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第2部(11)美しき花「南無アッバ」1.「復活」の前にあるもの  

さて今度は、井上神父がどのように「復活」を解釈しているかを、福音書にそってみていきたいと思います。

神父はすでに多くの著作をものしていますが、その神学の特徴が最も端的に現れているのが、復活論であると思うからです。

したがって少なくもその復活論をたどっていけば、神父の言わんとすることの中心、またこれまで概観してきた文学性ほかの様々な特徴が、さらに具体的に見えてくると思うのです。


「しかし、すでに述べたように宗教体験は深層意識に根ざしているもので、この復活の物語、あるいは復活したキリストの顕現物語も、やはり深い宗教体験がいわば象徴的に表現されています。

ですから、その象徴的表現のかなたにその出来事がかくされていて、実際に何が起こったかということを残念ながらわたしたちは正確にはつきとめることはできません。

その表現を通して推測していく以外にはないのです。

彼らが復活と呼んだその出来事の宗教体験こそが、いわばキリスト教の誕生であるともいえるので、ここでわたしはわたしなりにこの復活物語、復活者顕現物語を通して、いったい何が弟子たちに起こったかを推測してみたいと思います。」
(『福音書を読む旅』二五五~二五六頁 傍線平田、以下引用部同様)


井上神父は復活について、三次元的な蘇生という意味を否定しつつ、しかし即教義的な解釈に持ち込もうとはしません。

まず「実際に何が起こったか・・・・正確には」わからない復活「表現を通して推測していく」ことから始めます。

この「推測」の態度は、現代神学や心理学、ときには他宗教からの様々な学問的成果をも参考にするという点で、いわゆる逐語霊感的な原理主義とは異なります。

また、理性主義的論理的に所与の教会教義から説き起こそうとする<上からの神学>の態度とも異なります。

こうした柔軟な姿勢、あるいは<下からの神学>的姿勢がそもそも、人間の視点から真理にアプローチしようとする文学一般の態度に類比できるのです。

ただしその「推測」は、あくまで「わたしなり」のものであって、井上神父が自身の復活解釈を諸説のなかで客観的に最高のものであると主張しているわけではありません。

このことにも留意しておきたいと思います。

というのは、この「わたしなり」の「切実な思いのこもった顔・・・・心の琴線にふれる〝イエスの顔〟」(「風の家」趣意書)
――今の場合でいえば〝復活のイエスの顔〟を求めるという、きわめて実存的な態度は、神父の自説に対する謙虚さを示すということ以上に、やはり文学作品の創作・鑑賞と共通する姿勢だからです。



「こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。

彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。」(ルカ二四・三六~三七)



「エマオの旅人」に続く復活のイエス出現について『ルカ』のこの二節では、「彼ら」つまり弟子たちの「恐れおののき」は、直接的には「亡霊」に対する恐怖、という意味合いで書かれています。



「しかしここで弟子たちがいちばん恐れたことは何だろうかと推しはかってみますと、それは自分たちが完全に裏切り見捨ててしまった先生に出会ったということだったのではないかと思うのです。」
(前掲書二五八~二五九頁)



弟子たちの恐れの最大の原因は、亡霊を見るという超常体験そのものであるよりも、それが自分たちの「裏切り見捨ててしまった先生」イエスだったことにある、というのです。

そして、イエスの復活に出会うまでの「三日間」には、この裏切りや見捨てたことに対する「自己嫌悪、(イエスの怨み、怒り、復讐に対する)恐怖感、不安」などの入り交じった心理的な「暗黒」が象徴されていると、井上神父はいいます。



「特に一つ釜の飯を食べ、洞窟の中で一緒に雨つゆをしのぎながら、北ガリラヤでの逃避行を先生と共にした弟子たちが、最後にその先生を裏切ったわけですから、弟子たちとしてはもう先生に会わす顔がない、どうしても赦されるはずはない。

先生と出会ったときは、どれだけの仕打ちを受けるだろうか、どうしたらよいだろうかということは、十分考えていたことだと思います。」(同二六〇頁)



今わたしたちは、イエスの「復活」について考えているわけですが、右「一つ釜の飯を食べ・・・・」は、福音書全般にわたるイエスと弟子たちの交流を想起させます。

その果ての「裏切り」――ここには、第一部で述べたようにイエスの全生涯との関連のなかで復活や十字架を考察しようとする、井上神父の姿勢が見られます。

そして、弟子たちの復活体験の前提には、イエスを「裏切った」がゆえの「自己嫌悪、恐怖感、不安・・・・暗黒」さらに「会わす顔がない」「赦されるはずはない」といういわば後ろめたさ・罪悪感があるというのです。

これは説得力のある「推測」であると同時に、重要な指摘です。なぜならわたしにはこの辺りに、聖書が語る「罪」と井上神父の、ひいては日本人の「罪意識」とを結ぶ鍵があると思えるからです。

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怨み怨み(うらみ)とは、相手からひどい仕打ちを受け、機会あらば報復しようとする感情を指す。怨念(おんねん)ともいう。日本の幽霊は大概「怨めしや」との台詞で登場するし、漫画「魔太郎がくる!!」で「この怨み晴らさで置くべきか」が主人公少年の常套句になったのも、

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