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第2部(15)聖書の「行間」にそそがれた〝まなざし〟1.『聖書』と『論語』  

「風(プネウマ)」誌第73号2006年夏・秋号

「罪」というと、「キリスト教」や「聖書」とワンセットになって教会や学者の間でもさまざまに語られてきましたが、「恥」についてはあまり触れられてこなかったように思います。

聖書中の使用頻度を見ても、たとえば『聖書思想事典』(邦訳版、三省堂)では、「罪」の項に一〇頁をさいているのに対し、「恥」はわずか二頁にすぎません。

面白いことに、この『聖書』と対照的なのが『論語』です。
中国哲学史の森三樹三郎氏は、

「『論語』は短篇の書であるにもかかわらず、多く恥について語っており、しかもその比重は大きい。

これに反して「罪」という語は三回しかあらわれず、しかもそれは「天」に関連する場合に限られている」
(講談社学術文庫『「名」と「恥」の文化』一六八頁)

と指摘しています。

森氏のこの書は「名」を尊重する儒教=「名教」を中心に、各項でヨーロッパ・中国・日本の文化比較を試みていて大変興味深いものですが、その第五章で「恥と罪」について次のように述べています。

「この(『論語』の)場合、恥が人間を悪から善に向かわせる内面的な動力としてとらえられていることに注意したい。

ベネディクトは「真の罪の文化が内面的な罪の自覚にもとづいて善行を行うのに対して、真の恥の文化は外面的強制力にもとづいて善行を行う」といったが、孔子はそれと逆の受け取り方をしたのである。

罪の観念は、刑罰という強い外面的強制力によって生み出されるものであり、恥の観念は、道徳や礼儀によって養われる内面的な倫理意識なのである。」(一六七~一六八頁)

 さらに孟子になると、「恥を道徳的進歩の動力としていることが注目される」として、

「『孟子』の場合は、人に限るべきはずの恥を、天にまで拡大したのである。

それだけ恥の範囲が広がるとともに、単なる「世間体」をはばかる意識から、天の神に対する恥として深化したともみられる。」

とも述べています。
これらの指摘は、井上神父が、

「恥の意識は・・・・他人ではない、何らかの形で自我を超えた他(者)の目にさらされていることで十分におこりうるもの(であり、)・・・・「恥」は、道徳的な意味合いに限られている「罪」よりも、もっと広い概念であるといえよう。

またベネディクトがいうように、罪は内面的自覚にもとづき、恥は外面的規制にもとづくというふうに簡単には決められない」
(本文第十三回「罪と恥」)

といったことを思い起こさせます。

本来社会規範である「道徳」を「恥」に結びつける(森)か、「罪」に結びつける(井上)かという違いはあるものの、罪と恥、どちらが内面的か外面的かは簡単に言えない、という点では一致しています。

また、孔子から孟子を経て、〝対人的恥〟から〝対神的恥〟への変化を恥概念の「拡大」であるとともに、その「深化」としてみている点も興味深いといえるでしょう。
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