「南無アッバ」を生きる ホーム » 求道詩歌誌「余白の風」 »「余白の風」第125号 2006年8月号

「余白の風」第125号 2006年8月号  

プリント版でもご覧下さい。
Copyright © 2005 余白こと平田栄一, All rights reserved.本誌(1990年創刊)サイトは俳句を中心として、日本人の心情でとらえたキリスト信仰を模索するための機関誌です。毎月発行しています。どなたでもご自由に投稿・感想をお寄せください。(採否主宰一任) 投稿先:掲示板 ホームページ「今を生きることば」
<目次>
井上洋治神父著『わが師イエスの生涯』を読む 1
井上神父の詩:NK 1
井上神学は本物か?(読者の質問) 2
主宰作品:平田栄一 3
今日の秀句から 3
求道詩歌会員作品-346 5

井上洋治神父著『わが師イエスの生涯』を読む
●カナの婚礼の「真実」
カナの物語(ヨハネ2章)に示される「真実」は、「アッバのあたたかなまなざしのもとで」、「禁欲的な」「洗礼者ヨハネ教団の」「旧約」精神を「打ち破って」、「にこやかに、おおらかに」「あかるく」、「ささやかな庶民の楽しみを大切に」した「イエスの姿を告げること」だったという。

 一般的な解説では、このペリコーぺの主眼は、ユダヤ教を象徴している水が、イエスによって変えられ、更新、凌駕され、イエスの贖罪を通して、ユダヤ教とキリスト教が連続線上にありながら、他方において後者が前者を超克し、全く新しいものとして、人々に永遠の命を与える・・・・(『新共同訳 新約聖書注解Ⅰ』等参照.というところにあるとする。

 井上神学は、ユダヤ教とキリスト教の「連続」性については消極的なことは、これまで見てきたとおりだが、前者の「超克」については上記ような解説と一致する。

 しかしここでは、井上神父の「主眼」は、そうした神学的解釈にはない。むしろ、端的に、「大飯ぐらいの呑兵衛」と悪口を言われても(ルカ7:34)酒宴を共にし、「庶民の楽しみ」に共感するイエスのまなざしが、強調されているのである。
(第五章 ガリラヤの春・「旧約律法」の重圧からの民衆の解放p.84  6/22)

●イエスの第一声の意味
p.86
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)の意味

 この第一声からして、旧約の父性原理の強い神ではなく、母性的な「アッバ」への信頼を説くイエスの最初の言葉と、井上神父は理解する。

すなわち、「時は満ち、神の国は近づいた。」を、「いまや、私たちをアッバがしっかりと御自分のまなざしのうちに包容しはじめてくださったのだ」と解する。

ここでは、「神の国(バシレイア=支配)」を「アッバの神のまなざしの包容」と訳す。

「悔い改め」も、洗礼者ヨハネの文脈での「禁欲的・苦行的な生活への回心」ではなく、「腕の中の赤子がアッバに向ける全幅の信頼のまなざし」と解す。

その上で、「福音を信じる」とは、「このあたたかなアッバのゆるしのまなざしに信頼し、そのもとで、おおらかに、自由に、のびのびと生きていく」ことに他ならない、とする。

 ここでも、「罪の悔い改め」といった、既存のキリスト教がとる表現は見当たらず、アッバへの全幅の信頼が強調されていることに注目したい。(6/23)

井上神父の詩:NK
今年はイベント続きでして。
この記念の御ミサの二週間前には、神父さまと共に歩んできた、同胞の遠藤周作さんの(御ミサも含めた)没後10年追悼記念イベントが、遠藤さんのある意味、故郷でもある長崎で盛大に行われ、
(御ミサは大浦天主堂にて長崎教区の司祭5名の共同司式)私は有難いことにその場に立ち会うことができました。
本当に深く感謝する次第です。

また長崎ではそれ以外にも大切な恵みを与りまして。嬉。
その話はまた後日改めて書きたいと思います。

そしてこの度の「風の家」20周年記念の御ミサ。
私にとって生涯忘れることはないでしょう、本当に感慨深い集いとなりました。感謝!

