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第2部(11)美しき花「南無アッバ」2.「罪」とは何か  

本論のはじめの方でわたしは、佐古・井上対談を引用し、井上神学は罪より苦しみの問題に重点が置かれていることを述べました。

そして牧師さんたちの「井上神学には十字架がないのではないか?」という疑問に対して神父の場合は、「十字架をイエスの共苦的姿勢――悲愛の頂点に位置するものと考えている」という見解を示しました(本論三)。

しかしだからといって、井上神父が罪の問題を軽視しているのではない、とも繰り返し付け加えてきたところです。

最近井上神学について、キリスト信仰を持って久しい(とくにプロテスタントの)方からよく聞かれ、また誤解を受けているようにも思える質問は、すでに述べた復活や十字架に関するもののほかに、「井上神父は贖罪を否定しているのではないか?」という類のものです。

これは本論で井上神学の特徴を鮮明にするために比較上、「罪より苦しみ」の解決を強調して書いてきたわたしの責任もあるかもしれませんが、たしかにキリスト教で「罪」の問題は避けて通れない重要事だと思います。そこでこの機会に、これまで先送りしてきた井上神学における「罪」について考えてみたいと思います。

まず念を押しておきたいことは、井上神父が「罪」を軽視していないのはもちろんのこと、「罪のゆるし」もけっして否定していないばかりか、堅く信じているということです。

いわずもがな井上神父はカトリック司祭であり、それは当然と言えば当然なのです。であれば問題は、その「罪」なり「ゆるし」なりを神父がどのように受けとめ、どう表現しているか、ということになるのだと思います。

こころみに『聖書思想事典』(三省堂)の「罪」という項目を開くと、



「聖書は、しばしば、否どの頁を開いても、罪と一般によばれるものにふれているといってよい。旧約聖書はこれをさすのに多くの用語を用いているが、・・・・罪が真になにを意味し、どれほど邪悪でどれほどの広がりを有するかを明らかにするのは、とくに救いの歴史である。」(六〇五頁)



として、「罪」概念の多様性を指摘し、旧約から新約まで一〇頁(四〇〇字詰原稿四〇枚以上)にわたって聖書を分析しています。

その過程で「過失・不正・反逆・不義・負債・・・・」など様々な意味が導き出されるわけですが、拙文第一部で「罪」と「苦しみ」のどちらから「救い」を受けとめるか、という「ニュアンスの置き方の違い」を問題にしたように、ここでも「罪」の中心概念をどこに置くかで、それからの「救いの表現」方向も大きく変わってくることでしょう。

「罪とは何ですか?」という質問に対して、井上神父は『キリスト教がよくわかる本』のなかで、ギリシア語〝ハマルティア〟の原義に触れながらまず端的に、



「キリスト教における罪とは、神との正しく美しい関係をこわしたり汚したりする行為ないしは状態を言う」(Q三八 傍線斜体=原文では傍点、以下引用部同様)



としています。そして『創世記』を引用し、



「人間が人間の与えられた場を忘れ、神のようになろうとすること――これがキリスト教でいう罪であり、神とその御手の中にある人との調和の美を破壊する、ある意味では唯一の根源的な罪」



なのだといい、さらに次のように述べます。



「(「原罪」に関わる「楽園喪失物語」では)それぞれが個とエゴイズムの殻の中に閉じこもり、真の平和の美を失ってしまったことを意味しています。この破壊された平和と連帯の美をお互いの間に再建したのがイエスであり、その十字架の死なのだとパウロはその手紙の中で述べています。・・・・

(複数形の「罪」の場合)いずれも結局はすべて隣人愛に背く行為なのであり、エゴイズムの殻の中に閉じこもってしまった結果起こってきたものであると言えます。」

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