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神学エッセイ2-20元原稿-本に未収録作品を含む  

[4-96] 電話

 ある事で悩んでいました。学生時代から長いつきあいをしている友人から電話をもらいました。彼は人柄もよく活動的な男で、企業社会のなかでとんとん拍子に出世しています。彼は私の悩みをじっくり聞いた上で、言葉を尽くして励ましてくれました。友だちは有り難いものだとしみじみ思いながらその声に聞き入っていました。気がついてみると三十分以上も経っていました。私はお礼を言って電話を切りました。しかし電話を置いた私は、素直には慰められていない自分を発見して、前よりもっと落ち込んでしまいました。
 一時間ほどして、この四月にある修道院に入ったばかりのシスターから電話がありました。二十歳を少し過ぎたばかりで、私とは二十も離れています。以前から目立たない、無口で地味な女性であり、とくに私と親しかったというわけではありません。彼女は、事務的な用件をゆっくり、落ち着いた声で、間を置いて言葉を選びながら、手短に私に話しました。そして最後に彼女は、私の教え子で病身の○○君のために祈ってくれている、と言い添えて電話を切りました。その間五分ほど。受話器を置いて私は一瞬ハッとしました。なぜか、心から素直に慰められている自分を発見したからです。
 私は煙草に火をつけ、窓外の秋の夜の闇に目をやって、彼女の「祈り」という言葉を頭のなかで反芻してみました。

[4-97] 憲法は聖書

 独自の平和運動を続ける石黒寅亀牧師の記事を読みました。(朝日新聞97.8.20朝刊「平和訪ねる」)
 氏は日本の「平和憲法は法律用語で書かれた聖書」であると考え、聖書と憲法の小冊子を身から離すことがないといいます。この記事から現在九十歳の氏が戦中戦後、大変な苦労をされてきたことがうかがえます。
 私が高校生の頃七十年代半ば、〝戦争を知らない子供たち〟というフォークソングがはやりました。ベトナム戦争や湾岸戦争、今も続く局地戦などを情報として知っているにすぎないわたしたちは、こうして具体的に戦争を実体験している人たちを前にして、何を思い、何を考えるでしょうか? 「戦争はいやだ」とか「二度と起こしてはならない」と直間するのは当然でしょう。しかし同時に正直に言えば、「それにしてもどうしてあんなことになってしまったのだろうか?」「なぜ反対しなかったのだろうか?」「いや、反対などできる状況ではなかったのだ・・・・」等々、さまざまな疑問や思いも起こってくるのです。これは私が、実際戦火をくぐってきた七十代半ばの父の戦争体験を聞くときにも、いつも沸いてくる疑問です。
 戦争の政治的・経済的理由は、教科書からでも学べます。わたしたちは理性に従って「戦争絶対反対!」を唱えることもできます。しかし、戦争に直面した人間のナマの――召集令状を受け取ったときの、敵を目前にしたときの、あるいは敵を倒したとき等々の――感覚を知ることはできません。それはわたしたちにとってタブーな感覚なのです。なぜならそれを知るということは、「戦争反対」という理性的判断と矛盾する(戦争をする)ことになるからです。
 ところが、人間理性が絶対的な判断力を持っているわけではない、ご都合主義が多分にあることは、人類の歴史を振り返れば簡単にわかります。〝どんな戦争もすべて聖戦の名において行われてきた〟といわれるとおりです。戦争の是非に関する限り、理性はむしろ神と人間を欺いてきた、というのが歴史的な事実ではないでしょうか。
 ですからわたしたちは、理性的に「戦争絶対反対」を叫ぶとともに、あのタブーな感覚に対する想像力を養わなければなりません。「学ぶ」ということはいわゆる頭のよさではなく、そうした想像力を培うということなのです。

  わたしの霊が祈っているのですが、理性は実を結びません。では、どうしたらよいの  でしょうか。霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。(Ⅰコリント14.14b~15a)

[4-98] 受け身の視点

  初めに、神は天地を創造された。(創世記1.1)