今回の御ミサ、当初から珍しく事前にどこからともなくお手伝いの協力要請がありまして。

というのも、現在普段「風の家」は、長年に渡り神父さまの活動に多大な尽力を注いでいる信徒さんのお宅を主日だけ間借りしての御ミサ。
この御ミサに関しては、場所的に収容人数にかなり無理があるので、基本的に皆、各自で直接神父さまとコンタクトを取って集まっています。

なので私的に近い御ミサの関係上、皆さん各々の信仰を大切にしていることもあり、普段は御ミサで顔を合わせるだけのお付き合いの方が多いです。

また、それ以外は四ツ谷で行われる御ミサが中心の方々もたくさんおります。
特に私の身近は、ネットや機関紙「風」を通したお付き合いがあり、私はそれがきっかけで、今、「風の家」へ通っています。

そんな各自の場で活動していたものが、ここへきて記念の御ミサとあって、ちゃーんと神さまは一同に会して協力する機会を用意してくださるのだから不思議な話です。

まさにネットと年代柄、普段バラバラになりがちな設立当初の若手(今はいい年。笑。)の面々とのコラボ。
すぐに皆、意気投合、仲間意識も働いて本当に心温まる集い...
こんなことが実現するなんて・・・
私はもうそれだけで、感慨無量でした。感涙。

さて、記念の御ミサは既に私の恩人の方のネット上で聞けることになっています。
それなので、あえて内容には触れません。
いつになく神父さまらしいお説教であったことは言うまでもありません。(*・-・*)

最後に「二〇〇六年六月三日、風の家二十周年を迎えて」の神父さま手作りの「祈りの詩」をご紹介することにします。

2006年6月3日 風の家二十周年を迎えて
-「南無アッバ」の
こみちをつくっていこう-   井上洋治

やすらかなとき 感謝の気持ちがわいたとき
  そういうときはもちろんのこと
淋しくなったときでも
   哀しくなったときでも
 落ち込んでしまって
   何もかもいやになったときでも
いつでも 何処でも
  まず「南無アッバ」ととなえてみよう
 「南無アッバ」のこみちをつくっていってみよう

そうすれば
  嵐のとき 雷の夕べ 息絶えそうになったとき
 そのようなときにこそ
アッバが このこみちで私たちを待っていてくださり
  おみ風さまのあたたかな抱擁のうちで
 イエスさまにつきそわれた私たちの心に
  やすらぎの福音を必らずやとどけてくださるだろう
     ね、アッバ、そうですよね
  アッバ アッバ 南無アッバ

 井上神学は本物か?(読者の質問)
>突然ですが 色々聞かせていただけたら嬉しいです。
また聞いていただけたら・嬉しいです。
風・前号から購読を始めたばかりです。

質問させてください、
初期段階の質問ですが、井上神父、遠藤周作氏が書かれたような信仰のあり方っていいますか、信仰生活で本当にイエス様は喜んでくださってる・とかんがえても構いませんか?<

余白;イエス様の福音はある意味で一つでしょうが、その表現の仕方には様々なバリエーションがあると考えます。
贖罪信仰を強調するパウロのような考えもありますが、おなじパウロには初穂理論もあります。

ヨハネ福音書には贖罪論はほとんど出てきませんね。
私たちは、日本人に合った福音の表現を求めているのです。
このあたりのことは、井上・山根共著「風のなかの想い」(日本キリスト教団出版)などをお読みいただければと思います。

>私は2年前にプロテスタントの教会で洗礼をうけたのですがけっこう、しんどい思いをしております。

遠藤周作氏の本を読んだりすることに牧師さんには、いい顔されませんが、氏の本を読んでると何かホッとします。先日、長崎の記念館へも行ってきました。<

余白;よくわかります。
その牧師さんには、彼なりの福音理解があって、井上神学や遠藤文学は本当のキリスト教ではないとお思いなのだと思います。

>私の思う事、欲することが悉く今の教会の教えから離れていてしんどいのです。
井上神父の書かれた本の中に、私は自分に都合の良い部分だけをみつけて、安心してるだけなのかどうか、解かりませんが酒、煙草についてだけにかぎってもホッとするのです。

今の教会で 常に 自分の信仰の足りなさを責められる思いに落ちる事に本当につかれています。<

余白;罪と罰を基本にした贖罪論や償い理論、身代わり論はたまた北森牧師の神の痛みの神学など、いろいろありますが、井上神父や遠藤文学から信仰に入った人は、日本人として無理をしない神学を求めているのです。

酒・煙草の問題はもちろん、信仰に入って不自由になったとしたら、
それはどこかで無理が生じているということです。

遠藤・井上神学が絶対だなどと私たちは思っていません。
ただ実際、西欧からの受け売り神学が絶対だと思い込んでいるキリスト者が多いなかで、あなたのように、苦しんでいる方が多いのも事実です。

