「南無アッバ」を生きる ホーム » 連載「井上神父の言葉に出会う」 »第2部(16)実存をかけて聖書を読む1.「あれもこれも」型神学

第2部(16)実存をかけて聖書を読む1.「あれもこれも」型神学  

「風(プネウマ)」第74号2006年冬

ときに、わたしたちは福音書を読む場合、つい書かれた文字面だけを頼りに解釈しようとする傾向があります。しかし、聖書を含め古典というものは、現代書以上にその行間を読まなければ真意を汲み取ることはできない、真に味わうことはできないのではないかと思います。

俳句初心のころ、あるベテラン俳人から、「わたしは、小説も評論も書かれたものはすべて詩として受け取っている」と聞かされて、はっとしたことを思い出します。

詩と同じように散文も、表面的な言葉の意味以上に行間を味わうことこそ大切、と教えられたからです。


一方以前、ある評論家が、「クリスチャンは一般に聖書を深読みし過ぎるきらいがある」と揶揄していたのを聞いたことがあります。

また、ある著名な聖書学者からは直接、「あなたは自分自身の神学を持てばいい。

しかし神の言葉の自分への取り込みには注意しなさい」と言われたこともありました。これらの批判や助言は要するに、聖書を自分に都合のいいように解釈してはならない、という警告なのだと思います。


前号でわたしは「罪」意識をめぐって、「ものを知る」ということについて、「~について知る」=理性知と、「~を知る」=体験知とを対比させ、井上神父が後者を重視していることを述べました。

本文第二部の最初のテキストとして使っている『福音書を読む旅』の「あとがき」にも、次のように書かれています。


「私は聖書には、二通りの読み方があると思っている。

一つは「学者としての読み方」であり、いま一つは「求道者としての読み方」である。

 客観的要素を重んじ、できる限り主観性を取り除くことを理想とする学問的認識の分野においては、すなわち「学者としての読み方」においては、日本人とか欧米人とかいう違いは全くないし、またないはずである。

しかし、客体と主体との関わりにおいて物事をとらえていく体験的認識の分野では、すなわち「求道者としての読み方」となれば事情は変わってくる。

イエスの福音に関していえば、そこにはどうしても、その福音を生きる主体の在り方が大きく関係してくるからである。・・・・


「学者としての読み方」を大切にし、それをふまえながら、この書で私は、一日本人の「求道者としての読み方」を呈示してみたつもりである。」
(三三四~三三五頁)


聖書学的・文化史的背景を知る「学者としての読み方」が理性知に対応し、そのうえで「客体」である登場人物の心情を洞察しながら、常に「福音を生きる主体」である自分との「関わり」を考える、それが「求道者としての読み方」であり、これは体験知に対応することになります。


そしておよそ聖書において、理性・客観重視の「学者としての読み方」を貫くなら、けっきょく「ああとも言えるし、こうかもしれない」という<あれもこれも>といった網羅型の神学を提示するよりほかないように思います。

なぜなら、書かれた時期も、著者も、文化的背景も異なる聖書各巻を、少なくとも書かれた言葉の表層において矛盾なくつなぎ合わせることは不可能だからです。

このことは旧約各巻、旧約と新約、さらに各福音書間においても当てはまることです。

厳父の旧約とアッバの新約という、神観の決定的違いについては、井上神父も繰り返し強調していますが、新約二十七巻においても、それぞれの間に大きく、あるいは微妙に神観の違いがあることは、現代聖書学の常識となっています。


そうなると問題は、たとえ学問的にどんなに正しいとしても、そうした<あれもこれも>式の教科書的・網羅型神学に、わたしたちが生きた求道者として、はたして自身の実存をかけることができるだろうか、ということだと思います。

関連記事


category: 連載「井上神父の言葉に出会う」

thread: 聖書・キリスト教

janre: 学問・文化・芸術

tag: イエス,アッバ,聖書,キリスト教,キリスト,俳句,井上神父,平田栄一,井上洋治,
tb: 0   cm: 0

コメント

コメントの投稿

Secret

トラックバック

トラックバックURL
→http://yohaku5.blog6.fc2.com/tb.php/576-81d481ae
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

日本人にわかるキリスト教を求めて

南無アッバの集い&平田講座

求道詩歌誌「余白の風」

最後の南無アッバミサ

全記事表示リンク

リンク

検索フォーム

▲ Pagetop