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日本人にわかるキリスト教を求めて

26May2012+011_convert_20120623181132_20120623222548.jpg井上洋治神父は、遠藤周作氏と共に、日本人の感性で正直に受けとめられるキリスト教を一生をかけて模索し、1986年「風の家」をはじめました。このサイトでは、「風の家」運動を引き継ぐ平田栄一が「求道俳句」ほか、日本人キリスト者の道を模索する試みを紹介していきます。お問い合わせ 略歴 著書

俳句は祈り  

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平田栄一著『俳句でキリスト教
サンパウロ、2005年6月新刊)

楽しみながら、自然に祈りへと誘う「求道俳句」の世界。

さまざまな俳句作品を、日本人キリスト者として読み解きながら、
本当に大切なものは何か、今をどう生きるか、
どう祈るかを模索した、
日本人とキリスト教を同時に生きるためのエッセイ集。

俳句またキリスト教のちょっと変わった
入門書としてもお読みいただけます。


「句作を自らの求道形式とし、
また祈りとして実践してきた著者。
日本人キリスト者たちが自らの信仰体験を
どのように俳句に詠み込んでいるかを、
春夏秋冬、多くの作品を取り上げて読み解く。
俳句を語る中にカトリックである著者自身の
聖書理解と深い信仰が伺われ、教えられる。」
(六甲カトリック教会図書室)

ハードカバーB6版270頁、本体価格1600円+税。

<まえがきから>
わたしは、句作を自らの求道形式、祈りととらえて実践してきました。
と同時に、「俳句」という最短詩型に、過去・現在の日本人キリスト者が自分たちの信仰体験をどう詠み込んでいるか、また、わたし自身キリスト者として俳句一般をどう読むか、にも関心をもつようになったのでした。

奇しくもそれは、「日本人とキリスト教」という、故遠藤周作氏が文学において、また井上洋治神父が神学において追い求めてきたテーマに直結することでした。
そして俳句によってこのテーマを追求することが、わたしのライフワークと考えるようになったのです。

キリスト信仰の立場から、俳句によって触発された求道的エッセイとして、気楽に読んでいただければと思います。
俳句やキリスト教について初心の方にもお読みいただけるように、できるだけかみくだいて書いたつもりです。

俳句からキリスト教へ、あるいはキリスト教から俳句へ、心の旅をごいっしょしましょう。


作品採録俳人一覧

category: ○著書

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コメント

やわらかな感性

栄光在天
ご著書『俳句でキリスト教』早速拝読させて頂きました。
まず読後感として、貴兄のやわらかい感性に感銘を受けました。
一つの俳句を読み解く楽しさを学ばせて頂きました。

私個人としては、中村草田男の、

  勇気こそ地の塩なれや梅真白

最も強い文学的インパクトを受けました。塩の白さと梅の白さが連動して、寒さの中、死を考え、また死を超えていく勇気を教え子の学生に喚起させ、手向けの言葉とした草田男の心に強く共鳴しました。

また遠藤(若狭男)氏の、

  風花を神の声かと仰ぎたる

にも共感しました。昔イスラエルの大祭司は、サイコロの目の出方で神の声を聞いたと、ある書物で読んだ記憶があります。さいころの目の出方を神の声とする考えは、昔の人々が自分で判断がつかない時、さまざまな手段を使って天命を聞こうとしたことに共通する考えだと思います。
ソクラテスもダイモーンの声を聞くために、突然立ち止まり、しばらく動かず、心の中で己の魂と対話したといいます。ふっとダイモーンの声をソクラテスは聞いたのでしょう。

私たちも心静かに耳を傾けると、一つの花、一陣の風を通して、神のみ心を聞くことができると思います。
自分の独創と思ったことすべて、上から与えられたものと感じたから、inspiration(霊感)つまりspirit(霊)が中に入る(in)という言葉が生まれたと、実感しています。

