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求道俳句会誌「余白の風」第129号  

正式版
求道俳句会誌「余白の風」第129号 

2006年12月号

Copyright © 2005 余白こと平田栄一, All rights reserved.

本誌(1990年創刊)サイトは俳句を中心として、日本人の心情でとらえたキリスト信仰を模索するための機関誌です。毎月発行しています。どなたでもご自由に投稿・感想をお寄せください。(採否主宰一任)

投稿先:掲示板 ホームページ「今を生きることば」




<目次>

主宰作品:平田栄一.. 1

アンソロジー・井上洋治神父の名言 1

求道詩歌会員作品591. 2


主宰作品:平田栄一
「層雲」巻頭5句に:06年11月号 大江欄 和久田選

煙草根元まで吸ってまだ出ない結論



軽い地震があって秋の通夜はじまる



短編ひとつ読み終えて聞く幸福な雨音



ようやく休めた週末の昼酒効いてくる



人を憚る夢を見た明けの明星



「層雲」06-12月号「大江」欄5句

秋の給湯室で聞くここだけの話

校舎の屋根から暮れて暮れ残る歓声

明日死のうと思う靴擦れが気になる

心定まらず風に嗤われる

ひねもす曇天の退学審議煮詰まる



「層雲自由律」にも5年ぶり復帰

86号 06年11月 蒼海集 自選6句



念仏が呪文になっていく秋風



粘る唾吐いて真昼の駅頭



縊死の下見に弁当もって出る



もらった本うしろから読む



サンダル履きで君が代うたってる



うす緑色のみどり児笑ってすぐ神様に呼ばれた



アンソロジー・井上洋治神父の名言
(1)体験的に知るということ

聖書、特に新約聖書が行為を要求する実践指導の書であり、私たちに永遠の生命への道を説きあかしてくれる書であるなら、一念発起してその教えに従おうと決意し、行為を起こさないかぎり、ほんとうの意味でイエスの教えをわかることはできないと思います。


(『日本とイエスの顔』第一章 ことばといのち)



処女作『日本とイエスの顔』において井上神父はまず、ものを「知る」方法として、「~について知る」という概念、言葉による知と、「~を知る」という体験的な知とを区別します。



そして、現代のわたしたちは前者=理性知に傾きすぎており、いまや、日本文化が長い間大切にしてきた「~を知る」体験知を思い出すべきである、といいます。



その上で、どんなに知識を蓄えても、そこへ向けて出発しようとしない限り、ほんとうの意味でものを知ることはできない、として右のように述べているのです。



(2)神の掌の中で泣く

ちょうど私たちが飛んでも泣いても笑っても、この大きな大地の外に出ることがないように、私たちは大地のように大きな暖かな神の掌の中で生き育っているのだというやすらぎと勇気と希望、それこそイエスが死を賭けて伝えようとしたものだと思います。


(『日本とイエスの顔』第二章 聖書を読むにあたって)



「聖書、特に新約聖書は、私たちひとりびとりの人生の旅路の指導となり支えとなるイエスの教えを受けとめた弟子たちの信仰宣言と語りかけの書」ではありますが、イエスの言葉を信じ、生きようとする者にとって、この世の哀しみや苦しみがなくなるわけではありません。



しかし、「表面は波立っていても、いつも湖の底が深い静けさをたたえているように、イエスの約束した歓びと平和と自由とは、もっと次元のちがった心の奥にひろがっていくものなのだ」というのです。



3 文化と結びつくキリスト教

最近はユダヤ教とキリスト教の連続性の面を強調する旧約学者が多いようですが、キリスト教の特色はその非連続性にあるのであり、そこを明らかにすることが特に日本のキリスト教にとってはたいせつなことと思われます。


(『日本とイエスの顔』第三章 イエスの生涯)



井上神父が最終的にたどり着く――神父自身の言葉では「流され着いた岸辺」としての〝アッバ神学〟へと向かう、最初の発想がこの、ユダヤ教とキリスト教、あるいは新約と旧約との「非連続性」にあります。



同章では、「(この)非連続性を見落とすことは、キリスト教を一つの民族宗教に堕さしめる危険がある」といい、また「文化と結びついていないキリスト教というものはかつて存在しなかったし、またこれからも存在しない」として、遠藤周作の著作『死海のほとり』と『イエスの生涯』を、「初めて深く日本の精神風土にキリスト教ががっちりと噛み合った、画期的な作品」と評価しています。



(4)神はアッバなり

イエスにとって神は何よりもアバ(父よ)と呼びうるかたでした。・・・・

そしてイエスにとってアバである神が、同じように私たちにとってもアバなのだということが、イエスが身をもって私たちに教えようとしたもっともたいせつなことの一つなのでした。


