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第2部(15)聖書の行間にそそがれた〝まなざし〟5.〝復活〟の「行間」を読む  

以上のことをふまえて、話を「復活」に戻します。

「36こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。

37彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。

38そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。

どうして心に疑いを起こすのか。

39わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。

触ってよく見なさい。

亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」

40こう言って、イエスは手と足をお見せになった。

41彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。

42そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、
43イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。」
(『ルカによる福音書』二四章)

これまでみてきたように、弟子たちには先生イエスを裏切った「自己嫌悪」、「恐怖感」、「不安」といったものが、復活体験の前提として存在していました(『福音書を読む旅』二五九頁)。

「しかし四一節では、その弟子たちに対し「何か食べ物はないか」と言って、焼けた魚を一切れみんなの前で食べられたと書いてあります。

一緒に食事をなさるということ、これは裏切った弟子たちをまったく責めることなく、その弟子たちの弱さによる裏切りをそのまま受け入れ、赦しておられる先生イエスさまの母のような赦しのまなざしを象徴しているのだといえます。」
(同書二六〇~二六一頁)

このように井上神父は、当該ペリコーペに、裏切った弟子たちと食事をするイエスの「赦しのまなざし」を発見し、それを重視しています。

しかし、『ルカによる福音書』の右の箇所の文脈をたどると、三七節から四十節に「見る」「触る」という動詞が繰り返されているように、イエスが差し出された魚を「食べた」のは直接的には、「自分は亡霊ではない」という、復活の身体の三次元的可視性を強調するためであったと受け取るのが、一般的な見方ではないでしょうか。

ちなみに『新共同訳』で示されているここの関連(並行)箇所を見てみますと、まず『マタイによる福音書』には、イエス復活後に弟子たちと食事をした、という記事そのものがまったく載っていません(二八章)。

また『マルコによる福音書』では、

「その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。

復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。」
(一六・一四)

とだけ書かれており、食事の場面ではあるものの、「御自身を現された」のは、「復活されたイエスを見た人々」すなわちマグダラのマリア(一六・九)や二人の弟子(一六・一二)の言うことを信じさせるためであった、という文脈になっています。

(ただし、『マルコによる福音書』十六章九節以下は、後代の加筆であることが確実とされています。)

さらに、『ヨハネによる福音書』では、次のように書かれています。

「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。

そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。

そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。」
(二〇・一九~二〇)

 この記事の前後を見ても、弟子たちが復活のイエスを「亡霊」ととらえ、それゆえに「恐れた」という『ルカによる福音書』のような書き方はされていませんが、彼らが「主を見て喜んだ」のは、「家の戸に鍵がかけて」あったのに、「イエスが来て真ん中に立」ったこと、すなわちイエスの三次元的復活体を「見た」からだ、ということを、福音書記者は強調したかったかのように受け取れます。

少なくとも記された言葉の表面上の意味を第一義とするならば、そのように読まざるをえないのではないでしょうか。

 ところが井上神父は前述のとおり、復活体の三次元的可視性よりも、弟子たちを一言もとがめず、いきなり「平和があるように」と彼らを祝福し、ともに食事をしたというゆるしの意味を重視していることになります。

これは、先の「安息日に、腰の曲がった婦人をいやす」話と同様、ここでも神父は、福音書に直接書かれてはいない行間を読み取っているということを意味します。

しかも、先の場合は当時のユダヤ社会に対する文化史的知識を持てば、ある程度だれでも想像できる範囲のことであったのに対し、右の復活の意味については、神父独自の読み取りがなされているといっていいのではないでしょうか。(つづく)
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