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第2部(12)現代人にわかる「罪」1.罪と美的倫理感  

『風』2005年春第69号掲載

 このように、聖書における「義」(ディカイオシュネー)を美的関係・美的世界としてとらえる井上神父の視点については、今とりあげているテキスト『キリスト教がよくわかる本』が発刊された一九八九年同時期に書かれた論文風エッセイ「罪と美的倫理感」(日本基督教団出版局『イエスへの旅』第四章=本誌十四号初出)に、より詳しく述べられています。

 この論のなかで井上神父は、前問「Q38「罪」とは何ですか」の内容を敷衍しつつ、



「『創世記』の「楽園喪失物語」の作者にとっても、またパウロにとっても、本来の神と人間との関係の在り方は、一致と調和のおのずからの美しさにあったはずである。

罪とは、この調和と一致のおのずからの美しさを汚す行為であり、その結果の、汚れた状態に他ならない。」(五一頁)



といいます。

 そして、福田恆存氏の「日本人の道徳感の根底は美感であります」(『日本および日本人』福田恆存著作集第七巻 新潮社 一九五七年)という指摘を引用したあとで、



 「罪が、神と人間および人と人との一致と調和の美を汚す行為及びその結果の汚れの状態としてとらえられうる限り、キリスト教でいう罪と日本人の美的倫理感とはけっして矛盾するものではないはずである。

とすれば、美的倫理感から罪を説明したとき初めて、罪の感覚が日本人の心情の中にその場を占めていくことができるのではないだろうか。」(五三頁)



と井上神父は述べています。

 ところで、福田恆在氏は当の引用文のなかで、日本人の倫理感は「潔癖の美学」であり、そこから「みえ」も生じ、「したがって、強い自我意識といふものが形成されにく」く、「私は、対象との距離感の喪失を、私たち日本人の弱点と見ざるをえない」といいます。

ここで印象的なのは、福田氏のこの意見に対する井上神父の考えです。

神父は「対象との距離感の喪失」は確かに「日本人の弱点であるかもしれない」と認めつつ、



 「しかし政治家でもなく学者でもなく、ただキリストにとらえられてしまった生涯を日本人への福音伝道に生きる以外にできなくなってしまっている私としては、それが弱点であろうと長所であろうと、ともかくその人たちにイエスの福音を伝えたいのである。」(同)



と吐露しているのです。この告白には、「弱点であるかもしれない」「対象との距離感の喪失」を、一人の同じ「日本人」として共に背負いながら、その渦中において福音伝道に生涯を捧げようとする井上神父の決意、覚悟が読み取れます。

これはまさに、「キリスト・イエスに捕らえられている」(フィリピ三・一二)パウロが、「同胞」を思いやった姿勢(ローマ九・三参照)と重なります。

今この論文を久しぶりに読み返しながら、わたしは改めて大きな感動に包まれたのでした。
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