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第2部(12)現代人にわかる「罪」2.罪意識と自然  

 さらに井上神父はこの『イエスへの旅』第四章の最後で、



「このように罪というものを美的倫理感にてらして理解したとき、何か前章(第三章)で述べた日本人の自然への親近感とも相容れ、相補うものを持ってくるのではないだろうか。」(五四頁)



とも述べています。その第三章で神父は、



「救済論としては、「贖い理論」より「償い理論」より「初穂理論」の方が現代日本人にはわかりやすいと思っているし・・・・、従って確かに「贖罪」という言葉をそのまま使うことは殆どない。

また罪に関しても、なるべくこの現実を、何とかわかりやすい日本語で表現しようと無意識にも努めていたのは確かであるように思われた。」(三三~三四頁)



とし、久山康氏の『近代日本の文学と宗教』(創文社)等を引用しながら志賀直哉を中心に、肉体的欲望と罪意識についてさまざまに考察しています。その上で、



 「・・・・しかしエロースは、アガペーによって方向づけられ、秩序づけられるべきではあるにしても、決して真向から否定されるべきものではないはずである。

・・・・このエロース的な自然との一体感、及び自然(しぜん)を自然(じねん)とみて畏敬する思いがまた典型的な日本の精神的風土の一つのエロース的形態であることも否定できないであろう。

 エロースが否定されるべきではなく高められるべきであるならば、このような志賀の精神的世界もまた、キリスト教的な悲愛の世界へと開かれていいはずだ、どうしても私にはそう思えて仕方がないのである。」(四四、四五頁)



と述べ、「エロース的な自然との一体感」や「自然(しぜん)を自然(じねん)とみて畏敬する」日本的心性がイエスの教えからけっして排除されるものではないと結論しています。

 本論第一部(八)でわたしは、道徳主義に傾き過ぎたキリスト教のイメージを払拭すべく努力してきた井上神父の姿を紹介しました。

この章でも久山氏の「一体、志賀には体質的にキリスト教の人間観を受容しがたいものがあったように思われる。

・・・・その根底には性格的にキリスト教的な意味での道徳感覚の稀薄さがあり、従って罪についての自覚が乏しく、むしろそれを不自然で観念的で西欧人模倣の感受性として反撥するところがあったように思われる。」(前掲書一七九頁)

という指摘に対して井上神父は、



 「少なくとも内村門下にいた頃の若き志賀には、道徳感覚と罪の意識が稀薄であるというよりも、むしろ逆に強すぎたのだといえるのではなかろうか。」(『イエスへの旅』三九頁)



と反論しています。その上で、



「・・・・もし二十歳前後の青年志賀が、売春婦に回心をせまるなどということをするまえに、まず彼女たちを受け入れて一緒に食事をとった福音書のイエスのゆるしと悲愛の真の姿に接していたならば――と私は思わざるをえないのである。」(四〇頁)



といい、罪人に「回心をせまるまえに」「受け入れ」たイエス、「ゆるし」が先行するイエスを、「悲愛の真の姿」としてわたしたちに提示しています。

ここに道徳主義をこえる井上神学の根底にあるイエス観・神観を見ることができます。

 この第三章を改めて読み直していると、これまでわたしたち日本人キリスト者は、右の久山氏の文にもある「キリスト教の人間観」あるいは「キリスト教的な意味での道徳感覚」なるものを、無意識のうちに西欧経由の人間観・道徳感覚という眼鏡を通して受け取ろうとしてきたのでないだろうか、という思いを強くします。

もしそうだとすれば、青年志賀には直感的に「不自然で観念的で西欧人模倣の感受性」として受け取られ、「反撥」されたとしても、不思議ではないように思うのです。このあたりに明治以来の日本のキリスト教の問題があるように思われます。

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