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罪とは不信(頼)  

年間第32主日 B年

集会祈願に、今日のテーマが示される、曰く、
あなた(アッバ)により頼む者のひたむきな心(で)・・・・日々の生活をささげることができますように。

第1朗読旧約、列王記(上17章)では、わずかなものを先にエリヤに差し出すやもめの行為が報われる話が読まれる。

これに答える詩篇146番は、貧しい人への救いが賛美される。

第2朗読ヘブル書9章では、キリストがご自分の身をささげ、人々の罪からの解放と救いの業が語られる。

そして、御言葉の祭儀の頂点、福音朗読は、マルコによる福音書12章、
貧しい「やもめの献金」を律法学者との対比で、イエスが賞賛する話へと、続く。

以上、今日の主日のテーマは、「ささげる」という一事で貫かれていることがわかる。

福音中、律法学者は、傍目に目立つこと、持ち上げられること、上に立つこと、貧しい人を食い物にすること、見せかけることなどの理由で、イエスに非難される。

一方やもめは、有り余るものからでなく、わずかな持ち物「すべて、生活費を全部」をささげたことが賞賛される。

貪欲な律法学者V.S.全てをささげるやもめ、という構図が対比される。

この話はよく、教会への献金問題に矮小化されてしまう危険がある。
しかしもし、生活費のすべてをささげよ、という話であるなら、これほど無責任な話はなかろう。

今日明日の「生活費の全部」をなげうったやもめは、どう生きていけるのか、ということが問われていないからである。

むしろ本来の趣旨は、貪欲な自己を脱せられない律法学者と、「生活費の全部を入れた」行為に象徴される、やもめのアッバへの全幅の信頼、というの対比が主張されている。

すなわち、律法学者=自己中心性V.S.やもめ=自我相対化という対比。

この意味では、エゴイズム=罪の問題を取り扱っている、といってよい。

拝領祈願は、あなたにすべてをゆだね、力強く生きることができますように、と結ばれる。

最初の集会祈願で、「日々の生活をささげる」ことが祈られ、最後にアッバに「すべてをゆだねる」という信頼が祈られる。

すなわち奉献=信頼=義であり、信頼できない=不信(頼)=エゴイズム=罪となる。


結語
「この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた」(マルコによる福音書12:43より)
わたしたちは、苦しみ、惨めさ、不甲斐なさ、退屈・・・・どんな生涯にあっても、南無アッバと祈れるかが問われています。
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