イエス様の福音がすべての人に開かれているものならば、それぞれ自分に合った入り口があっていいはずです。
皆が同じ入り口から入らなければならないとは、思えないのです。

どうかあなたの上に神様の祝福がありますように。(過去記事より)

主宰作品:平田栄一
「層雲」8月号掲載5句
二人の時間が戻る猫がいて花のある生活

訳もなく親が煙たい夕餉の青物

雲まったり流れわが罪を問わず

コンクリのひびから花咲かす神のアイデア

公示日の駅頭傘さす人たたむ人

――――――――――――――――
 絵手紙俳句ありがとうございます


末子さんから、鮮やかな絵手紙をいただきました。
この大雨のため、ちょっとにじんでしまいましたが、それもまた、今年の梅雨の印象になりました。
ありがとうございます。

絵や音楽は、俳句の種の宝庫ですね。

[349]いう:末子さん、素敵な絵手紙ですね!絵と句(筆跡も)がはがきの舞台でお互いを引き立てあって。こんな季節の便りをもらったらうれしいですね。

今日の秀句から

名がついて赤ンぼう来る人ごとに抱かれている            大越吾亦紅

S33。私が生まれた頃の作ですね。
あの頃は、とくに少子化ではなかった。

この頃はまた、とくに少子化対策が叫ばれています。
特殊出生率が、また、最低記録を更新した由。
あのお派手な「担当大臣」様も、「日本人の働き方に問題がある」との指摘、もっともだと思う。

残業一切禁止令、とか、もっというと、1日8時間じゃなくて、5時間労働制にしたらどうだろうか。。。。GNPは下がって、全体に貧しくなるだろうけど、心はお金ではなく、別の方向に向くんじゃないかなあ。。。夢のような話。

それにしても、少子化は日本の職場や働き方に大きな要因はあるにしても、根本は違うんじゃないかと思う。

はっきりいうと、「子育てに対する喜び・楽しみ」を若い世代が、昔ほど当たり前に望まなくなったのではないか、と思うのです。
これは、晩婚化ということとも関係します。

結婚や子育ては、苦労がつきもので、その向うに楽しみがある。
即楽しみじゃない。

そういう「苦労付きの楽しみ」を、国民全体が急激に回避するようになったんじゃないでしょうかね。これは若い世代だけの問題じゃない。
(2006/07/15「層雲」自由律俳句日記)

<コメント>:森野ひかり
竿竹売りの声に目覚めて少し泣き

「赤ちゃんを見に来ましたよ」といふ人の手に一枝の梅の明るさ

次次と優しき腕にいだかれて置かるることなき吾子の午後かも

竿竹売りの声に目覚めて少し泣きやがてすぐにも子は眠りたり

子がその歯に噛む初めてのビスケットかりかりともさくさくとも聞こゆ

雨の日は小さき家に吾子とゐて明るき雨の音聞きてをり

つい13、4年前の風景です。
笑ってしまいそうな昨日、今日の暑さです。

名がついて赤ン坊来る人ごとに抱かれている

返歌?と言えるかどうか分りませんが、以前作った歌を思い出しましたのでお返事しました。十数年経っていますが忘れないものですね。

栄一:ご返歌ありがとうございます
ぴったしの返歌ですねー!
赤ちゃんが愛されている情景が目に浮かびます。
さすがの短歌、長くやられていた成果が見えます。

こう見ても、自由律俳句は短歌と定型俳句の中間形態との思いを深くしています。

PS:吾亦紅は、師荻原井泉水が、「層雲の北斗星」と呼んで、激賞していた東北の俳人です。

試金石:森野ひかり
吾亦紅への返歌ということになるのでしょうか・・・。「層雲の北斗星」と呼ばれていたのですね。

「短歌と定型俳句の中間の形態」としましたら、何か許されているようでほっとします。
高校3年の修学旅行の時からですから、本当にちょうど30年です。長い間、旧仮名文語体で作っていましたので(結社の決まりで)現代がな口語体には新しく挑戦することになります。自由律は、旧仮名文語でもいいのですか?
5・7・5でなくても無季でもいいんだよ、と云われると、自由に与えられたお休みをどう使うか、どこへ行って何をするか、どこへも行かないで何をしないか(?)、が問われるような、もっと云うとその人がどんな人か一句にぜ~んぶ表れてしまうような、試金石みたいな気がします。

栄一:なるほど、
試金石とはうまく言ったものです。
そう、自由律が広まらないのは、たぶん、全部透けて見えてしまう、ってことがあるかも、です。

歳時記も使わないし、長さも自由。
「自由の不自由」を感じることもあります。(これは拙著『俳句でキリスト教』にも書きましたね。)
でも作り方によっては、無限のバラエティがあります。
そこが魅力。

