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『俳句でキリスト教』自解・補足-p.14-  

--「求道俳句」という呼び名について--

当初、「キリスト教俳句」と呼んでいました。
実際、この本のもとになった「余白の風」(もと「層雲青年句会報」)での連載のタイトルは、「キリスト教俳句探訪」と銘打っていたのです。

それがどうして「求道俳句」になったのか?
連載を重ねていくうちに、取り上げたい句には必ずしも、キリスト信仰を明示するようなキーワードがあるとは限らない、ということに気がついたのです。
本書読者は、本文中に、そうことわりながら、いわばキリスト者として強引に読み解いているように思われる句があることに、気づかれるでしょう。なかには違和感を持つ方もいるかも知れません。

しかし、すでに書かれてしまったものが、どのように解釈されようと作者は、基本的に受け入れるほかない。もちろん反論はできますが、反論しなければわかってもらえない、というのは、作品として未熟なのだと思います。私などは反論より静観したほうがいい、と思っています。(それならお前は、なんでこんなところで、ごたくを並べているのだ!と叱られそうですが。。。)

これは文学の、作家の宿命で、しかし読者から見れば、それだけ文学の自由が保障されているということになるのではないでしょうか。

話を戻します。
「キリスト教俳句」→「求道俳句」への変化は、もう一つには、「求道」をキリスト教に限らず広い意味に使いたかった、ということがあります。
仏教の方では、「求道」と書いて「ぐどう」と読ませます。
その場合「求道者」は、どこかではっきりした線は引かれていません。どんなに偉いお坊さんになっても、一生「求道者」であることを、はばかりません。

それが、キリスト教の方にきて、驚いた。
一般に、受洗に達していない、いわばキリスト信仰志願者のことを「求道(きゅうどう)者」といっている。違和感がありました。
いつ、キリスト者は、「でき上がってしまったの?」と思います。
私は、洗礼を受けていようがいまいが、一生求道者でありたいと思います。
そういえば、キリスト教は最初、「主の道」とか「神の道」(使徒18章)、キリスト信者は、「道に従う者」(使徒9章)っていわれていたんですよね。

その上で、仏教や他の宗教を目指す人たちとも、俳句を通して真の生き方としての「道」を模索したい、交流したいと考えたのです。

日本人はそもそも「道」が好きです。茶道、華道、俳句道・・・・何でも道にしてしまう。でも、がむしゃらに道を求める、ってのは、ちょっとちがうように思います。
あくまで、「道楽」でありたい。なんせ俳句は、肩の力を、ふっと抜いたとき、はじめていいものができるから。この点は、本書「あとがき」に書いたとおりです。

こうして肩の力を抜いて、モノを突き放して観る(写生)、難しいことだけれど、自分すら突き放して観る、そういう俳句の求道性というのは、本文でも繰り返し述べているように、宗教の根本=自己相対化に通じるものだと思います。
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