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第2部(13)恥意識は罪意識に劣るか?1.「タテ社会」はイエスの教えに矛盾しない  

「風」誌第70号(2005年夏・秋号)


 いましばらく、『イエスへの旅』を最初からたどってみましょう。

ルース・ベネディクトの「日本の階層制度に対する信頼こそ、・・・・日本人の抱いている観念の基礎をなすものである」(『菊と刀』五三頁)という言葉に対して井上神父は、



 「・・・・頂点に立つ者をも含めて全てを相対化する絶対なる神を認めさえすれば、・・・・階層制度そのものがキリスト教の教えに反するものというわけではないのではなかろうか。

階層制度を認めることとキリスト教の信仰を生きることとは、決して二律背反的なものではなくて、両立可能なものなのではないだろうか。」(『イエスへの旅』一六頁)



と、「和」や「秩序」を大切にし、「階層制度(中根千枝氏のいう「タテ社会」)を生きざるをえない」わたしたち日本人も、けっしてキリストの教えから除外されることはないと述べています。

そして『福音書』のなかでイエスが十二使徒を特別な者として選んだこと、パウロが「分に応じて」働くキリストの体論を展開していること(エフェソ四・一六)等々をあげ、



 「日本の社会構造に深く根をおろしている『階層制度の尊重』ということは、それ自体としては、何ら『神の前での平等』というキリスト教の考え方と矛盾するものではないのであって、そのタテ関係のすべてを相対化する絶対なる神を認めることによって真の完成をみることができるはずであろう。」(同書二三頁)



と結論づけています。
キリスト教のいう「罪」を日本人の美的倫理感から説き起こすことができる、という先の論と合わせてここでも、日本人がその資質を放擲せずにキリスト信仰を身に付けられるのだ、という井上神父の確信が伝わってきます。

そしてこの章の最後には、ベネディクトの日本の「階層制度」に対する戦いの姿勢は、



 「決してイエスの福音そのものから導きだされてくるものではなくて、むしろ西欧近代の所産からくるものというべきであろう。」



と喝破します。

井上神学に懐疑的な方からときどき、「井上神父の言いたいことはわかるが、あまりにも日本人に迎合しているのではないか」と言われることがあります。この言葉の真意は、キリスト教の普遍性(universality)、あるいは神の唯一性(unity)の強調にあると思われます。

しかしだからといってそのことは即、信仰(内容の受け取り方)の画一性(uniformity)を意味するものではない、とわたしは思うのです。

この点で、「民族や文化をこえたところに信仰がある」という、よく聞くいい方には注意しなければなりません。



「主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。」(エフェソ四・五~六)

「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」(ガラテヤ三・二八)



といった、キリスト信仰の普遍性を説くパウロが、同時に宣教論においては、



「ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。

・・・・弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。

何とかして何人かでも救うためです。」(一コリント九・二〇ab、二二)



ともいっていることの意味をよく考えたいと思います。

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