(『日本とイエスの顔』第四章 イエスの神・アバ(父よ))



井上神父は、ロシア(ギリシャ)正教などにヒントを得て、「神はこの絶対に対象とはなりえない何か、すなわち無においての己れをあらわすかた」なのだといい、さらに、その神は、イエスにとって、幼子が父親を、「アッバ」(お父ちゃん、パパ)と親しく呼ぶ、やさしい慈父のような方だったと喝破します。



のちに、「アッバ神学」とも呼ばれる神観が、このように、すでに処女作の前半から主張されています。


求道詩歌会員作品591


[584] 大阪です:いう
止まっていた時を進める十二月の帰国

ご無沙汰していました。今、大阪のホテルです。来週関東に入り、半月ほど滞在します。

[591] RE:栄一
おかえりなさいまし。
そう、この前帰国されたときから、町の時が止まってるようでしょ。
また、わずかな期間だったはずなのに、懐かしかったりして。。。不思議ですね。

終わりが始まり?:まごころ
十字架を 感じて観たら振出しに

解ったつもりが 何も解って居ませんでした。[5]

Re:栄一
具体的な意味は、わかりかねますが、信仰のことは、自分で納得したつもりで、翌日は元の木阿弥ということが、よくありますね。[18]

絵手紙投句:末子(ハガキ)


[6]

Re:栄一
まさに、食欲の湧くような、鮮やかな色彩ですね。
いつも、おはがきありがとうございます。[17]

これからもよろしく:白雲子(原稿)
空のしずかさ いのってくれている

そらのあおさがいのりをためている

一日 空の祈りの中

平田さんが、層雲自由律に復帰してくれたことは、何よりの力となります。[7]

Re:栄一
お体、きついのではないかと、心配しています。
どうぞ、ご無理せず。

層雲では、出戻り組になりますが、句作そのものを楽しんでいきたいと思います。
こちらこそ、よろしくー♪ [16]

前略:淡丘(原稿)
中州まで泡立草ぞ自ら

コスモスや一元論のほどのよさ

石蕗の花牢をするりと聖パウロ

寒菊に口寄せてみる夜の匂ひ

花野きて立札の人ありにけり

長年に亘り、私淑してきました俳人、故小川双々子の一周忌を前に、隠れたる才徳「小川双々子油彩遺作展」が、先般、名古屋市の画廊でひっそりと行われました。

敬虔なカトリック信者である師のまなざしが、随所に表れ、その中の小品「パウロの回心」とおぼしき傑作を、格安の値段で譲っていただき、拙宅の書斎に飾り、一人悦に入っているところです。

パウロが頭に手を翳したその白っぽい大きな手が、特に印象深く描かれ、その他は、まさに「余白」。
生きとし生けるものの余白の力が、そこにあるのです。
・・・・
井上洋治神父ではありませんが、俳句の世界にも、「余白」を心して書かねば、と昨今つくづく想う次第です。[8]

Re:栄一
はい。
その「余白」を無理して書こうとして、失敗してしまうことも、俳句ではしばしば。
心したいものです。

淡丘さんの句と文が、双々子師への思いをうまく伝えていますね。[15]

小道:末子(原稿)
左手には古やしろ
続いて竹が弧を描く
右手は雑木林です
枯葉踏む音響いてる
頭付け合う猫二匹

友と別れてもう一度
通れば猫は寄り添って
風はさやさや抜けて行く
誰も通らぬ午後の道
不思議な小道を歩いてる

三日経っても忘られぬ
あの小道には誰か居る
姿見せない何かある
そっとつつむ恥らいと
「又、いらっしゃい」の囁きが
[13]

Re:栄一
なぜか、トトロを思い出しました。
見えないものの、不思議な暖かさ、といったものが、どこかにあるのでしょうね。
メルヘンチック&宗教的な詩です。

[578] 菊花展:末子(原稿)
小春の日小田原城へ二年ぶり

大輪より小菊好みの夫の笑み

洋菊のまろめる姿愛らしく

懸崖の白菊眺むる夫を見る

菊花展入選作に人集ふ

一頭の象の小屋にも冬日和

落葉踏む杖つく夫の疲れ見ゆ

五十年ぶりに夫婦で写真屋へ行く。
乗せ上手な店主と奥方に、数枚撮って貰う。
手を結んでポーズ。
付かず離れずのポーズ。

撮り終わって二人の心は、とても弾んだ。
小田原に向う電車の中で、二人の歩みを振り返った。

苦しいこと、辛いこと、嬉しかった日、心臓が飛び出しそうな日もあった。
今の幸せの日々を感謝すると同時に、多くの道を歩ませて、支えてくださった方の御恩寵に、胸迫るものがある。

