「南無アッバ」を生きる ホーム » 連載「井上神父の言葉に出会う」 »第2部(11)美しき花「南無アッバ」3.「美」をめぐって

第2部(11)美しき花「南無アッバ」3.「美」をめぐって  

これらの記述を注意深く検討すると次のようなことに気づきます。

まず際立つのは、この短い説明文のなかで、「調和の美」「平和の美」「連帯の美」「神との正しく美しい関係」といったように、「罪」との対比で「美」が繰り返し強調されているということです。

聖書的には「罪」の反対は「義」です。それで、「義」→「正義」(どちらもギリシア語はディカイオシュネー)と発想していけば、「神の義を貫徹するために最愛の独り子イエスを十字架にかけ・・・・」という定型の贖罪論等につながり、最終的には道徳主義的色彩の濃い救済論に行き着くことが予想されます。この点は第一部で見てきたとおりです。

そこをそうせず、井上神父は「義」→「美」と連想することによって、「義」=神との正しい関係、あるいは神の支配になる「神の国」が美的世界であることを印象づけています。これもまさに文学性・芸術性に通じる発想です。

今年の「喜寿を祝う会」(〇四/四/二九)で、今や老境に達した神父が〝最近わたしは、人の一生はアッバが心を込めてていねいにつくった作品――「神の作品」(エフェソ二・一〇)なのだという思いを深くしている〟と語っていたことが思い出されます(本誌六七号「風編集だより」山根氏の報告、またNHKラジオ深夜便「心の時代」〇四/九/一〇放送参照)。

そのとき井上神父が朗読したのは、喜寿記念の最新詩集『アッバ讃美』の最後に置かれた、次の「作品」でした。



「――高原のひととき――

かすかに/ひぐらしの声が/透明な風にのって聞こえてくる/静かな 静かな/高原の晩夏のたそがれどき//木々の緑とこもれ日がおりなす/アッバの造化の美しい営み//アッバ/のこされた短い私の人生に/あなたは何をお望みなのでしょう/小さな 小さな/〝私〟というあなたの作品の/死という完成のときを/あなたは/どのようなかたちで/しめくくってくださるおつもりなのでしょう//アッバ アッバ 南無アッバ」(一九一~一九二頁)



創造主アッバの「美しい営み」によってつくられた「作品」としての「私」が、「死という完成のとき」を静かな心で待っている――ここには、井上神父の美意識と本論第一部で述べた「人生の完成としての死」という思想がみごとに融合され表出しています。

ちなみに、右の「Q&A」を含め『キリスト教がよくわかる本』全文にわたって、既存のキリスト教では必ず「(原)罪」とセットになって出てくるであろう「贖罪」や「犠牲」という言葉が一回も使われていません。

そのかわりたとえばこの項では、「破壊された・・・・美をお互いの間に再建したのがイエスであり、その十字架の死なのだ」と表現しています。これは、この本の読者が主に未信者であるという配慮も当然あるでしょうが、それ以上に、旧約やヘレニズム世界を背景にもった「償い理論」や「贖い理論」を持ち出しても、そのままでは現代日本のわたしたちには受け入れがたい、という神父の考えが根底にある結果と思われます。

この点に関しても縷々述べてきたとおりですが、日本人の感性に根ざしたキリスト教を模索する井上神学を知るにあたって重要なポイントです。

私見になりますが、およそ「贖い」や「犠牲」といった表現を中心に語られる神学というのは、そこでどれほど「愛」を語っても、けっきょくは旧約的父性原理の強い「怒りと裁き」の神観が前提にあるのではないでしょうか。

それは「個の自覚と対立のヨーロッパ文化」のなかでは受け入れられても、母性社会日本のなかでは受け入れがたいものであるということ。井上神父自身、



「そのような父性原理の強い『怒りと裁きの神』についていけずに、テレーズの説いたような、母性原理の強い神を心の中で慕って・・・・その日本人の心情でイエスの福音をとらえないかぎり、それはあくまでも借りものの衣装であって、自分のたけに合わない着心地の悪いものでしかない。

そう考え・・・・『自分の血の中に流れているものでイエスの福音をとらえる』ということを生涯の課題としてきました。」
(『キリスト教がよくわかる本』まえがき)



と告白しています。そしてユダヤ教を超克してイエスが生命を賭けて説いたのが、「母性原理の強い神(観)」=「アッバ」であるという確信を得た今、日本人である「自分の血の中に流れているものでイエスの福音をとらえる」ことに、まさに成功したといえるのです。

 それは、誤解を恐れず遠藤周作氏流にいえば、日本人として「無理をしない信仰」ということでしょう。

井上神父がよく努力の人でありながら、その人となり、あるいは作品に触れると、不思議といつも、どこかに「軽み」を感じさせるのは、こうした自然体で「南無アッバ」を生きているからではないでしょうか。

 また、「美」と「テレーズ」といったとき、わたしには次の一文が想起されます。



 「私は、主がおつくりになった花はどれもみな美しく、ばらのかがやくような美しさも、ゆりの清らかな白さも、小さいすみれのかおりや、ひなげしのかわいらしいあどけなさを、そこなうものではないと悟りました・・・・。

また、もし小さい花がみなばらになりたいと思うならば、自然は、春のよそおいを失い、野山は、もう色とりどりの花にちりばめられなくなってしまうであろうと、悟ったのです。」
(ドン・ボスコ社『小さき聖テレジア自叙伝』一九頁)



 「すみれ」や「ひなげし」は、どんなに無理をしても「ばら」になることはできません。「ばら」や「ゆり」にしても、その「かがやくような美しさ」や「清らかな白さ」は、「すみれのかおり」や「ひなげしのかわいらしいあどけなさ」にかわることはできません。

しかしどの「花」も大自然の「春のよそおい」を告げるという点において、共通の命、役割を生きているのです。

この示唆に富んだテレーズの言葉をここでは、たとえば「ばら」をこれまで教会においてメジャーな〝西欧直輸入のキリスト教〟、「すみれ」や「ひなげし」など「小さい花」を〝各民族・文化においてとらえなおしたキリスト教〟、そして大自然の「春のよそおい」をイエスが告げた〝福音〟と、置き換えてみたらどうでしょうか。

もしわたしたちが、この広大無辺な福音の世界に今ひとつ、井上神父にならって日本人の心情でとらえた「南無アッバ」という「小さい花」を美しく咲かせることができるならば、「主が足もとをごらんになるとき、そのおん目をおよろこばせする」(同右)にちがいと思うのです。(つづく)
関連記事


category: 連載「井上神父の言葉に出会う」

tb: 0   cm: 0

コメント

コメントの投稿

Secret

トラックバック

トラックバックURL
→http://yohaku5.blog6.fc2.com/tb.php/643-014839d5
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

日本人にわかるキリスト教を求めて

南無アッバの集い&平田講座

求道詩歌誌「余白の風」

最後の南無アッバミサ

全記事表示リンク

リンク

検索フォーム

▲ Pagetop