「南無アッバ」を生きる ホーム » 連載「井上神父の言葉に出会う」 »第2部(16)実存をかけて聖書を読む2.「変化でなく、確信」

第2部(16)実存をかけて聖書を読む2.「変化でなく、確信」  

ここでわたしは、今年(二〇〇六年)四月にNHK教育テレビ「心の時代」で放映された番組「すべては風の中に」を思い起こします。

おそらく本誌読者の多くがご覧になったのではないかと思いますが、この番組は井上神父が青年時代に抱いたニヒリズムの問題からはじまって、哲学者ベルグソンやリジューのテレジア、遠藤周作氏らとの邂逅談を交え、「南無アッバ」の境地に至るまでの経過が、コンパクトにわかりやすくまとめられており、大変好評でした。


このなかでわたしにとって最も印象的だったのは、後半、法然の話に及んだときの聞き手とのやりとりの部分です。

聞き手「でも、イエス様のそういう姿(悲愛が一番大事で、必ずしも掟を守ることではない)というのは、聖書のなかやいろいろなものに書かれている、テレーズもそうですが、わかっておられる部分もあるわけですよね。それが、法然を経ることによって、変化してきたということでしょうか?」

井上「いや、変化じゃなくて、それが確信というか、そういう方だったんだと――。

福音書というのは、実にいろんな視野から書かれていて、それだけ読んだら矛盾している言葉が、うじゃうじゃあるわけです。

だから、テレーズが示したようなイエス様はたしかに書かれていますが、でも、『マタイによる福音書』が示しているイエス様というのは、もっともっと厳しい。

そういうことで必ず、山のような反論が来る。しかし、自分がイエス様に従って一生を生きようというのだったら、こうかもしれないし、ああかもしれない、そうでないかもしれないでは、生きられない。

どこかにイエス様に従うんだ、という確信がなければ――論文を書くわけじゃありませんから。

自分の生涯を生きるわけですから。それを自分にどう納得させていくか、ということに、やっぱり時間がかかった・・・・。」


わたしはこの短いやりとりに、「はーっ」と思わされるところがあったのです。

悲愛を第一とするテレーズの示したようなキリスト教を井上神父がすでに知っていながら、さらに法然に出会って感動するということは、そこに別の「変化」があったのではないかと、「聞き手」は推測して質問します。

ところがそれに対して神父は即座に、「いや、変化じゃなくて、それが確信」だと強調します。


この部分からわたしは、日頃聖書に接する機会が多くない一般の日本人にとって、たとえばキリスト教の奇跡や復活、あるいは倫理といったものについては多少の興味があっても、四福音書のなかに表されたイエスの姿(言動)の多様性というものには、それほど大きな関心がない、あるいはイエスの姿は自明的に一様と思われているかもしれないということを、改めて感じたのです。


したがって、「福音書というのは、実にいろんな視野から書かれていて、それだけ読んだら矛盾している言葉が、うじゃうじゃある」――あっちにはこう書いてあり、こっちでは反対のことをイエスは言っている・・・・と、イエス像の多様性が問題になり、悩み、苦しむということがどういうことかは、一般にはなかなか理解できないのではないでしょうか。


そして、平均的な日本人のキリスト教理解が右のようであれば、そもそも、井上神父また「風の家」が模索する〝日本人のためのキリスト教〟というのは、何のことなのか――なぜ「日本人のため」なのか、もなかなかわかってもらえないのではないか、とも思いました。

「風の家」二十周年記念講演で、編集室の山根氏も触れていますが、教会に属するキリスト者を含め、とくに日本人のためのキリスト教が必要である、と意識している人は、正直そう多くはないのでしょう。


しかしかつて、井上神父が処女作『日本とイエスの顔』を書いたとき、当時(一九七六年)のカトリック教会での反応は鈍かったにしても、多くの一般読者や求道者、プロテスタント信者が即反応してきたことも事実で、こうしたことを考え合わせれば、日本人向けキリスト教の無意識的あるいは潜在的需要(?)は、けっして少なくないのだと思うのです。
関連記事


category: 連載「井上神父の言葉に出会う」

tb: 0   cm: 0

コメント

コメントの投稿

Secret

トラックバック

トラックバックURL
→http://yohaku5.blog6.fc2.com/tb.php/656-4f408369
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

日本人にわかるキリスト教を求めて

南無アッバの集い&平田講座

求道詩歌誌「余白の風」

最後の南無アッバミサ

全記事表示リンク

リンク

検索フォーム

▲ Pagetop