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第2部(13)恥意識は罪意識に劣るか?2.罪と恥  

 次に、『イエスへの旅』第二章では、ベネディクトの「恥の文化」に対する「罪の文化」の優位性の主張に対して、



 「恥の意識は・・・・他人ではない、何らかの形で自我を超えた他(者)の目にさらされていることで十分におこりうるもの(であり、)

・・・・「恥」は、道徳的な意味合いに限られている「罪」よりも、もっと広い概念であるといえよう。またベネディクトがいうように、罪は内面的自覚にもとづき、恥は外面的規制にもとづくというふうに簡単には決められないことも明らかであろう。

「罪の文化」が「恥の文化」よりも優位にあるというようなことも当然いえなくなるはずである。」(二七、二八頁)



として、日本人の「場の文化」的特性が、けっして劣ったものではないことを井上神父は論証しています。

 その上で「罪」と「恥」の関係について、『ヨハネによる福音書』八章の「姦通の女性の物語」を例にあげ、ユダヤ教の律法違反→裁きと罰への恐れ→罪の意識→イエスのゆるし→恥の意識→真の回心へと導かれる過程を分析しています。

また『ルカによる福音書』七章の「罪深い女性の物語」についても、イエスのゆるしが先にあり、そのあと彼女の回心と恥意識が誘発されたのだ、と述べています。こうしたことをふまえて井上神父は、



 「罪の意識というのは、裁きと罰の『父性原理の強い神』に対しておこりやすいものであり、恥の意識というのは、逆に、ゆるし受け入れてくれる『母性原理の強い神』の前でおこりやすいものだといえるのではないかと思うのである。」(三二頁)



と結論しています。



いま手元に、野村耕三著『日本人の回心―日本キリスト教人物史研究』(新教出版社、一九七六年)という本があります。

おもて表紙の見返しには「80.8(一九八〇年八月)」とメモがあり、この時期はわたしが遠藤周作氏の『私のイエス』から井上神父の存在を知り、出会おうとする直前だったことが思い出されます。



  神を呼び神を疎ましく生きている



 この頃を振り返って、わたしが最初に発表した自由律俳句です。キリスト教に近寄ろうとして近寄り難い何かを感じながら、あちこちの教会や集会に出入りし、哲学や宗教書を耽読していた時期です。



 「日本人が日本という固有の風土と日本人の精神の中で説教や聖書の研究を通して福音に接し、形成した具体的な、しかも日本的な生き生きした信仰の内実を軽視したり、抹殺したりするのでなく、福音の土着化のためにこれらを評価し、さらに有効に用いるべきであると考えるようになった。

福音が一つの地域に根をおろす時には、その地域の風土と精神の上に、とりわけそこに生きている人間の一人一人の心の中に広まってゆくものである。

日本人が固有の風土と精神をもって福音に接し、罪からの救済と死をも含めた一切のものからの解放を本当に体得した時には、やはり一面において欧米人の福音受容とは違った日本人独特の福音の受容と福音の生かし方を造り出したと思われる。・・・・

この固有の風土と精神という問題について、編集史的面から新約聖書を概観する時に、イエス伝、使徒行伝、パウロやペテロやヨハネ等の書簡集においても、それらの編集者や著者たちはそれぞれの民族の精神的、風土的特色を絶えず念頭に置いて各福音書を編集し、また書簡を書いている。」(右書「あとがき」)



野村氏はプロテスタントの牧師ですが、新約聖書の「著者」それぞれが「民族の精神的、風土的特色を絶えず念頭に置いて」福音書や書簡を書いたように、日本人には「日本人独特の福音の受容と福音の生かし方」があり、「日本的な生き生きした信仰の内実」を重視すべきこと、といった右の「あとがき」に見られる考え方は、わたしたちの「風の家」の目指すところとおよそ矛盾するものはないように思われます。

そして氏は、結論として次のようにいいます。



「私は成熟した信仰は、神認識、罪意識の自覚、贖罪信仰(キリストの贖罪による赦し)、(死の克服としての)復活(というパウロ的回心)信仰、再臨信仰へのプロセス(パターン)を取ると考えている。

それ故に、信仰が本当に自分の信仰として土着するか否かは、実は自己の罪の自覚と、その罪を贖罪信仰によって克服することができるかにかかっていると考えている。」(二四頁。また五五、六二、二〇六頁などにより平田が補足)



キリスト信仰の日本への「土着」化、インカルチュレーション(文化内開花)を考えたとき、救済論としては野村氏がこのように「パターン」化した「贖罪信仰」を重心におく「パウロ的回心」より、同じパウロが示す「初穂理論」を井上神父が推奨していることはすでに繰り返し述べてきたとおりです。

そうしたコントラストではなく今ここで問題にしたいのは、先の「姦通の女性の物語」で井上神父が分析した回心プロセスとの比較です。

すなわち井上神父は、「ゆるし」から「真の回心」へといたる間に、野村氏が言及していない母性原理にもとづく「恥意識」を置いているということです。

野村氏は、「日本人独特の福音の受容と福音の生かし方」を強調しながら、その内実あるいは日本的心性をどう生かすか、ということを積極的に語ってはいません。

むしろその結論は、「罪の自覚と、その罪を贖罪信仰によって克服すること」という、これまでの教会の中でまさにパターン化された教義表現を繰り返すにとどまっています。

うがった見方をすれば、そこには、日本的心性がパウロ的贖罪信仰のプロセスに解消されるべき、との主張を感じるのです。(つづく)
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