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第2部(15)聖書の行間にそそがれた〝まなざし〟2.学習による「なじみ」  

さらに森氏は、次のように述べています。

「もともと、ある意識が内面的であるか、外面的であるかということは、客観的な事実の問題であるよりも、より多く心理的な問題である。

つまり「なじみ」があるかないかの問題である。」(一八七頁)

「結局、恥と罪とを、ベネディクトのように外面的と内面的ということで区別することは適当でない。

両者ともに「なじみ」のない間は外面的なのであり、学習によって「なじみ」ができれば内面的になるからである。」(一八九頁)

氏は、中国でも「きわめて古い時代には、罪の意識が強烈であった」といいます(たとえば、中国古典中最古の『書経』には、「罪」が五十回以上使われているのに対し、「恥」(羞)が十一回ほどしかない)。

その「罪」は「天罰」に結びついたものであり、それがしだいに、天罰の代行者たる君主の刑罰――法を犯すことが罪ととらえられるようになった、というわけです。

こうして「罪」から宗教的な意識が消失し、「恥」にその座を譲っていった、といいます。

このあと森氏は「中国人の宗教意識」の変化について詳細に分析しているのですが、興味深いのは右に引用したように、罪や恥が外面的か内面的かは「心理的」な、また「学習によるなじみ」の問題ととらえている点です。

このことについて氏は、「天」「国家」「世間」に対する反応をめぐって考察していますが、わたしはその根底に、自然や風土の影響というのもが大きな比重を占めているのではないかと思うのです。

「一般的に言って、ある人の育った風土がその精神形成の上に極めて大きな影響を与えているという事実を私たちは軽くみることはできないであろう。」
(『わが師イエスの生涯』二〇頁)

こういって井上神父は、ナザレやガリラヤ湖周辺の「牧歌的・田園的風土」からイエスの精神形成を語り始めるのですが、ひとりイエスに限らず、すべての人間(社会)はこの「風土」に無意識に多大な影響を受け、そのなかで、ある思想・考え方の方向が「学習」され、「心理的」にも「なじんで」いくのだと思います。
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