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日本人の心に根ざすキリストの道を求めて  

平田栄一著『俳句でキリスト教-求道俳句をめぐる心の旅』書評:山根道公

俳句でキリスト教」という本書の題は実にユニークである。

例えば西洋美術で或いは西洋音楽でキリスト教というのであれば珍しくない。

しかし、西洋文化とは対極の最も日本的感性に根ざした日本の伝統的文芸を代表する俳句でキリスト教を語るという点に、本書の他に類を見ない特色がある。


本書は、著者の主宰誌「余白の風」をはじめ、「豈」「紫」「層雲自由律」などの俳誌に発表した句評を、聖書、神、マリア、イエス、使徒、天国、十字架、復活、教会、祈り、信頼、日本人とキリスト教といった項目にまとめ、加筆したものである。

中村草田男ほか有名無名の九十余句の俳句をとりあげ、その句評によってそこにあらわれた日本的感性とキリスト教との関わりを探る本書は、句評の域を越えて、カトリック俳人としてキリストの道を求める著者の生の軌跡が言葉となった求道エッセイである。


著者は、すでに四冊の詩的短文によるエッセイ集を刊行しており、処女エッセイ集『今を生きることば』には、三浦綾子が「常に祈り、聖書に聴く姿勢から生み出された珠玉の人生観!凝縮された思索!より深く生を生きる道が、ここにさやかに示されている」との言葉を贈るほどの、求道精神に裏打されたエッセイストでもある。

この魅力は本書にも遺憾なく発揮されていよう。


ところで、著者は自身が
「俳句に接したときの無条件の和みと、キリスト教に対する構え、この対照的な感覚はどこからくるのか、わからないままに『聖書』と『山頭火句集』を交互に読み、また祈る気持ちで自らも実作するようになりました。

……欧米的キリスト教を無意識に第一と思い込んでいた自分に問題があることに、ようやく気づくようになった」(「『俳句でキリスト教』出版にあたって」『風』七〇号)

と語っているが、この俳句的感覚とキリスト教との距離感への問題意識は、遠藤周作が文学において、井上洋治神父が神学において追求してきた「日本人とキリスト教」というテーマと直結するもので、それに気づいた著者は「はじめに」の中で「俳句によってこのテーマを追求することが、わたしのライフワークと考えるようになった」と述べている。


私は以前、キリスト教詩人八木重吉の詩について、人間と自然を峻別するキリスト教世界からはみ出しているとの批判に対して、井上神学に教えられ、八木重吉の詩を、西洋キリスト教の世界からはみ出しているのであって、日本人の心に根ざしたキリストの道を自ずと生きている姿だと論じた。

遠藤も、自分の書く作品が従来の神学に背くことに負い目を感じていたのが、井上神父の著書の神学的理論が自分の作品の裏付けとなることで、強い支えとなったと語っている。

本書の著者も、井上神父主宰の「風の家」の機関誌『風』に「井上神父の言葉に出会う」と題した連載をするほどに井上神学を深く吸収しており、その結実が日本人の心に根ざすキリストの道を、俳句で語る本書である。


西洋キリスト教との距離感に苦悩してフランスから帰国した遠藤と井上神父が、日本人の心に根ざしたキリスト教の開拓をめざし、自分たちは次世代の踏石となろうと決意を語り、共に歩んで半世紀、遠藤と井上神父が願ったように、二人が切り拓き、置いた踏石を確かに踏みしめ、日本人の心に根ざすキリストの道を求めて旅する者の姿が本書には鮮やかに示されているのである。

(以上『-俳句空間-豈』第43号2006.10より山根氏の許可を得て転載しました。)
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