正岡子規は、言葉の数理的な組み合わせから言って、定型俳句は近いうちに滅びる、と予言しました。
もちろんそれは、あたりませんでしたが、もしここで、自由律を俳句と認めていけば、無限の可能性へ再び、ということもあるでしょう。

かな使いと文語口語のこと--
わたしは、定型時代は新かな・文語で作っていました。
しかし文語は、現代完全に使いこなせる人はほとんどいない、とは、五行歌の草壁焔太氏の弁。

「層雲」では、現代は新かな・口語がほとんどです。
http://blog-imgs-31.fc2.com/y/o/h/yohaku5/souunn-7034.jpg
戦前の作品には、旧かな・文語もありますが、口語俳句の推進と自由律は密接に関係していますので、多くの作家が早い時期に口語に移っています。

  陽へ病む

という、史上最短の俳句を書いた大橋裸木という作家は、最初から口語でした。

いずれにしろ、季語を突っ込んで、あとはよろしく~ってなことができない厳しさはあります。ってか面白さかな。。。

求道詩歌会員作品-346
[345] 俳句と詩:末子(秦野市)
神様に朝顔咲きし喜びを

朝顔に腕立て伏せをそっと見せ

戻り梅雨それでもせっせと洗い物

戻り梅雨用事をつくり外に行く

のうぜん花塀より越へて思案顔

花好きの善意えぞ菊鹿の子百合
--------------
 朝顔
鉢植の朝顔を買った
毎日咲き続けた
突然花が咲かなかった
驚きと落胆
神様が養い育ててくださったことを
少しも考えていなかったのだ
しかし蔓の愛らしさと若緑
葉の形の美しさと色合い
しっかり頭に刻んだ
-------------
何かを失った時
それまでの喜びの日と
それに代わる更に美しいものが
見つかることを知ろう
咲かせるのも神様
失ってから知ることの多さ
見る希望を持っていれば
別の世界が展ける事
神様に愛されている事が
私の最大の宝です

[346]栄一:ブログにも書きましたが、俳句や詩、その他芸術の基本は、「写生」じゃないかと思っています。

何かを創り出そうとやっきになるより、目の前のものを、感じたとおり--これがなかなか難しい--写し取ることが、基本なんだと思います。

それはただ写す、ということじゃない。見る目がそれぞれ個性を持っているから、見られる自然も千差万別、それだから「自然=自由」となる。

末子さんは、そういうことのできるお恵みを感謝しておられるのだと、思います。

[341] 特別じゃなくていい:いう
「何年もかかって、やっと高いはしごから降りることができた」
ユングはそう言ったんだって
肩ひじ張らなくていい
私が私なのも
私たちが私たちなのも
全然特別なことじゃない
あの人があの人なのと同じこと
どんどんはしごをのばしていったり
どんどんのぼらなきゃとあせってみたり
そんなことはしなくていい
どんどん降りていくことが
成長なのかもしれないし
どんどん降りて降りきれば
「ありがとう」って言えるのかもしれないね
-----
井上神父の聖書講座の中に、「石を抱きながら泳ごうとしてあえいでいる。石を捨てれば自由に泳げるのに、それが何か自分にとって大事なもののような気がして捨てられないのが人間だ」というお話がありました。

クリスチャンだということを、はしごを高く伸ばすことにしてしまっていないかな、重い石を抱くことにしてしまっていないかな、と思います。

それは「資格」みたいなものじゃなくて、ありがとうって言ってみたことなのかもしれない。言ってみた後でも、うろうろするけれど、やっぱりそこに留まっていたいという気持ちかもしれないなと思いました。

[342] 栄一:すばらしい詩!を「ありがとう」
はしごから降りることが成長かー♪
目からうろこ、ですね。
クリスチャンとは、素直に「ありがとう」って言えることなんですね。

日陰には少し風があって「ありがとう」と言える夏   栄一

とてもうれしい詩でした。

[340]淡丘
籐椅子に原罪の背の倚りかかり

なにを愧ずくちなしの花錆び急ぐ

東雲の隙間めがけて揚雲雀
  北京・万里の長城にて
鶲ゐて万里の長城黙しをる

[343]栄一:「原罪」「錆び」「隙間」「黙す」といった言葉を使って、人間存在の<破れ>を巧みに詠っています。
お手紙、「師と仰いだ故小川双々子の意向を汲み、有季定型に専念」とのこと、大いに励んでください。
この板では、詩形は二の次と考えています。
作るも読むも「道を求める心」--といっても、堅苦しく考えず、広く「軽み」ということも含めて。。。