 聖書の最初に出てくる言葉です。
 当たり前のことですが、生物学的にいえばわたしたちは父母から生まれました。その父母は祖父母から生まれ・・・・ずっとさかのぼって生物の発生・・・・地球・・・・宇宙の始まり。で、その前は?
 こうした疑問(第一原因という)をだれでも一度は持ったことがあるでしょう。
 この句だけを見れば、「神」をどのようなもの(方)として考えるかは、いろいろな科学の分野、さまざまな宗教、あるいは人によって異なるでしょう。
 しかし確かなことは、わたしたちを含めた「天地」創造のどの段階をとっても、それらはすべて〝つくられたもの〟〓被造物なのであって、自らの意志で生まれてきたものは一つもないということ、つまり創造の主体は自分の側にはないのだと明言しているということです。
 このことは学問的な興味を越えて、わたしたちが今をどう生きるべきか、を考えるとき見逃してはならない重要な視点のように思います。
 とくに現代社会の中で、意味のわからない不安や焦りを感じるときには要注意。たいていそういうときというのは、自分の力だけで早く何とか切り抜けなければならないという強迫観念にとりつかれ、ますます悪い結果を生んでしまうことがおうおうにしてあります。そんなときこそ、わたしたちの生の被造性・受動性を思い起しましょう。
 もちろん、わたしたちの努力が無駄だというのではありません。地道な努力は不可欠です。イグナチウスにたしかこんな言葉がありました。〝すべてが神の御手にあるかのように祈りなさい、そしてすべてがわたしたち自身の手にあるかのように努力しなさい。〟
 僭越ながら私は、意味がわからなくなった忙しさと焦りの中にいる現代人に対して今、こう言い換えたいと思います。「すべてが神の御手にあるかのように努力しなさい。そしてすべてがわたしたち自身の手にあるかのように祈りなさい」と。
 わたしたち現代人に最も欠けているもの、それは、祈りによってわたしたち本来の受け身の視点を取り戻し、安んじて努力することではないでしょうか。

[4-99] 祈る心

 現代人、とくに青少年の心のすさみを象徴するような様々な犯罪が次々と起きています。それに対応して文部省も、人間としての「在り方・生き方」を問う「心の教育」の重要性を強調しはじめました。戦後日本が全体として知識偏重の詰め込み教育に終始し、心の問題をおろそかにしてきたことは事実でしょうし、基本的にこの方向修正はまちがっていないと思います。
 しかし常々疑問に思うのは、そうした反省に立ったとしても、はたして今までの〝公教育の制約〟といった捉え方の中で、まったく宗教的なものを抜きにして「心の教育」が可能なのだろうか、ということです。少なくとも〝祈り〟というものに触れない「心の教育」はありえない、というのが私の率直な立場です。このことを例をあげて考えてみましょう。
 たとえば、「いじめはいけない」と多くの人はわかっています。戦争もしかり。しかしどちらもいまだになくなる気配がないのはなぜでしょうか。
 これについては、クラスや集団、国家等々の問題を取り上げてさまざまに説明できるでしょうが、忘れてならないのは、そうした集団を動かしているのはまちがいなく人間自身であるということです。その人間の心なかには、頭ではわかっていてもそのとおりに行動できない弱さや人より優位に立ちたいという欲求がうずまいています。このことを仏教では業、キリスト教では原罪などといいます。そうした個々の人間の思惑をまったく越えて組織が動くということはないのです。
 ですから、知識による学習によって理性では納得できても、心に巣くう業や原罪は思うようにならない、という自己分裂している人間本性が解決されないかぎり、いじめも戦争も根本的にはなくならないのではないでしょうか。そこに祈りという宗教的行為が出てくる理由があるのです。
 どんな形であれ、いったい人間以外に祈る動物というのを聞いたことがありません。もしそうだとすれば、祈りは人間特有の行為であるということになります。
 では、祈りとはどのようなものなのでしょうか。
 祈りの最古の形は呪文のようなもので、それによって神を自分の目的に従わせるような手段であったのが、「高度に発達した人格宗教では、祈りは自己の意志を神の意志に従わせる努力であり、神の助けを求める敬虔な姿勢」(新共同訳『聖書辞典』キリスト新聞社)となります。
 つまり、人間が自分の願いや欲求を満たすために神を利用しようとする、いわゆる御利益宗教的な祈りというのは、人間が主人(主)で神がその下僕(客)になる関係であり、それは祈りの初歩的な段階となります。もちろん、それが祈りの原型であるかぎり大切にされなければなりません。ですから祈ろうとするとき、まず、自分の思い・願い・悩みなどがあれば、それを率直に神に打ち明ければよいでしょう。そうすれば少なくとも気持ちが落ち着きます。
 しかしそれだけで終わってしまっては、祈りのほんとうの意味はわかりません。後の段階がより大事なのです。つまり、今度は「自分の意志を神の意志に従わせる努力」をしなければなりません。これは先程の主客を逆転して、神が主になり自分が従となっていく祈りの過程といえます。いいかえれば、神の言葉を聴くということです。
 「えっ?神様が話すって!?」
 もちろん、人が話すように音として神の声が聞こえるということではありません。〝神は自らつくられた自然の秩序(法則)を大切にする〟方ですから、めったにそういうことはありえないのです。
 そうではなく、たとえば静かに手を合わせる(必ずしも実際に合掌することを意味しません)沈黙のなかで、あるいはあなたが出会う人――その人は必ずしもあなたにとって好感の持てる人ではないかもしれません――を通して、あるいは思わぬ出来事――これもあなたにとって必ずしも素直に喜べない事件かもしれません――を通して。神はあらゆるチャンスを使ってあなたの心に直接語りかけるために、物・人間・自然・関係・・・・被造物を利用するでしょう。こうしてあなたは少しずつ神の心に従うようにされていくのです。