与えられたものをどのように受けとめるか。あの福音書に記された10人のハンセン病の人が癒されたが、戻ってきたのはサマリア人一人であったという箇所。
私は、信仰とは自分が癒されたことを自覚し、感謝することだと考えています。

全ての人は神様の恵みに浴している。その恵みを覚えることが信仰だと思います。
長田等氏の、

  踏青やキリストはいつも素足

の気持ちをもって、一人一人の人とかかわっていきたいと思っています。

最後の方の上州趙州の「喫茶去」に関する貴兄の解釈、よく要点をとらえていて説得力があります。私も悩みごとの相談を受けた時、その人に一杯のお茶を味わうことをすすめます。
一杯のお茶を味わうことは、問題自体を直接解決しませんが、ヒントを与えてくれるはずと信じるからです。

終わりにカットの字、味わいがありました。短くも拙い感想ですが、まずは一筆お礼申し上げます。
2005年6月20日
平田栄一様
                     土屋博政
(編集注:つちや ひろまさ=慶應義塾大学経済学部教授)

土屋博政 #oBO5MkqQ | URL
2005/06/24 09:32 | edit

†主の平和、天に栄光

余白さん、お久しぶりです~(って忘れられてるかも;;)
お元気そうで何よりです。

新刊のお知らせメール、拝受しました。
教会の売店を探してみようと思います。


それではまた!お元気で

うりぼう #XFFAm6V. | URL
2005/06/24 20:32 | edit

南無アッバ

本を読ませていただいています。
俳句は読む側にひきよせて、深く味わうことができるのですね。

句評には、井上神学、余白さんの実体験がこめられていて、俳句から広がる余白さんの福音体験、キリスト教へののびやかな賛歌を楽しませていただきています。

極限までそぎ落とした短い五・七・五の文字が、これほど豊かな世界へいざなってくれることに、驚いています。

掲句の選び方もかたよらず、幅広く余白さんのセンスが光っています。『福音歳時記』も読んでみたいです。

  なんとなく無宗教ですバラの刺

自分の中にもあるもどかしさをこんな形で表現された作者に脱帽です。

  バプテスマを受けしを秘めて更衣

私自身もそうでした。身にしみます。
どの句も句評も、わかりやすいキリスト教入門書にもなっていますね。

折々に読み返したい本です。
素晴らしい本をありがとうございました。
-------------------
「俳句でキリスト教」を2度目に読み終わりました。(^^)
俳句は読む側に,引き寄せて味わうことができるものなのですね。
俳句に疎いさるすべりでも、揚句を通して、余白さんの穏やかでのびのびしたキリスト賛歌が伝わってきます.聖書をあまり読まないさるすべりは、聖書を引用した句の解説で聖書を学ぶこともできました。
余白さんが、「風」に連載中の「井上神父の言葉に出会う」よりも、ずっと身近で分かりやすく、井上神学,日本人の心情でとらえたキリスト教を伝えているようです。
俳句を素材にした読みやすいキリスト教入門書だと思いました。(2005.06.29)

小さき花 #oBO5MkqQ | URL
2005/06/25 09:22 | edit

ご無沙汰してます

お知らせメールありがとうございます。

南無アッパの御ミサにも中々与れず、信仰への思いも停滞状態にいたところへお知らせメールを頂いたこと、感謝いたします。

新刊発行を知り、4年前長崎旅行の折、初めて余白さんの「やわらかな生き方」を手にした時に感じた安堵感のような感覚がよみがえりました。

”サイン入り”がほしいの改めてメールさせて頂きます^^
又、新たな気持ちでキリスト教と触れることができそうで、とても楽しみです。

弥生 #- | URL
2005/06/26 02:19 | edit

いい刺激

「俳句でキリスト教」この本のおかげで、久しぶりに俳句の世界をのぞくことができました。

もっともネット上で、余白さんはじめ、いうさんやそのほかの方々の俳句もちょいちょい味わってはいましたが、俳句だけがポンと投げ出されるのでなく、そこ
に鑑賞の手引きとなるエッセイが添えてあることで、一つ一つの句を丁寧に味わうことができ、俳句を楽しむ満足感を感じられたことがぼくにとって嬉しい点でした。