[337] 海沿いの町:万梨
海沿いの町は濃紺夏の月

文明の嫉妬かな7月のビル

高松に来た人はみんな驚きます。まるで未来都市のようなビルがたくさん建ちはじめました。

[339]栄一:高松は故郷なのでしょうか?
近代化の波は、どこにでも押し寄せるわけですね。
なにか、近未来を描いた鉄腕アトムの世界を想起しました。

[336] 旅をするのが上手になった:いう
夏の野へ旅行鞄は軽くして (マタイ福音10:7-15)

久しぶりの俳句になりました。強烈な印象をたくさん持ち帰ることになった帰国から、精神的に復活できていなかったのでしょうか。(^^;)そんな甘えたこともいつまでも言っていられないので、ドアを開けて外に出ないといけないかもしれません。 

[338] 栄一:鞄を軽くする、、、そう、旅そのものが、自分が軽くなるためにするものなのかもしれません。
そのためにも、日常のものは、最低限にする。。。
非日常から日常を見直す、という効用。

[333] 平田先生、毎日生きている実感にわくわくしています:末子(はがき)
姫君を迎える思ひ朝顔咲く

スーパーのメロンが買ひ手を品定め

桃うまし赤子の如く汁垂らし

天空に黄金の月梅雨休み

もろこしの一つ残りて朝に消ゆ

[334] 栄一:どの句も、日常の何気ない風景・風物を、しっかり見つめている目が冴えています。

ついでながら、
改めて、俳句の楽しみはなんでしょうか?
いろいろあると思うのですが、一番は、貴女の句に見られるように、なんでもない日常を、じっくり観察し、写し取る=写生だと思います。

もちろんそれは、写真のような、機械に写し取る客観写生ではない。
その作者の目から見た、主観的な写生でいいのです。
そこに楽しさがある。面白みがある。個性が生きる。
そうだとすれば、広い意味での自然は、千変万化、無限のバラエティ、新しさに満ちていますね。
荻原井泉水は、それだから「自然」=「自由」だと言ったのです。
そして、この楽しみは、どんな人にも平等に与えられています。
小学生の目が大人の目に劣るというようなことは、言えません。
また、寝たきりで一歩も歩けない人が、活動的な人に劣るとも言えない。
むしろ、同じ自然を、病院の窓から、毎日繰り返し咀嚼しているからこそ、見えてくる新鮮さに恵まれるかもしれない。

こうした楽しみも、アッバからのお恵みです。
この楽しみを見つけた人は、まさに、貴女のいうように、「毎日がわくわくする」のだと思います。
南無アッバ

[330]つぼみ
縁側につるす風鈴涼よびて

暑き日も庭にたたずむマリア像

梅雨が明ければ猛暑がまっています
負けないで頑張りましょう

[331]栄一:今日は夏休み前の最後の授業でした。
単位制なので、うるさくいわないため、生徒は暑さに耐えかねて、帰ってしまったり。。。。

そう、でも貴女の句にあるように、そんなとき「涼」を呼ぶ様々な自然に出会います。ありがたいことです。
猛暑に向っても、頑張りたいですねー。
励ましの句と受けとめさせていただきました。ありがとう。

[328] 本日の第二朗読より:NK
棘とても強さとなりし恵みかな  (コリント二 12・7-10)

[329]栄一:私も先程、ミサから帰宅したところです。そう、今日のパウロの手紙は、病気や苦しみの中にあるとき、すごく慰めになる言葉ですね。
繰り返し、黙想したい箇所です。

[326] 桃:末子
お腹は丈夫の筈だった
夫が胃薬飲んでいる
「一食位抜きましょう」
不安を顔に出すものか

気弱な夫を知っている
冷たい桃を皿に出す
もろこし茹でて籠に盛る
薬よりも効きました

翌日花屋に誘い出す
百合と朝顔気に入った
「父さんお腹が直ったね」
「うん、これから昼寝だよ」

[327] 栄一:医食同源。桃ともろこしが効きましたね。それにしても、お礼に花屋さんでお花を買ってもらった、っていうオチじゃないところが、かえってコミカルで微笑ましい。。。

[324] 七夕:つぼみ
短冊に夢を託して祈る夜

幸せの原点は生きること
どんなに辛くても
悲しくても
生きていれば希望も持てる
夢も持てる
何時かは必ず雨も上がり
輝く太陽がそこにある
人に生まれたことを選ばれたことを
恵まれた私に
神の愛が包んでくれる

