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第2部(12)現代人にわかる「罪」3.「罪」と「エゴイズム」  

「現代日本人にわかる罪」という視点でさらに話をすすめたいと思います。

右の『イエスへの旅』第三章の冒頭で井上神父自らも述べているように、本論第一部(四)でわたしは、神父が五つの救済論
――「贖い理論」「償い理論」「借金棒引き理論」「身代わり理論」「初穂理論」の中で、日本人の心情に最も訴えるものとして、復活を基盤とする「初穂理論」を奨励していること、また、他の四つは十字架に集約される理論であることを述べました。

しかし実はこのうち「身代わり理論」についてだけは、引用した論説「救いの神秘の表現について」のなかで、神父は次のように留保していたのです。



「ただこの(律法の呪いとか支配とかいう)表現を、自我の肥大による自我呪縛のむなしさ、というふうに解釈するならば、次の『初穂理論』とあわせて、現代の私たちにも近づきやすい救済論への手がかりとはなるように思うのである。」(『風のなかの想い』八四頁)



この但し書きを改めて思い起こすと、前号で引用した『キリスト教がよくわかる本』「Q三八」文中に使われている「エゴイズム」という言葉と呼応していることに気づくのです。

つまり、「罪」とは、人間が「神のようになろうと」して「エゴイズムの殻の中に閉じこもる」ことであると定義され、「罪」を「エゴイズム」(利己主義・自己中心性)として受け取っているところに井上神学の「罪」概念の一つの特徴を見ることができるということです。

「アッバミサ」の最後に参加者全員で唱えられる「風の家の祈り」は、次のように始まります。



「アッバ、利己主義に汚れているわたしたちの心をあなたの悲愛の息吹で洗い清めてください。・・・・」



あるいは、次のような祈り、



「アッバ、利己主義に流されて、今日も一日人々の心を傷つけてきたことを心からあなたの御前でお詫びいたします。・・・・」(『南無アッバ』一六八頁「就寝前の祈り」)



 これらの言葉から、井上神父が「罪」を「エゴイズム」と置き換えて使用していることは明らかです。



「罪とは何かについて・・・・人間は本来、他の人々との交わりのうちに生きるものであるから、自分の中に閉じこもって心を開かなければ自分自身から疎外されてしまう。

このような状態が、イエズスによれば神から離れている状態なのである。・・・・こうした自己中心的な心・・・・。」(要理編纂専門委員会編『カトリック入門』三七頁)

「自己に固執して意識的に神と人々への愛を拒否すること、実はこういう罪が多くの不幸や苦しみの原因となっているのである。」(同一五四頁)

「罪はいつも<誰かに>対する罪として、関係性のうちに捉えられる概念である。

・・・・罪をめぐるキリスト教の思索は、無謬を目指す個人といった人間理解と異なり、我執し他者から目を背けることに潜む虚無のリアリティを見つめつつ、応答する存在としての人間像を示す。」(『岩波キリスト教辞典』「罪」の項)



これらのキリスト教(会)側からの説明は、井上神父が「罪」概念を「エゴイズム」に集約して表現することの正統性を裏づけるものといってよいでしょう。

「楽園喪失物語」以降の聖書から導き出される「罪」概念の多様性については先に触れましたが、同時にその特殊性――たとえば、旧約聖書における律法違反とみる――というものも確かに存在するでしょう。

そしてこの特殊性を強調する立場からみれば、聖書が語る「罪」を「エゴイズム」という多分に近代的自我を想起させる一語に一般化・集約化してしまうことの危険性が指摘できるかもしれません。

よく耳にする「(聖書の)罪がわからなければキリスト教はわからない」というキリスト者の言い方は、言外にそうした留保を促しているようにも受け取れます。

そこから起こるであろう批判を井上神父が知らないわけはないでしょう。しかしそこをあえて神父は多様な罪概念から「エゴイズム」をその中心概念として選び取ったのです。

それはひとえに、「現代日本人にわかる罪」の提示、という理由によるのだと思います。

一方、キリスト教の視点からではない、より一般的な資料を少しく調べてみると、たとえば、次のような記述に出会います。



「●エゴイズム:利己主義または自己中心主義のこと。

(略)エゴイズムは人類の歴史とともに古いが,シャカ・キリスト・孔子・老子・ムハンマドなどの偉大な宗教の創始者や思想家たちは,人間の苦悩の原因が,自己への執着・エゴイズムにあること,そしてこのエゴイズムを克服し,神(仏)の愛すなわち慈悲(英知)にかなった心づかいと行動をすることが幸福への道であることを示してきた。

また,現代の精神分析学者や人間性心理学者(マスロー・フロム・ロジャーズなど)も人間の基本的欲求である自己実現を妨げているものがエゴイズムにあることを明らかにしている。」(『世界歴史事典』データベース http://www.tabiken.com/history/doc/C/C042R100.HTM)

「原罪とは、利己主義(エゴイズム)的な欲望のために自己中心的な生き方をしようとし、ときに神を認めない傲慢な自己中心性によって、神に背を向けてしまうことをいう。」(高等学校公民科教科書『新現代社会』清水書院 三四頁)



このように、井上神父の「罪」=「エゴイズム」との置き換え表現は、けっして特別なものではありません。

にもかかわらずわたしがこのことを重視するのは、こうした置き換え表現が、これまで述べてきたような井上神学の文脈の中で語られているからです。

つまり、〝現代日本人の感性で受け取れる福音(また罪)表現への翻訳〟という、井上神学の一貫した「文脈」のことです。

わたしはこうした罪「表現の翻訳」ひとつにも、井上神父の覚悟、そしてその「文学性」をも読み取ることができるように思うのです。

なぜなら「文学」とは前述の通り、「人間の視点」でわかるものを手がかりに語ろうとするものだからです。

そしてもし、このようないわば<罪概念の一般化>を是とするなら、わたしたちは特殊な民族主義的色彩の濃い旧約聖書の文脈・知識を前提としなくても、普遍的な「「罪」という事実というか行為というか、この言葉が意味させている現実(リアリティー)」(『イエスへの旅』三三頁)をストレートに実感できるものとなるのではないでしょうか。

(つづく)
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