生きて来て良かった。
穏かな日々を、大切に送らせて戴きます。

Re:栄一
年輪を重ねたご夫婦の歩みが想われます。
若輩の私などは、まだまだまねできませんが、夫婦共々、最後は感謝をもって、人生を閉じられたら、ホント、それ以上の幸福はないでしょう。

感謝の心、信頼の心が大切なのですね。

[576]:つぼみ
落ち葉道礼拝にゆく心道

紅葉は心和ます愛の色

リハビリは生きる証をつれてくる

[577] RE:栄一
季節の移り変わりとともに、私たちの生活も信仰も、深められますように。

[571] 通学路:末子(原稿)
一列に学童急ぐ初時雨

山茶花の数増す道を子らの行く

傘差してうつむく女児や石蕗の花

下校児のおおらかな声帰り花

「じゃ、またね」言わぬ児童の踏む落ち葉

立冬の朝です。毎朝児童を眺めています。
大声で話す子、聞き役に徹する子、三階の母親に手を振る団地の子、ぐんと大きくなった一年生、中学生に見える高学年の男子、顔立ちの整った五年生、団地の子は夕暮れ近く迄ドッジボールで遊びます。

買い物帰りには、その真剣な顔を笑顔で眺めます。
子供の将来を案じる事柄は多いけれど、力一杯生きていって欲しいと願わずにはいられません。

神様どうぞ、子供たちをよろしくお願いいたします。

[575] RE:栄一
子供は宝だと、だれもがわかっていて、うまく育てられない現代の病理があるように思います。

遊び場がなかったり、人工的で自然がなかったり。。。目先の偏差値や形式的な平等意識に振り回されたり。。。

南無アッバの心を思い起こしたいものです。

[572] ひかり:つぼみ
私が、一歩歩くと 足元にはちゃんと光が当たる、

見えるように どぶに落ちないように、つまずかないように

私が2歩歩くと足元は明るい

私の心も明るいように

私が3歩歩くと

もう心配ないよ何所からか聞える

私が4歩歩くと

自信を持って歩きなさい強い声でいわれてしまったー

[574] RE:栄一
一歩歩けば、一歩分の光がいただける。
二歩、三歩、、、と毎日、少しずつ増やしていく。
やがて、光が満ち溢れていく。。。
希望に満ちたうたですね。

[569] 卵と御心:まごころ
調理本 長女の心に南無アッバ

父子家庭の我が家。約半月間「仕事が忙しい」の理由で毎日お弁当。今日長女(小学生)が「図書室で借りた本を見ながら作ったよ。」 と・・お小遣いで買った(1パックの)卵料理が食卓に並んで居ました。「忙しい」との私は 愚かでした。子供の心に 大切な何かを思い知らされました。俳句は難しいですね。この様に状況を補足しないと伝えられない初心者ですから添削等頂けるとありがたいです。ちなみに・・卵残り4個。明日はゆで卵と卵チャーハンと張り切って居ます。主の御心ならば 「お与え下さい。」・・・・日々 求道です。

[570] RE:栄一
やさしいお嬢さんをお持ちで、いいですね。
私のところは、女の子がいないので、娘が作ってくれる料理、ってのにあこがれてしまいます(笑)

さて、添削の件ですが、大兄の句はこれはこれでいいと思うのですが、たしかに、解説されないと状況はわかりにくいです。
それは、俳句形式の場合、ある程度仕方ないことです。
しかし、それは諦めというより、むしろ全部詠わないというところに、俳句の面白さがある、と捉えます。
解釈は作者半分、読者半分ということです。

しかし、もっと情景を詠いたい、というときには、2つの方法があると考えます。
連作と自由律(長律)化ということです。
以下、この方法で、勝手に状況を想像して、試作してみました。

母のいない子と秋の食卓囲んでいる   栄一

小遣いで買った卵を今日は茹でてくれた

本見て作った夕餉が父を待つ娘で

[573] RE:まごころ
栄一さま レスが遅くなりました・・ありがとうございます。初心者ですので 日々・・学びです。
形(形式)に拘らない中での大切な何かがあるのでしょうか。ありがとうございます。