 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていた だき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるか をわきまえるようになりなさい。(ローマ12.2)

 「この世」とは、さきほどの例でいえば、弱い者を〝いじめたい〟〝相手より優位に立ちたい〟という悪しき欲望をいうのです。しかしそれは、どんなに禁欲主義を貫いても消し去ることはできません。神が主となって「心を新たにして自分を変えていただく」ことが必要なのです。
 ついでながらここで一点、聖書の読み方について付言しておきたいことがあります。
 たとえば右の句で「・・・・わきまえるようになりなさい。」といわれると、わたしたちは反射的に身構え、またまた自力に頼んで努力しなれければ、というガンバリズムを連想してしまうのですが、それは少しニュアンスが違うのです。
 というのは、聖書においては、「命令法は限りなく直説法に近い、または、直説法が命令法の形を取る」(量義治著『無信仰の信仰』(ネスコ)251頁)ということがあるからです。「命令法と直説 法の不一不二性は聖書における戒めの特徴」だというのです。
 ですから、「わきまえるようになりなさい。」という命令法は、「わきまえるようになる。」という直説法に直結し、それは「命令にもとづくべき事実」があるからだということになるのです。その「事実」とは、ここでは「心を新たにして自分を変えてくださる」「神の御心」ということになるでしょう。
 こうしたことを知っておけば、無下にガンバリズムに走ったり、努力してもうまくいかない自分に劣等感や罪悪感を抱いたりすることはないでしょう。
 人類はこれまでどれだけ多くの祈りを神に捧げてきたことでしょう。ユネスコ憲章はいいます、「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」と。
 科学万能主義の現代にあって、わたしたちは祈る心をどこかに置き忘れてしまったかのようです。しかしどんなに時代が変わっても人々の祈る心はけっしてなくなりはしないでしょう。それが人間の本質であるからです。
 今こそわたしたちは、目先の損得勘定に明け暮れる「この世」からときには目をそらして、遠くを見つめるように、祈る時間を持つことが必要なのではないでしょうか。

[4-101] 羊のリアリティ

 先日、久しぶりに動物園に行ってみて驚きました。
 羊の鳴き声は人間の肉声に大変近いということ、しかもその声には一匹ずつ個性があるということを発見したからです。
 羊の生態をよく知っている人には当たり前のことなのかもしれませんが、わたしにとっては大発見でした。
 それからというもの、『ヨハネによる福音書』に出てくる次のような牧者と羊のたとえがとても親しみやすく、リアリティを持って感じられるようになりました。

