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第2部(15)聖書の行間にそそがれた〝まなざし〟3.女性へのまなざし  

「風」第73号2006年夏・秋

さてこれまで、『ヨハネによる福音書』八章の「姦通の女性の物語」や『ルカによる福音書』七章の「罪深い女性の物語」によって、「イエスのゆるし」が先行し恥意識や真の回心が導かれることを井上神父の指摘によって見てきました(本稿十三「風」第七十号)。

これらは講座や講演などでもしばしば引用されるペリコーペで、彼女たちに対する井上神父のあたたかなまなざしを感じさせます。

イエスが当時としては破天荒なことに、女性の弟子をもったり、差別の目をもたなかったことはよく知られているところですが、わたしが「罪と恥」をめぐって福音書を読んでいたとき、たまたま目にとまったのが、『ルカによる福音書』一三章の「安息日に、腰の曲がった婦人をいやす」(一〇~一七節)と題されたペリコーペでした。

この箇所は、先の「姦通の女性の物語」や「罪深い女性の物語」と異なり、「・・・・反対者は恥じ入った」と、イエスに敵対する者の「恥」意識が明記されていたからです。

しかしむしろここで注目したいのは、「姦通の女性」や「罪深い女性」に対してと同様、井上神父がこの「腰の曲がった婦人」に、思い入れとも言えるほどの暖かな〝まなざし〟をそそいでいるということです。
神父は、次のように書いています。

「この婦人がどのような階層に属していたのか、既婚者なのか未婚者なのかという点についてもふれていないので、そのへんのことについてはまったくわからない。

ただ当時婦人が家庭の中でおかれていた地位を考えてみるならば、腰が曲がってしまってよく働けないということは、現代の私たちが想像する以上に哀しく辛いことであったに違いない。」(『イエスをめぐる女性たち』一九九二年、五八頁)

当然、女性の欠かせない義務であった水汲みもできず、「このごくつぶしめ」と罵声をあびせられ、「死にたいような思いにかられ続けてきた長い苦しい彼女の十八年の生活であったのに違いない」と、井上神父はこの箇所の行間をていねいに読み解きながら、彼女の苦しみに思いを馳せています。

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