[562] 秋:彰夫
旅人はススキの道を更ける夜

虫の音に暖簾がゆれる草書体

振り返る足跡がある月を背に

[564] RE:栄一
秋の風情たっぷりですね。

自由律の句もいただけたら有難いです。

[566] 今日の三句:彰夫
♪ カウンターにこぼした酒で男と書く

♪ 食べられるオスでいる虫激しく鳴く

♪ 肩ゆする男の背のしぼんだ落葉道 

[568] RE:栄一
さっそくに、ありがとうございます。
ちょうどいま『濹東綺譚』をワイド版岩波文庫で読み返していたところでして、情緒がピッタシという感じです。

[560] 昔の日・・今日を思う!:まごころ
カリエスの 秋の世永し 南無アッバ

その昔この日の夜 正岡子規さんは何を思ったのだろうか?
僕の住む街は 子規さんこと 「のぼさん」の故郷です。ふと・・・思った今日の日です。

[563] RE:栄一
私の父は、シベリア抑留以来のカリエスで、ずいぶん寝込んでいました。

たしか、三浦綾子さんもそうでしたね。

骨を丈夫にしたいという一心で、母が毎日煮干を食べさせたそうです。

そのためかどうか、有難いことに、私の爪は、昔からすっごく伸びやすいです。

[567] RE:まごころ
何も知らない僕でした(涙)

最後の一行に・・「南無アッバ」と祈り懺悔します。

[561] 冬の前に:いう
雨のよに雪のよに今日紅葉舞う

観測史上最も早い初雪を迎えたミシガン州。今年は紅葉を楽しむ期間が短かくて残念。道沿いに植えられた楓や樫の木の葉が「今日までに落ちないといけないんです」と言いながらはらはらと風に舞っていました。

[565] RE:栄一
「よ」を「夜」として557定型。
「よ」を「ように」として、

>雨のように雪のように今日紅葉舞う

と、直すと、667自由律。
句意としては、後者のような気がします。

[557]:末子(原稿)
秋日ざし忘れ物して二往復

赤とんぼつがいで渡る河川敷

バーベキュー笑い続いて食の秋

晩秋の虫の音細く聖書読む

暮の秋互いに耐えて五十年

「余白の風」の皆様、お健やかに過ごされていますか。
カレンダーも、残り2枚になりました。

1年の早さを、つくづく感じます。
主の憐れみの中を、一歩一歩導かれて居ります。

今日生きている仕合わせ、生かされている仕合わせ、
自分の身中で天を仰ぎつつ進める歩みを、大切にしたいと願って居ります。

皆様への、主の御恵みを心から祈って居ります。

[559] RE:栄一
ずっと読んでくると、最後の「耐えて」の句が、なんとなく微笑ましく思えるのは、他人の無責任かもしれませんが。

俳句や短歌にまとめると、自分を離れて物事を見れる効用があるように思います。

暖かいメッセージもありがとうございます。

[556]:白雲子(原稿)
いつもここで立ち止まって飲む缶コーヒーの空の色

トンボとひなたぼっこ ねむってしまう

少し落ち込んで、また元気になりつつあります。
南無アッバ

[558] RE:栄一
落ち込んだときは、焦って這い上がろうとせず、谷底からの眺めを、楽しんでしまうくらいの気持ちでいましょう。

十分に充電してから、ゆっくり這い出る。。。
---アッバ、アッバ、南無アッバ!---

[552]『人はなぜ生きる』を読んで Name:俊
苦も壁も 主が示す 我が人生

P15にこの様なことが書いてありました。
『私たちの人生と言うのは、・・・(中略)・・・神が、私たちの生涯において己自身を表現されるものだ』

これを読んで、あのヨハネによる福音書9章1-3節
『さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。』
の理解に変化が生じました。感謝。

[554] RE:栄一
はい。わたしも、この井上神父がよく言うことと、「ヨハネ」の9章は関連が深いと思っています。

そして、「エフェソ」2:10「私たちは神の作品」という発想につながりますね。
この箇所も神父はよく言及するところです。
あちらが主で、こちらが従ということ。

[555] RE:俊
聖書を引用するとしますと、箴言3章5、6節ですね。
それと、ルカによる福音書12章30、31節ですね。


後記:今年もたくさんのご投稿ありがとうございました。
皆様には、恵み深いクリスマス・新年をお迎えくださいますように、お祈り申し上げます。

ひきつづき、来年も皆様の健吟とご多幸をお祈りいたします。 主宰:栄一

投稿先:掲示板





心の琴線に触れるイエス

・井上神父の言葉に出会う△聖母文庫より近日発売

!定価

500円+税







回にわたって風プネウマ誌に連載してきた井上神父の言葉に出会う第1部に大幅に加筆



訂正し

 

まとめなおしました



井上神学として最初となる格好の入門書



出現

 ぜひお読みください

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