書の「ヨブ記」にもあるように、人間が古くから問い続けてきたことで

した。
 今まで拙著でも断片的ですが、この問題を取り上げて来ました。
 そしてさらに考えを巡らしていくうちに、この問題の奥にはさらに、「人生は何のためにあるのか?」という、人生の目的・意味の問題

が横たわっているのではないかと、思うようになったのです。
 近年「人生の目的」という、そのものズバリの本を書いた五木寛之氏は、はっきりと、「人生に目的はない」と言い切っていますね。
 健康、出世、財産、快楽・・・・どれも当面の目標にはなっても、人生の目的にはならないのではないでしょうか。
 わたしはここで、「目標」と「目的」というのを、分けて考えてみたいと思います。
 国語辞典では、「目標=それからはずれまい、そこまで届こう(かせよう)とねらうもの。目的=行動する目標として考えられた、そう

したい何事か(なりたい何者か。」(新明解国語辞典)とあり、ほとんど同じような意味合いのようです。
 しかし、実際わたしたちがこの二つの言葉を使うときの実例を引いてみると、その違いがわかってきます。
たとえば、「人生の目的は・・・・」といいますし、「人生の目標は・・・・」ともいいますね。しかし、「剣道の目的は・・・・」とはいいますが、

「剣道の目標は・・・・」とはあまりいいません。「目標」という言葉を使うなら、「今度の剣道の試合の目標は・・・・」というふうに使います

ね。
 こうして微妙な違いを検討していくと、どうも「目的」の方が抽象的・哲学的・長期的であり、それに比べて「目標」は具体的・現実的

・短期的な要素が強いように思います。
 具体的な目の前の「目標」を、一つひとつクリアーしていった先に、「目的」なるものがある、とも言えるかもしれません。
 そして日々、具体的な「目標」を持っている人は多いのですが、「人生の目的」を心得ている人はずっと少ないのではないでしょうか。

「目的」は上に述べたように、抽象的でつかみ所がないだけに、五木氏のように、「そんなものはない」と言っても、当面生きていくのに

差し支えがないのかもしれません。
 わたしが学生時代によく読んだ石川達三氏のエッセイに、「人間には大きく二種類あって、それは宗教的人間と、非宗教的人間である」

というようことが書かれていたことを思い出します。そして氏自身は、「わたしは非宗教的人間である」といっています。
 ここで石川氏のいう「宗教的」とは、ふつうわたしたちが考えるような、特定の神や仏を信仰する、という意味で使われているのではな

いかと思いますが、わたしはもう少しちがった視点として、これまで述べてきた「人生の目的」といったものをどれだけ意識するか、を基

準にして「宗教的」かどうかを判断できるのではないかと思うのです。
 各「目標」の向こうに、それらを集約した、それらのベクトルが指し示す「人生の目的」を意識すること、それが宗教なのではないかと

思います。遠藤周作氏は、「生活と人生は別である」と言いました。この言葉を使うなら、「生活の目標」と「人生の目的」とは一応別、

ということになるかもしれません。
 重吉が、
「ときと
 ところと
 すべてはキリストへむかっている
 おがんでいる」
というとき、これは明らかにキリストを「人生の目的」と考えています。わたしたちが生活する、ある「とき」、ある「ところ」で設定さ

れる「すべて」の目標が、「キリスト」という最終の目的に「むかっている」と断言しているのです。まさに重吉は、「宗教的」人間とい

えるでしょう。
 もう一点重要なことは重吉が、人生の各「目標」が指し示す集約的「目的」として、「キリスト」という特定の信仰対象を指摘している

ということです。
 

 

07/23 (火) 17:45 東の窓

 10年ほど前になけなしの金をはたいて新築した。その直後、ほんの2ヶ月後には、すぐ南側の隣家も建て替えをし出した。他家の建て

替えにとやかく言う筋合いはないのだが、北の境界線ぎりぎりに、何の予告もなく、実質3階かと思われる程の大きな家が建ったのには面

食らった。
 以来拙宅は、昼尚暗く、冬はほとんど陽が当たらず、夏の風通しも悪い。それでもこの時期、一番明るい東の窓からは、夕風にティッシ

ュペーパーのような石鹸花の薄桃色が揺れているのが見える。その向こうに、わずかな夏の青空がのぞける。
 先日入院・手術した元同僚を見舞った。開口一番、彼の方から「ガンだったよ」と告げられた。「ガン」という暗い響きとは不釣り合い

な、どこかさばさばとした彼の態度に見舞いに来た僕たちは戸惑った。顔色もいい。職場にいたときとほとんど変わらない、ように見える

。しかし、片方の腎臓を全摘し、体重も10㎏近く減ったという。「今のガンは取っちゃえば何でもないんだなあ」と涼しい顔で笑ってい

る。強い男だと思った。特別な信仰など持っていない彼の強さは、どこから来るのだろうか。
 饒舌な彼の冷静な自己診断を、それにしたって、家族、とくに奥さんの心配はいかばかりかと、身につまされながら黙って聞いていた。
 帰宅途中、読みかけの永井隆の文章の一節が目にとまった。
 「私は長わずらいの床に寝たきりだ。こんな無一物の病人のところへお嫁さんに来てくれる物好きな人もおらぬ。日一日とやせ細りなが

ら、待っているばかり。──実は私も待っているのである、花嫁の来るのを。
 花嫁、私のところへやがて来る花嫁──それは、死である。私のもとへ来てくれる花嫁は死のほかにない。私と結ばれる妻は死のほかに

はない。聖フランシスコは死を兄弟と呼んだ。私は死を妻と呼びたい。」(『ロザリオの鎖』「結婚」より)
 明日は、同僚の実父の通夜に行く。
 今、帰宅した妻が、「ビール買ってきたよー!」と玄関で叫んでいる。

08/09 (金) 11:02 動静メモ

登校日、学校説明会終了。風なく暑い。

山根氏より電話。住宅顕信が香山リカ氏によって、再評価されてる由。

Tさんの文章、山根氏もほめていたよ。もどってくれればいいのだが。

「聖母の騎士」10月号向け巻頭原稿3種。写真2葉送付。

「井上師の言葉」原稿18~20枚、推敲せよ。8/20まで。


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