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第2部(14)浪花節的キリスト教3.浪花節的キリスト教  

 『不安の力』(集英社)というタイトルに惹かれて最近読んだ、五木寛之氏の本に次のような一節がありました。

<命が軽くなれば、自殺をする人も増える。

自分の命が軽いだけでなく、他人の命も軽いわけですから、凶悪犯罪もつぎつぎに起こる。

いまこそ、乾燥しきった荒野にオアシスの水を注がなければいけないときではないでしょうか。

そして、そのためにはちゃんと悲しむこと、泣くこともまた大事だと思うのです。>
(七二頁)

 五木氏は、戦後は戦前の反動で「明るい理想的な社会」をつくるため、日本人は「古くさい義理や人情は排して、じめじめした人間関係に乾いた風を送り込むことに専念した」といいます。

その「乾いた風というのはユーモアと笑い」だけれども、社会が乾きさえすればそれでいいというふうにはならない。

命は「水分を含んでいるからこそ、重い」のであり、悲しむことや不安を感じることにも、喜ぶことと同じように、「大事な働き」がある、というユニークな論を展開しています。

そして、次のように述べます。

<この戦後の五十数年間、ぼくらのこころはからからに乾きすぎてしまったのではないか。

湿っぽい人間の情感というものは、浪花節的だ、演歌的だ、歌謡曲的だ、あるいは新派的だ、メロドラマ的だ、と罵詈雑言を浴びせられ、世の中から軽蔑されてきました。

ぼくは、そのなかに含まれている湿ったもの、みずみずしい水分を、もう一度取り戻す必要があるような気がしてなりません。>
(七一~七二頁)

 他のエッセイにも書いたことですが、わたしが受洗した年の秋、井上神父はわたしたち夫婦の結婚披露宴に来てくださいました。

主賓のかたい祝辞の後、「次ぎに、井上洋治様!お願い致します」と司会者に指名されると、神父はニコニコして、「では、祝辞にかえて一曲歌わせていただきます!」と挨拶もそこそこに〝美空ひばり〟の「柔」を歌い出したのです。

会衆は唖然としつつも、師が神父だとはだれも気づかず、この陽気な〝おじさん〟につられて合いの手を打っていました。

 若かったわたしはその後、一杯飲んだ席で、「井上先生の(神学)は、要するに演歌や浪花節ですね」とうっかり言ってしまったのです。

すぐ自分の軽口に「しまった!」と思ったのですが、時遅し。

飲めばわたしなどにはけっこう〝べらんめい〟口調になる――これは一種の親愛の情だと勝手に思っています(笑)
――神父に何と怒られるか、びくびくしていました。

ところが神父は、にこっと笑って、「そうだなあ」と感慨深げに頷いたのでした。

<浪花節の代名詞に使われる『義理と人情の世界』。

これを単に安っぽいお涙頂戴だとか、アウトローの世界のことだと理解してはいけない。

 『義理』とは正しい道(justice)という意味で、社会規範、道徳を表す。

『人情』とは英語のhumanityに相当するある種の愛情・・・・のことだ。・・・・

 社会規範が明文化されたものが法律だが、法は必ずしも全ての人間の価値判断を指し示すわけではなく、かつその指示が実生活において万能でもない。

法に背いても果たさねばならぬ義務が生ずる場合も社会にはままあるわけで、それが人間として正しい道であるかどうかが問われるわけだ。

そこに実社会の中で培われてきた庶民の倫理観がある。

 『浪花節的』と言う言葉は、こうした倫理観に基づいた意思決定が杓子定規な理詰めの規則より、情理共に立つ人間的に正しい道であると言う世界観を指して言うべきで、道理よりも情を優先する非論理的な行動様式と理解することは大いなる誤解に満ちている。>
(HP「芦川淳平の浪曲研究所」浪曲小百科3)

 我田引水的に芦川氏の言葉をお借りすれば、イエスが十字架も厭わず「(律)法に背いても果たさねばならぬ義務」とは、第一に「アッバ」なる神をすべての人に指し示すことであったととらえたのが、井上神学といえるのではないでしょうか。

 井上神父が山田洋次映画監督と対談したときの言葉が残っています。

<私は山田さんの作られた「男はつらいよ」の寅さんに、完全に魅了されているんですよ。

・・・・一つはやっぱりあの映画に、日本人の生活感情の根底を流れている〝さすらいの哀愁〟みたいなものがあるからかなあと思うんですがね。

・・・・善意そのもののあの寅さんの笑いの陰にある哀しみみたいなものに、まずぼくはひかれたんじゃないかっていう気がしているんですけどね。

・・・・ぼくが寅さんにとらえられた理由の一つは、さっき言ったように〝さすらい〟っていう点だと思うんですよね。

流行歌、浪花節ね。>
(『ざっくばらん神父と13人』一九七九年、主婦の友社、八~一八頁)

 神父は、「寅さん」にひきつけられる理由として、「寅さんの笑いの陰にある哀しみ」、日本人の生活感情としての「さすらいの哀愁」を指摘しています。

またそれは「流行歌」であり「浪花節」であると、自ら語っています。そして次のように続けます。

<しかしそれだけなのかなァと思い始めましてね、なんて言うのかな、ちょっと言葉は変かもしれないけれど、あの寅さんて、ぼくには聖人みたいな人に思えるんですよ。

・・・・私たちの感じている聖人のイメージと寅さんはだぶっているんじゃないかと思うんです。

そこでぼくは寅さんにつかまったんじゃないかっていう感じがしているんですけどね。

・・・・(わたしたちは)申しわけないと思いながら、人を踏んづけたり、踏絵を踏んだりしながら、生きているわけでしょう。

だから、そうじゃないってところに大きな魅力があるのと違いますかねえ。

・・・・相手の気持になり切るということは、ぼくはやっぱりキリスト教の愛の本質だと思うんですよ。

・・・・ほんとに聖人のように生きたときには、やっぱり何かある悲しみみたいなものを背負っているわけですよ。

そしてそれが人生ってもんじゃないかってところに、ぼくは寅さんにつかまった気がしますね。>
(一八~二二頁)

 「寅さん」を聖人のように感じるのは、「申しわけないと思いながら、人を踏んづけたり、踏絵を踏んだりしながら、生きている」自分を、井上神父が感じているからです。

山田氏との対談では、ことさら「罪」の問題を取り上げてはいませんが、ここでも「申しわけない」という言葉を使って、キリスト教の「罪」を井上神父は表現しようとしているのではないかと思われます。

 このように、キリスト教の「罪意識」を、自分の「至らなさ」を「恥」じ、「申しわけない」と思う心として表現していく感覚は、さきの芦川氏のいう、言葉の正しい意味でやはり「浪花節的キリスト教」といっていいのではないかと、わたしはいまでも思っています。

またこれらの表現は、「罪がどのようにわかる」か、という視点から考えたとき、先の「行為」「態度」「心性」表現以上に直観的・直情的に――体験の反省や回想の時間を経ずに――実感できるという点で、日本人の感性にとって、「よりわかりやすい罪」といえるのではないかと思うのです。
(つづく)
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