[325] 栄一:「生きている」ことが、当たり前のように思ってしまう贅沢。
ほんとうは文字通り「有り難い」ことなんですよね。病気や老いて始めてわかる。。。
そう「人に生まれたこと」は、当たり前じゃない。それなりの使命が託されている。

[321] 光と闇:万梨:2006/07/06(木)
こうもりや昼と夜とを分つとき

昼と夜の分かれ目ってどこでしょう…夕方?あいまいですね。昼と夜のように、すべてが繋がっていて、輪になって、循環していると思うと、神様は不思議なシステムを創ったものだなぁと感動します。
最近は忙しくで疲労困憊です。
ぐっすり寝たいです。

[323] 栄一:創世記のはじめに、「神は光と闇とを分けて、昼と夜にした」ってのがありますが、そう、はっきりどこで、と分けられるものじゃない。
多くのグレーゾーンがあって、時間がつながっている。日本的な感性とは、そういうグレー、あいまいさを大事にする文化のようにも思います。

[320] 中古ソファー:NK:2006/07/05(水)
リサイクル諦めたのか涙雨

我が自治体は粗大ゴミ(有料)として回収しても、
リサイクルできるものはリサイクルするらしいのですが、回収される場所は屋外です。

だから、回収日がこんなどしゃぶりでは、使い物になりませんね。
もうこのソファーが日の目を見ることはありますまい...

ウチに置けるものなら、持って帰りたいくらいの素敵なソファーでした。
何となく寂しくなったゴミ捨て場での朝の光景。

[322] 栄一:中古の味ってのがありますよねー。
たとえば、本でも新刊よりブック○フなんかに並んでる全集など見ると、かえってほしくなったりしませんか?

[318] 短冊:つぼみ
デイに来て書く短冊は皆同じ

デイサービスで書いた短冊を壁に貼り
希望あふれることもある。

短冊を一つ一つ読んでみて、「歩けるようになりたい」が一番多かった、

[319] 栄一:「究極の祈りは願いである」と言った神父様がいました。
私はそのとき、はっとしました。
理屈や高尚な価値観ではないのですよね。
救いとは、今現在の困難から救われること、、、率直な願いが、宗教の原点だと思います。

[315] あたらない天気予報:いう
夏雲のもてあます雨しずく飲む

[317] 栄一:「夏雲」のレモンのようなみずみずしさ。
こちらも、まだ梅雨空が続いてますねー。
返歌
もてあます程の雨を蛙と分けている夕暮れ

[314] 白雲子
青空をこころのおやつにいただこう

石 かぜがひとりできた

こころ さえずりであらうあおぞらであらう
-----------------
自由律俳句日記、とても読みごたえがありました。平田さんが、自由律に復帰してくれたことは、何よりも力強くうれしく、自由律の未来に燈がともったようです。

[316] 栄一:この人の作品は、いつも山頭火以上に言葉は単純ですが、そこに盛られた思いは、とても深いものを感じさせます。
実は「層雲」では、ボクよりずっと先輩なんですよね。いつもありがとうございます。
返歌
素朴に盛られた深い思い真っ直ぐな季節   

[311] あじさいのはな:つぼみ
雨上がり
明るく咲いた
お多福あじさい
沢山の人たちに幸せを
分けてあげて
ありがとう

これからは
前を向いて
歩こうね
絵顔を忘れずに
辛い時ほど
笑顔がうれしい

[313] 栄一:満面の笑顔を見せてくれる「あじさい」。
花はなぜ、どれもあんなに美しいのか、ときどき疑問に思うことがあります。
どう考えても、生物学的な理由だけじゃないのではないか。。。遠藤周作の『満潮の時刻』にも、「自然は人間に語りかけている」という下りがありますね。
返歌
あじさいが笑っている雨がうれしい

[310] アザミ:yohannna
散歩道 アザミ花咲く 茨似て

犬の散歩道に紫色したアザミの花が咲きはじめていました。まるで茨の冠を身に付けたような葉のとげに思わずイエス様を想ってしまいました・・。

[312] 栄一:ああ、そういう発見もあるのですね。日頃yohannnaさんが、いつもイエスを黙想しているからでしょう、すばらしい信仰!
下句「主の茨」のようにした方が、わかりやすいかも。
返歌
十字架の道思う道のアザミの花