もうひとつ、この本はやはり信仰の本であるということ、そして信仰の本というのは、ぼくは基本的にあまり好きではないのです。
だいたい、読んでいて苛々するか、鬱陶しくなるか――まあひと言でいえば「うぜえ」と思ってしまうことが多いのです。
ところがこの本に関しては、そんなことはまるでなく、とても安心して読み進めることができました。
書いてあることに信頼がおける、そういう安心感です(何箇所か、耳に痛いところもありましたが)。
俳句の読みだけでなく、聖書の読みにも思わず膝を打つようなところが少なからずありました。

「一たす一は二のはずだ、という人間の思いこみや傲慢を捨て、自らの実存のなかで神に人生をゆだねること、『ヨブ記』はそう教えているのではないでしょうか」(P35)

・・・・実際、「善人がなぜ苦しむのか?」という問いに、なんの回答もねーじゃねえか、とぼくは今までずいぶん不満でした。

「非キリスト者である相手の心情を思いやるちょっとしたキリスト者の言動こそが、日本人のキリスト教に対する理解を、ひいては宣教の成果を左右する」(P122)

・・・・仏壇に手をあわせ、お線香をあげて行ったフランス人神父さん。うちの奥さんもこのくらい融通がきいたらなあ。焼香は偶像崇拝だと言われてしまいましたよ(笑)

「神の国はこの世の日常のただなかにおいてこそ実現していく」(P124)

・・・・ICFのBBSにぼくがはじめて書き込んだ内容は「救いとは何ですか?」でした。
みんないろいろな答えを示してくれましたが、自分の置かれた状況によって救いの内容は異なるのだと、あとで自分で気がつきました。
死んで「あの世」に行けるというだけでは、正直いってあんまりあり難くなかったので。

「しかし『木の枝』が勝利の印であっても、同時にイエスの平和の印である『ろば』に乗って入場したのです」(P142)

・・・・そういえば、ここに奇妙なコントラストがあったのですね。全然気がつきませんでした。

「しかし、いつの間にかその手段が目的化し、義務化し、ミサへの形式的な出席の有無で自他を裁いてしまう。それでは本末転倒ということになります」(P184)

・・・・最近このことで悩み相談を受けたばかりでした。

「神の声は、激しい風や地震や火などに象徴される非常事態、熱狂のなかにではなく、むしろ平凡な、ありふれた日常に耳を澄ますとき、『静かにささやく』ような『耳の底なる囀り』として聞こえてくるものなのだ、と教えているのではないでしょうか」(P213)

・・・・神の人エリヤが神の声を聞く、ぼくの大好きなシーンです。
でもそこにこんな解釈をして読んだことはありませんでした。
神は興奮よりも沈黙の中にこそ見出すべきだ、とはぼくの持論でもありますが。

「さらにそれが、伝道者のわきまえ、道を求める者同士の思いやりのようなものへと発展していく。そこにわたしたちは直感的に清々しさを感じるのではないでしょうか」(P253)

・・・・妻がカルト救出活動に関心が高いため、ぼくも何となく関心を持ってしまうのですが、そうすると、どうしても「おまえが間違っていておれが正しいんだ」という議論になってしまう。
お辞儀して去った行者の霊性を見習いたいものです。

あと、印象に深かったのは、

  ジングルベル早いリズムで暮れてゆく街   住宅顕信

での余白さんの文章。
ほかではとても落ち着いている余白さんの筆使いが、ここだけは少々違っているように読めました。
ほかより感情が強く入っているといいましょうか、うまく表現できませんけど、そんな風に感じました。

