「南無アッバ」を生きる ホーム » 連載「井上神父の言葉に出会う」 »第2部(16)実存をかけて聖書を読む4.八木重吉との類比

第2部(16)実存をかけて聖書を読む4.八木重吉との類比  

このように、井上神父が「南無アッバ」を「確信」するまでの道のりをたどるとき、これとちょうど類比できるのが、次のような八木重吉の詩ではないかと、わたしは思うのです。

信仰
 人が何と言ってもかまわぬ
 どの本に何と書いてあってもかまわぬ
 聖書にどう書いてあってさえもかまわぬ
 自分はもっと上をつかもう     
    

 (『定本 八木重吉詩集』弥生書房 二五八頁)

 これは明らかに、「学者」ではなく「求道者」としての実存をかけて、キリスト信仰を生きようとした重吉の決意を示す言葉です。

しかし、こううたう重吉は一方で、

「ギリシャ語の聖書をよめば/とおのうちのたったひとつのいみがわかるだけでも/ひろびろとすみきって/おさなごのようにたんじゅんなまことが/すぐさまこころへふれてくるのをかんずる/くるしいわざではあるが/かみよ このべんきょうをつづけさせたまえ」
(同 二〇八頁)

ともうたい、けっして「聖書にどう書いてあってさえもかまわぬ」と最初から思っていたわけではありません。

この「ギリシャ語の聖書を・・・・べんきょう」するというのは、いま述べている文脈にそっていえば、「学者としての読み方」です。

それを放擲したような心境の変化はどこから来たのでしょうか。
『定本』のなかでそのヒントになると思われる詩が、右の二つの間にある次の詩です。

聖書
このよいほん聖書のことばを
うちがわからみいりたいものだ
ひとつひとつのことばを
わたしのからだの手や足や
鼻や耳やそして眼のようにかんじたいものだ
ことばのうちがわへはいりこみたい


聖句を「うちがわからみいりたい・・・・からだの手や足や/鼻や耳やそして眼のようにかんじたい・・・・ことばのうちがわへはいりこみたい」とは、まさに、「学者としての読み方」をこえて――止揚(アウフヘーベン)して、体験的な「求道者としての読み方」に徹しようとする重吉の決意表明ではなかったでしょうか。

その決意を促した大きなきっかけは、彼の場合、己の死期の予感だったかのもしれません。

井上神父の場合、重吉のこの決意と同じようなきっかけになったのが、遠藤周作氏の『沈黙』との出会いだったということです。

『沈黙』が発表され、厳しいキリシタン迫害のなかで「(踏み絵を)踏むがいい」と自ら言ったイエスが、キリスト教会では問題になりました。

この「てんわわんや」の混乱の中で神父は、若き日にテレジアによって触発され、小教区という現場のなかで出会った法然によって確信となった、アッバ神学へと突き進んでいくのです。


このように、テレジアから法然を経るアッバ神学確立への道程を見渡しますと、その内容としては井上神父が念を押したように「変化ではなく確信」であることは確かですが、その方法論としては「学者としての読み方」から、体験的な「求道者としての読み方」への重点の「変化」として捉えることができるのではないかと思います。
(つづく)
関連記事


category: 連載「井上神父の言葉に出会う」

tb: 1   cm: 0

コメント

コメントの投稿

Secret

トラックバック

トラックバックURL
→http://yohaku5.blog6.fc2.com/tb.php/658-92109be3
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

中原中也詩集 (岩波文庫)

初めて中原中也の作品を読んだ時は、ありきたりの叙情詩だと思ったのだが、繰り返して読むうちに、思わずはまってしまった。中也の作品の最大の魅力は、表面的なロマンティシズムの裏側に隠された、真摯な求道精神にあるのだと思う。きっと中也という人は、まるで侍のような

詩集の感想 | 2007/10/04 08:35

検索フォーム

日本人にわかるキリスト教を求めて

南無アッバの集い&平田講座

求道詩歌誌「余白の風」

最後の南無アッバミサ

全記事表示リンク

リンク

▲ Pagetop