[308]テゼの祈り:万梨
何処からか風吹く夏至の日の祈り

青梅雨や散歩の犬と学生と

1句目は先週の夏至の日に、学校のオラトリーで行われた祈りに参加したときのことを詠みました。ここ何日も考えていたのに、この感動を上手く俳句にするのが難しくて…

ろうそくの ほのおが ゆらり ゆれる
風に 歌に 祈りにのって
心の床に 吹く風にのって

 結局、短い詩にしてみました。

[309] 栄一1句目、この風がやはり「プネウマ」と連想されます。
その「おみ風さま」に促されてする祈り
返句
おみ風さまにいつもつきそわれて南無アッバ
2句目、自然体でいいですね。青梅雨のなかの「犬」や「学生」がくっきり浮かび上がってきます。
>ろうそくの・・・・
「ほのお」は明るくて、目立つけど、ここでも「風」が隠れた主役になっていますね。静謐でさわやか。
返句
ほのおゆらすおみ風さわやか南無アッバ

[306] 蛍:いう
割り切れぬ思いもありてほぅほたる

[307]栄一
蛍の光の「ほぅ」とした明滅は、たしかに「割り切れぬ思い」の象徴のようにも、思えますね。
繊細な感受性です。

[303] 笑顔:つぼみ
人は生まれた時から山があり
川があり 谷がある
回る地球に生まれた私
青い空を信じて
明るい太陽を信じて
病に泣いても
定めに泣いても
貴方は幸せ
なぜなら 生きている
すばらしい地球に生まれて
神の愛を知るでしよう
どんな試練にも耐えてゆける
いつも側で見守ってくれる愛するお方
だからどんな事にも負けないで
地球は休むことなく回っているのだから
強く正しく生きてゆこう
笑顔で接すれば笑顔で返す

[304]栄一:生まれて、生きることへの根底に、「福音」があるということ。
辛いことも、いやなこともあるけど、根本的に生は「福音」=「よき知らせ」なのだ、という信仰が伝わる詩です。
そして、その根拠と証明がイエスの復活にある、というのがキリスト教ですね。

[302]末子
 星
不満が募って
外に出る
柿の青葉が
さやさやと鳴る

空に金星
ぴしゃりと冴える
はるかな光と
愚かな心

 雀
公園の水場を
雀が歩く
両足そろえて
兄弟すずめ

夫が笑う
無邪気に笑う
私も笑う
風が涼しい

 炎
庭のサルビヤ
咲きました
赤い可憐な
花でした

冬の貰い火
炎があがる
ぬり絵千代紙
消えました

あれは炊出し
塩むすび
お礼も言わず
食べました
-----------
幼い思いでも老いの今日も、恵みの中にいます。それが嬉しいのです。

[305]栄一:辛かったときも、侘しい思いも、「恵み」として感謝できる幸せな詩ですね。
偶に起こる劇的な出来事ではなく、ありふれた日常のなかで、ふっと戴いた小さな親切、ひと声。
そうした積み重ねこそが、後に宝となって「天に積まれる」のでしょうね。

[293] 紫陽花:万梨
青すぎてあじさいあわくほころびし

紫陽花の色はとても魅力的ですよね。赤紫色から濃い青までいろいろあって、思わず足を止めて見惚れてしまいます。

[294]栄一:「あお」「あじ」「あわ」で、「あ」の伸び伸びした開放感、夏に向って、雨をしっかり浴びたアジサイの鮮やかさが伝わってきます。
挿し木でもどんどんついて、たくましく、みずみずしく大好きな花です。
もちろん豪雨被害は困りますけど。。。

[295] 私の親友と神父様、そしてココナッツチョコ(その①):マルコ
 [ある神父様の話]を読ませていただき、何か私の中の記憶を呼び起こされるような気がしましたが、なかなかハッキリせず、この数週間それとなく考えていました。今頃ようやくボンヤリしていた点と点が繋がり一つの思い出が浮かび上がってきました。

今からおよそ10年前のこと・・・私と親友のRさんは一緒の職場でパート(キャリアメイトと呼ばれていた)をしていましたが、10年近く勤めた銀行を一緒に退職することにしました。なぜ仲良くなったかというと、多分お互いクリスチャンだから・・だと思います。彼女は幼い頃亡くなられたお父様の意向で生まれてすぐカトリックの幼児洗礼を受けていました。私はプロテスタントですが、毎週狭いリビングを開放して夫と共に牧会をしている、そんなことが大きかったような気がします。退職の理由が私は自分の趣味のためみたいなものだったのに比べ、一人っ子の彼女は不治の病のお母様の看病のためでした。。。彼女Rさんとは退職後も時おり連絡を取っていましたが、ある時彼女は思い出話の中で言いました。「昔両親と一緒に3人で教会に行っていた頃、外国人の神父様からいただいたココナッツがいっぱい詰まったチョコレートが時々無性に食べたくなることがあるけど、何処にもないのよねぇ」と。

