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第2部(15)聖書の行間にそそがれた〝まなざし〟4.あたたかな〝まなざし〟の同化  

これに対し「会堂長」は、イエスが安息日に医療行為(労働)をしたことに腹を立てます。

労働について三十九に上る禁止事項が厳格に定められた安息日規定では、生命に直接かかわらない――緊急性のない病気治療も禁止されていたからです。

「会堂長」は、女は急病ではない長患いなのだから、律法に従って「働くべき六日」に治すべきである、つまり一日のばして明日癒せば、律法違反にもならないし、彼女を救うこともできる、と考えます。

彼の頭の中には、まず律法遵守が先にあるからです。

井上神父は、彼らには、

「十八年間の長い歳月での、この一人の婦人の哀しみや涙・・・・哀しく重い人生をトボトボと歩んできた一人の目立たない、貧しい人間の心をうつしとる悲愛の心なぞ、全く不在だったのである」(六四頁)

と喝破します。

このペリコーペについても神父の関心は、現代人一般にありがちな理性的・第三者的な科学の目で奇跡治癒の有無を問題にするということにも、また律法学者や「会堂長」ように律法と現実の摺り合わせ――これも律法的合理主義といえる――に苦心する、というところにもありません。

イエスが直感――生半可な同情や憐れみを超えた、それこそ神業としか言いようのない程の共感(スプランクニゾマイ)によって「婦人の哀しみや涙・・・・貧しい人間の心」をうつしとった悲愛の心、イエスのまなざし、この一点に関心を寄せているのです。

井上神父の「行間」の読み方はまずこの、人の痛みを写し取る心を中心に展開されています。

それは前号でわたしが井上神学を「浪花節的キリスト教」とよんだ所以でもあります。

読者はここでまた、アッバミサで毎回となえられる「風の家の祈り 二」の次の一節を思い起こすことでしょう。

「・・・・御子イエスが、深い哀しみと痛みを背負って、重い人生を歩んでいた人たちの心を映しとり、受け入れ、友として生きられたように、私たちにもそのような人々の心を映しとれる友の心をお与えください。」(『南無アッバ』一六三頁)

「深い哀しみと痛みを背負って、重い人生を歩んでいた人」とはまさに、このペリコーペでは「腰の曲がった婦人」にほかなりません。

さらに読者は、このように行間を読む井上神父のまなざしが、「会堂長」の冷ややかな第三者的・合理主義的目ではなく、イエスのまなざしにしだいに同化していく様子を、先の著をはじめとした諸著作から読み取ることになるでしょう。
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