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「余白の風」第126号-p.2  

アッバがそのような方であったから、そのままイエスも同じように生きた。その行き着く先に、十字架刑があった、という史的理由を明確に述べているのである。

従来の日本のキリスト教が、この歴史性に十分に言及せず、即パウロ的な十字架のキリスト教的意味――人類の罪を贖う-贖罪死ばかりを強調してきたことが、日本人の感性につまずきを与えたと言える。

この点でも井上神学は、日本人にわかりやすり論を展開している。(06.8.7)

短歌キリスト教
くれなゐの乳頭
マリアの胸にくれなゐの乳頭點じたるかなしみふかき絵を去りかねつ   葛原妙子

誰の絵だろうか?
マリアの乳頭の赤さに深い悲しみを見ている。女性ならではの視点かもしれない。

難解歌人で知られる塚本邦雄をして、「幻視の女王」と言わしめた葛原妙子。
シュールリアリズム・前衛短歌の代表歌人である。

旅先で歌ったと思われる、聖書に題材をとった作品も多い。
聖書中には、イエスやマリアをはじめ、中心人物ほど容貌についての記述がないだけに、こうした歌人による文学的想像は貴重である。

同じ人間だった
ジーザスの足跡かつて消し去りし波濤か春の白砂を這ふ   大塚寅彦
(角川「短歌」06.5)

「ジーザス(イエス)の足跡」がついたのは、直接にはガリラヤ湖畔だろう。それを消す「波濤」や、己が「這ふ」「白砂」に強い親近感を持つ作者。

が、地殻はすべてつながっているのだから、地理を限定せず、普遍的に解釈してもいいのではないか。

俳句キリスト教』で取り上げた句、

踏青やキリストはいつでも素足  長田等(p.90)
を思い出す。
イエスの人間としての、わたしたちとの同質性からキリスト教に近づくという道が、もっと強調されていいように思う。

●知足ということ
人生は神の場アバの作品と思えば焦り少しく失せり   栄一


『エフェソの信徒への手紙』2章10節からです。
「神の働きの場」としての人生、というのは、井上神父がよく言われることで、近年ではあわせて、「神の作品」を強調されています。

このことを黙想していきますと、「場」であり「作品」ということは、私たちの人生は、自分たちが自力で切り開いていく、というより、神の働きの結果として今在ることなんだなあ、と思います。

あれもしなくちゃ、これもしたい、とつい焦りが出てしまう私たち(私だけかな?)ですが、このことを度々思い起こすと、心が安らぐのです。

今在る自分に充足すればいい、、、仏教では「知足」といいます。

求道詩歌会員作品-442
[382] 暑中お見舞い申し上げます Name:末子(ハガキ)  Date:2006/08/05(土)
初陣の一声あげて他の鳥に

蝉からのかそけき声の聞こえ来て

ひぐらしの声疑うや朝の四時

露草の薄い水色落ちつかず

夏休み親に手を振る児童かな

夏あざみ棘の痛さに泣きつ折る

[388] RE:暑中お見舞い申し上げます Name:栄一  Date:2006/08/07(月)
わかりやすい、素直な句で日常をうまく切り取っていますね。丹念な絵をいつも送ってくださり、うれしいです。2枚とも気取らない、素朴さが涼しげです。

[383] さよなら Name:末子(ハガキ)  Date:2006/08/05(土)
ベランダの網戸に蝉がやって来た
ミーンと一声「いつ迄どうぞ」
三日間も居ついています
四日の夕方、洗濯物を入れる為
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