 彼女の家にも数回訪ね、その懸命の看護を目の当たりにしていた私は、看護のご褒美にどうにかしてそのチョコを捜し、飽きるほどいっぱい持っていってあげたい、と受話器を置いたあと真剣に考えました。そしてまず第一に考えついたのは当時ニューヨークに留学中だった長男に聞いてみることでした。

(その②):マルコ
 早速かくかくしかじかとメールをしたところ、長男自身は分からなかったけれど、チョコが好きな女友達に事情を話したら「神父さんが小さい女の子に上げたチョコって・・・神父さんて多分清貧な生活をしているでしょ、だからあんまりお金を持っていないので高価な物を上げたとは思えないし、多分私が時々買うスナックチョコみたいのだと思うよ」という有力(?)な情報を得て、長男の仕事にしては珍しく早く、一週間後航空便でそのチョコは2種類どっさり送られて来たのでした!! 3つの山一組のチョコになっていてラベルの裏側には99C(セント)というシールがピタッと貼られていました(笑)。試食してみるとウン、バッチリ、チョコよりココナッツが多くてなかなかのお味。シールを一つ一つ注意深くはがし、何はともあれ早速R さんにいそいそと宅急便で送りました。そして翌日・・・かかってきました電話が!!「おいし~い、でももうほんとにビックリしちゃった!!でもでもおいしいっ!!あのチョコとは形がちょっと違うけど味は同じ!!、こっちがおいしいかも・・、ありがとありがとっ、本当にーー、」(ここまで私も(~o~))

(その③)マルコ
 それから彼女は付け加えたのです。「母も懐かしがっていただいたワァ」と。--これを聞いた私は全く予期していなかったことだし、彼女の文字通り親身の看護の中で、お母様もまだチョコを食べられるだけの気力体力をお持ちなんだ、とかいろいろなことがごっちゃになって絶句、不意に頬を伝う涙で次の言葉「良かったァ!!」を発することができませんでした。。。。そして思いがけないことに、次に何かとても暖かい手のようなものが肩に置かれたような・・不思議な体験をしたのです。そう、神様がうしろで微笑んで立っておられるような。。

プロテスタントゆえ神父様とは、ご本を書かれている方の書物を読んだりするくらいで実生活では全く存じ上げないのですが、”ある(尊敬する)神父様”のご投稿を読み、ふぅとこんなことが甦ってきました。。。
本当にありがとうございました。

★私の文がとても長くなってしまいましたことをお詫びいたします、本当にごめんなさい。

★(彼女のお母様は、彼女が退職されてから3年のあいだ寝つかれ、最期は2週間ほどの眠りのあと、30代の若さで召された最愛のご夫君の許へ昇って行かれました)。

[298]栄一:すばらしいお証しをありがとうございました。
長くても、一挙に読ませる魅力ある内容ですねー♪
「彼女」の誠実な姿とともに、貴女のお心遣いに頭が下がります。
そして、ご長男やそのお友達の好意も。。。

>そして思いがけないことに、次に何かとても暖かい手のようなものが肩に置かれたような・・不思議な体験をしたのです。そう、神様がうしろで微笑んで立っておられるような。。

まさに「アッバ」体験ですね!
言葉でなく、対峙するのでもなく、うれしいときも悲しいときも「うしろ」からそっと抱きかかえてくださるアッバ。。。
プリント版でもご覧ください。
関連記事


category: 求道詩歌誌「余白の風」

thread: 詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など

janre: 学問・文化・芸術

tb: 0   cm: 1

コメント

「もず」さんが今号評をかいてくださいました。

http://plaza.rakuten.co.jp/mozu0017/diary/200607230000/
いつもありがとうございます。

栄一 #oBO5MkqQ | URL
2006/07/25 09:11 | edit

コメントの投稿

Secret

トラックバック

トラックバックURL
→http://yohaku5.blog6.fc2.com/tb.php/455-bc8ffe75
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

日本人にわかるキリスト教を求めて

南無アッバの集い&平田講座

求道詩歌誌「余白の風」

最後の南無アッバミサ

全記事表示リンク

リンク

検索フォーム

▲ Pagetop