もうひとつ、

  クリストの齢なるこそ女に觸れぬ我身こそ   海藤抱壺

を解説するのに、「結語の『こそ』にその心持ちがにじみ出ています」と書いてあったところ。
ああ、そこの部分をわかってくれてありがとう、となぜかお礼を言いたい気持ちになりました。
なんでぼくがお礼を言うのか、自分でもよくわかりま
せんが。

共感した部分、気に入った俳句など、書き出せばもっともっとあるのですが・・・・。

とても楽しい読書となりました。
叱られるかもしれませんが、本を予約したとき、こんなに心に深く触れてくる本だなんて思っていませんでした。
余白さんにはお世話になっているから、というくらい
の気持ちでした。とんでもありませんでしたね、すっかり感服しました。脱帽です。
さっそく、妻と二人での聖書会(たいてい金曜日にやります)でも使わせていただきました。

とてもいい刺激になりました。あらためて、お礼申し上げます。

もず #oBO5MkqQ | URL
2005/06/26 12:46 | edit

すずやかにして心あたたか

≪この本に出会えて本当によかった・・≫ ネット上で見慣れた装丁の美しい本を実際に手に取り、平田さんの”集大成”をじっくりじっくり味わい、感じながら読み終えた後の感想です。。。
”こころの旅”を一緒にしていただいているあいだじゅう、涼風が心の中を清々しくしてくれ、またどこか胸の奥深いところにあるツボみたいなところが温かくなっていくのを感じて旅を終えました。そしてその思いはずうーと静かに燃え続けてくれています。

それはやはり掲句がキリスト教を詠んだものであり、平田さんがそれぞれの句を深いながらも分かりやすい言葉でガイドして下さり(時に句の作者が意図する以上に?)、句のあとにご自分の感想を述べるその言葉と眼差しがとても優しく感じ見えたのは、神へ全幅の信頼を置くところから醸し出されて来ているのだと納得いたしました。
 
平田さんとは性別、年齢、性格、カト&プロ、環境・・その他諸々違い過ぎるほど違うのですが、今こうしてご著書に感動し、キーを叩いているのも、唯一つ同じ御方をキリストと認め、三位一体の神様を仰いでいるからに他ならないのですね。そう思うと平田さんとの出会いも、感謝でいっぱいの気持ちになります。

『俳句でキリスト教』は俳句の読みの面白さ(例えばどこで切って読むかなど)と、そのあとの聖書の箇所から引用した”落ち着いた雰囲気”の語りかけるような感じの説明など、暖かくて説得力があり、それでいながら押し付けがましさなどがまるでなく、とっても感じの良い本でした。これからも折にふれ、幾度となく紐解く本となることでしょう。

この本を書かれたこと、まことに嬉しく思います。
と同時に俳句やキリスト教に多少の興味のある方、のみならず ”人生という旅”の真っ只中で模索している方など、、沢山の方々に読んでいただきたいと心より願います。小さくはあっても”旅”に出た時のような心の解放感や安らぎがきっと与えられ、また自分の足元を見直す機会にもなる本、と信じられますので・・・。 
  
  ありがとうございました。
 

※ このホームページでは「余白」さんと書くべきでしょうが、20年前初めてお会いした当時の、青年そのままの「平田さん」をイメージし、家でもそう呼んで夫や子供に話していますので、やはり呼び慣れたお名前にさせていただきました。            ごめんなさい。


 


マルコ #MI90ei/o | URL
2005/07/13 18:47 | edit

図書室の本棚から新着図書

「俳句でキリスト教」
平田栄一著
サンパウロ
句作を自らの求道形式とし、また祈りとして実践してきた著者。日本人キリスト者たちが自らの信仰体験をどのように俳句に詠み込んでいるかを、春夏秋冬、多くの作品を取り上げて読み解く。俳句を語る中にカトリックである著者自身の聖書理解と深い信仰が伺われ、教えられる。

六甲カトリック教会サイトより #oBO5MkqQ | URL
2005/10/14 23:02 | edit

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