 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている ・・・・こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れとなる。(ヨハネ10.14,16d)

[4-102] 驚くべきこと

 最近の世の中、これでもかこれでもかというくらい暗い話や恐い事件には事欠きません。反対に、皆がびっくりするほど喜ぶような話には久しくお目にかかっていないように思います。
 新約聖書のギリシア語「エウアンゲリオン」は一般に「福音」と訳されます。
 その意味は、「喜ばしいおとずれ」、「良い知らせ」ということです。英語では「Gospel」あるいは「the Good News」などと訳されています。
 ただしこれは単に、「ちょっと耳寄りのいい話」といったものではありません。日本語としては、「吉報!」などとすれば、より近い意味になるように思います。
 つまり人間の常識に照らせば、「まさか?!」と思われるような、意外性を含んだ「驚くべき良い知らせ」ということなのです。
 あなたにとって最大の「良い知らせ」とは何でしょうか。受験に合格することですか?好きな仕事で成功することですか?あるいは病気が治ることですか?・・・・皆それぞれに深刻な問題ですね。
 新約聖書のメッセージはすべて、わたしたちの日々の問題、苦しみに率直に応えようとしています。それだからこそ、次のようにいうのです。

  思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけてい てくださるからです。(ペトロ一 5.7)

 なぜこんな楽観的なことがいえるのでしょうか。手放しで人生を神に委ねるなどということがどうしてできるのでしょうか。
 自分のことはすべて自分の力でなんとかしなければならない、と親にあるいは学校でも教えられ、そう思い込んできたわたしたちは、こうした聖書の大胆な言葉を耳にすると、思わずたじろいでしまいます。
 しかしそういうわたしたちにこそ、新約聖書は「驚くべき福音」を宣言するのです。
 すなわち、わたしたちの悪いこと、罪や病、苦しみのために、イエスが身代わりとなってこれらを背負い、復活によってそれらを克服し、さらに死をも克服されたこと、そのことによってわたしたちがキリストにある新しい命を生きることができるように、神によって保証されていること――
 一言で要約すればこれが「福音」であり、新約聖書全体を貫くキリスト教的人生観です。しかもこの「福音」をわたしたちが受けるために何らの条件も道徳的努力も必要とされないのです。
 実に、多くの人がそう思うとおり、信じられないほど「驚くべき福音」なのです。

[4-103] 偶然の契機

  さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たち がイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯した からですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人 が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるため である。・・・・」(ヨハネ9)

 『ヨハネによる福音書』九章は、一人の盲人を主人公に、真に∧見える∨ことと∧見えない∨ことの意味が問題にされます。
 しかしここでは、よく語られるそうした主題とはちょっとちがう点に注目してみたいと思います。
 それは、この章の導入として何気なく書かれている、イエスが「通りすがりに」この盲人を「見かけられた」ということです。
 この人は、イエスの業によって、のちに目が見えるようになるわけですが、しかしそれは、イエスがたまたまそこを「通りすがりに」「見かけられた」ことを契機としているのです。
 福音書には他にも盲人がいやされる話があります。
 ∧二人の盲人をいやす∨話(マタイ9.27以下)や∧盲人バルティマイをいやす∨話(マルコ10.46以下)などです。
 しかしこのどちらの場合も、「わたし(たち)を憐れんでください。」と盲人自らがイエスにいやしを願っています。
 ところが『ヨハネによる福音書』のこの章に出てくる盲人は、自分からイエスに一言も願ってはいないのです。にもかかわらず、いやされる――
 気をつけて聖書を読んでみると、この「通りすがりに」と同じようなニュアンスで、あたかも偶然に人々がイエスに出くわすような場面があちこちにあります。
 たとえば、『マルコによる福音書』で∧四人の漁師を弟子にする∨場面は、次のように記されています。

  イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデ レが湖で網を打っているのを御覧になった。・・・・イエスは、「わたしについて来なさい ・・・・」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。また、少し進んで、・・・・ヤコブと その兄弟ヨハネ・・・・を御覧になると、すぐ彼らをお呼びになった。この二人も・・・・イエ スの後について行った。(1.16~20)

 イエスは、だれかいい弟子になる者がいないかどうか、スカウトするためにガリラヤ湖のほとりを物色していたわけではないでしょう。声をかけられた四人も仕事の最中で、さぞかしびっくりしたのではないでしょうか。自分たちがなぜ?と疑問に思ったかもしれません。
 しかし実際わたしたちの経験を振り返ってみても、人生の岐路を分かつ重大事というもものは案外、たまたまという形で決定していることが多いのではないでしょうか。
 とすればわたしたちとしては、そうした〝摂理〟とでもいえるような偶然のチャンスをどう生かすか、それが大切なのだと思います。

  だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の 体のことで何を着ようかと思い悩むな。・・・・あなたがたの天の父は、これらのものがみ なあなたがたに必要なことはご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさ い。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い 悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。 (マタイ6.25ab,32b~34)

[4-104] 意味的存在

 現代は、価値観多様化の時代だといわれます。
 多様化が尊重されるためには、個性のぶつかり合いや自由でフェアな議論が行われるということが必要条件となるでしょう。
 しかし、情報社会化の進展するなかで、匿名・無差別のさまざまな犯罪を見聞きするにつけ、そうした条件整備ができるのはいつのことかと、暗澹たる気持ちにもなります。
 あるいはこの時代は、多様化などではなく、どんな価値観も持てなくなっている、あるいは価値観を問題にすること自体を問題にしなくなってしまった、無価値観化の時代なのではないかとさえ思うことがあります。
 こうした思想性の欠如は、個人と社会の相互作用によって増幅し、個人レベルでいえば、人生の目的に明確に答えてはくれない社会に苛立ちをおぼえているようです。
 いわゆるオウム事件からは、そうした苛立ちから早急に逃れようともがいている若者の苦しむ声が伝わってきます。
 何より、人間とは意味を求めて止まない存在である、ということを再認識すべき時代ではないでしょうか。

[4-105] 生き方の転換

 「精神」と「物質」という二分法で、戦後の日本社会は精神的豊かさよりも物質的繁栄ばかりを重視してきたのだ、という言い方はまちがっていると思います。
 精神と物質(あるいは身体)はけっして二律背反の関係にはないと思うからです。相互に依存し合っているはずです。
 むしろ戦後の問題は、思想性よりも効率性を重視してきたことにある、と言い換えたほうが当を得ているように思います。
 つまり、∧考える過程∨よりも∧結論∨を急ぐことを、「在ること」よりも「持つこと」を重視してきたともいえるでしょう。
 その結果としての行きづまりをどう克服できるか、現代のわたしたち一人ひとりの生き方に課せられた根本問題であるように思います。

[4-106] 証しすべきもの

 自分の生き方に自信のない人が、強く生きるためにある宗教に入信し、その結果、自信を持って生きられるようになった。これはよくあることですし、そのこと自体何ら非難すべきものではありません。
 ただ、当の本人から、「自分はこうして強くなりました。」という〝証し〟を聞かされると、どこかやりきれず、うんざりしてしまうことがしばしばあるのはどうしてなのでしょうか。
 神が、信仰する者を慰め、その生き方をありのまま(全)肯定してくれる、そうした包容力が普遍性のある宗教には必ず備わっているものです。
 しかし落ち着いて吟味しなければならないのは、こうしてありのままに肯定された自分(信仰者)の生き方とはどんなものなのだろうか、ということです。
 人が神を信仰しようするときは、どこか自分のなかに弱さや欠点、あるいは生き方の歪みやエゴイズムを感じているときではないでしょうか。(この点で、よく宗教を批判するために使われる「宗教は弱者のもの」という言い方は当を得ています。)
 ですからひとたび肯定されたのは、弱さや欠点、歪みやエゴイズムを抱えたままの自分であり、それにもとづいた生き方である、ということを忘れてはならないのです。
 しかし、それらは本来否定、ないしは矯正されなければならないものであったのではないですか。にもかかわらず、ありがたくも全肯定されたということなのです(まさに有ることが難いのです)。
 そのようにして有り難く肯定された自分が、もとのままの弱さやエゴイズムを引きずった自分を前面に出し、自慢げに「私はこうして強くなったのだ」と自己主張することは滑稽であり、それを聞く者は直感的に偽善を臭ぎ取ってしまうのです。
 これでは信仰者が神をいわば利用し、自分のエゴイズムの〝証し〝をしているにすぎないということになります。
 証しされなければならないのは、自分のエゴイズムではなく、それをどうしようもないものと思っていた自分がはからずも神に受け入れられた、という∧有り難さ∨なのです。
  そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派 な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。(マタイ5.16)

