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第2部(14)浪花節的キリスト教2.〝申しわけなさ〟という罪意識  


 本論第二部(一一)では『福音書を読む旅』の文脈から、弟子たちの復活体験の前提には、イエスを「裏切った」がゆえの「自己嫌悪、恐怖感、不安・・・・暗黒」、さらに「会わす顔がない」「赦されるはずはない」という後ろめたさ・罪悪感があることを述べました。

そのときわたしは、「この辺りに、聖書が語る「罪」と井上神父の、ひいては日本人の「罪意識」とを結ぶ鍵があると思う」と指摘しておきました。

実は、先に述べた父性原理の強い従来の西欧型キリスト教の「罪意識」に対して、母性原理にもとづく「恥意識」という日本的心性を考えたとき注目したいのが、この「会わす顔がない」といった〝後ろめたさ〟の心情なのです。

 まず、一九八二年に発刊された『新約聖書のイエス像』(女子パウロ会)第七章「隣人となるということ」では、『ルカによる福音書』一〇章の「善きサマリア人のたとえ」に言及しながら、井上神父は次のように結論しています。

<大切なことは、私たちがいかに人を愛することから遠い至らない人間であるかを謙虚に自覚し、私たちをも受け入れて一緒に食事をしてくださるであろうイエスの前に心からそれを恥じることにあるのである。

 私たちのように愛から遠い人間が、この愛の自覚もなしに、ただただ親切をしなければならないという意識で、後ろはちまきでがんばれば、下手をすると、偽善と自己満足のなんともいえない不愉快なにおいを発散して歩くことにもなりかねないことを、深く反省してみる必要もあるにちがいない。>(一二八~一二九頁)

 この引用の後半部は直接的には、すでに論じた道徳主義的キリスト教の超克に関連する事柄ですが、「後ろはちまきでがんば」らなくていいのは、前半、「至らない人間」としての自覚、「恥じる」心=恥意識をまず重視するからです。

前述したとおり、井上神父は「恥」を、道徳的な意味合いに限られている「罪」よりも、もっと広い概念として受け取っています。

 また、右書発刊と同時期に行われた講演、「私とリジューのテレジア」(一九八二年一〇月一七日・カトリック関町教会)の記録が収められている『人はなぜ生きるか』では、心理学者・小此木啓吾氏の言をまとめながら、次のように述べています。

<エデュプス・コンプレックスの罪意識が、父親の掟に背いた罰への恐怖からくるのに対し、阿闍世コンプレックスの方は、許してくれた母親に対する申しわけなさからくるということを言っておられます。

この二つのコンプレックスの型からいえば、テレジアの罪意識というのは日本人式の阿闍世コンプレックスになるのではなかろうか、という気がいたします。>(一四八頁)

 「罪」を、「恥じる」心として、さらに「申しわけなさ」としてとらえる井上神父の感性は、近年の発言にも表れています。

たとえば『ルカによる福音書』五章の、ペトロがイエスに言われてしいて網を降ろし、たくさんの魚がとれて驚く場面(一~一一節)を、次のように説教の中で語っています。

<・・・・それで沖にいって網をおろしたら魚が沢山とれたので、ペトロはびっくりして「私は罪深い者だ」と言って、イエスさまの足もとにひれふしたというのは、イエスさまのお言葉を疑った自分を「申しわけない」とあやまったということでしょう。>(本誌第六八号「日曜日の福音ばなし(五七)二〇〇四年二月八日」)

 ここではペトロの罪意識を、はっきり「申しわけなさ」として受け取っていることがわかります。
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