[4-107] 無駄

 今まで絶滅させるべきと考えられていたある種の寄生虫が、実は人間生活にとって別の有益な働きをしていた、とう話を聞きました。
 また、病や苦しみはそれ自体では虚しいものです。しかしときにそれらは、人間が神に向かっていくためのエネルギーを引き出す道具ともなります。
 こう考えていくと、この世で無駄なものは一つもないのではないかと思えてきます。
 一見、不合理で意味のないものと思えるような日常のさまざまな物事に出会うとき、自分のマイナス面を嘆くのではなく、それらを有益に働かせる工夫の仕方を考える、それぞれの人生に与えられている共通の課題があるとすれば、そういうものなのではないでしょうか。

[4-108] 共労者

 自分の知力や体力・・・・能力の限界のようなものが見えてくる時期があります。(その上、治らない病気やさまざまな苦しみを抱えていることもあります。)
 そんなとき、自分の人生はこんなものかな、と淋しい気持ちになることもあります。
 しかしふと、こうした自分に与えられた素材をどう工夫し、生かせば神様の共労者・よきパートナーになれるかな?とふと考えてみます。
 もしかすると、神様は御自分といっしょに喜んで働いてくれる世界の協働者を求めているのではないでしょうか。
 こう考えてみると苦しみは苦しみとして、楽しい気持ちになります。

  神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるよ うに、共に働くということを、わたしたちは知っています。(ローマ8.28)

[4-109] 虚無と満足

 虚無の中で虚無について考えているとき、その人は虚無から免れています。しかし、満足の中で満足について考える人はいません。

[4-110] 努力と報い

 労働と所得の関係が、一たす一が二、それに一をたして三、というように、働いた分だけ確実に所得が増加すると考えてみます。するとどういうことが予想されるでしょう。
 まず、だれもがやる気を出して、物事にがむしゃらに取り組むようになるかもしれません。現代の理想とする無駄のない社会、努力が報われる社会が現出するのです。
 しかしそういう社会がずっと続くことを考えてみましょう。
 人々は、働いただけ富を確実に取得できるわけですから、他人が稼いでいる間に休んだり遊んだりしていれば、それだけ富のチャンスをこれまた確実に逃すことになります。
 ということは働いて稼いでいる人を尻目に見ながら、休んだり遊んだりする、つまり富の増大をみすみす逃す勇気を持たなければ、落ち着いていられなくなるのではないでしょうか。
 そうした社会では、自分のライフ・スタイルによほどポリシーを持っていない限り、稼ぎまくったあげくに過労死・・・・ということになるかもしれません。
 こうして推し量ってみると、この世の中、努力と報いが必ずしも比例しない(ときには反比例とも思えるようなこともある)という現実は、たしかに不平等ではありますが、そのあいまいさによって、人間が富や権力の欲望、あるいは他人に対する嫉妬に振り回されないで保護されているというふうにも受け取れるのです。

[4-111] 短詩

  いのち
夜店で買った金魚
日陰に咲く花
みんな黙々と今日の
いのちを生きています

  不定愁訴
神は人生について
よく考えなさい
と言っているようです               


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