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神学エッセイ2-19元原稿-本に未収録作品を含む  

 心の貧しさ
                                    [4-86]
  朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物の  ために働きなさい。(ヨハネ6.27)

 一方に発展途上国での飢餓や貧困を尻目に見ながら、史上類まれな高度経済成長を達成してきた現代の日本社会は、いま工業化社会から情報化社会への移行期にあって、様々な問題に直面しています。
 戦前の国家第一主義が否定され、それにかわって戦後、日本人の共通の価値観となったものは、経済第一主義でした。企業社会はもちろんのこと、政治の上でも、教育の上でも「物質的向上」「経済優先」ということが暗黙の共通理念として、日本人を支配してきたのです。いわば〝朽ちる食べ物〟を確保することを最優先してきたわけです。戦中・戦後の食糧難を考えれば、それは当然のことだったのかもしれません。しかし、そうした経済偏重の社会構造の歪みが、現在様々な形で噴出していることも確かです。
 ではそうした過程で、「心」の方はまったく問題にされなかったのか、というとそうではありません。どの時期においても、「豊かな心を育てよう」とか「精神こそが大切だ」といったようなことは、いつも叫ばれてきたのです。にもかかわらず、心よりモノが優先された、ということでしょう。
 なぜ、「にもかかわらず――」なのか。たとえば教育ということを考えた場合、はたして、豊かな心・豊かな精神を育てる、ということと、物質的向上ということとは、両立し得ないのでしょうか。わたしたちは豊かな心を育てるためには、本や教材、学校をはじめとして、様々なモノが必要だと考えます。そのために金が必要です。家庭でも政府でも稼いだ金を教育費として注ぎ込んできました。それでどうなったか。進学率は上がりました。ほとんどの生徒が高校まで進めるようになりました。
 しかし振り返って、戦前の人たちと比較して経済的に豊かになった戦後のわたしたちが、より豊かな心を持っているかと問えば、とてもそういうことは言えない。もし、物質的に豊かになるほど心が貧しくなるとしたら・・・・。
 戦後五十年、ここへ来てやっとわたしたちは〝いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働〟くとはどういうことなのか、やっと考える端緒についたばかりなのかもしれません。

 そのとき必要なものは
                                    [4-87]
こうすれば、と思って頑張ったのに、
何ともならないときがある。
今度こそはと気張っても、
どうにもならないときがある。

水が高い所から低い所へ流れるように、
ぼくたちの心はいつも 最初の気高さを失い、
時間を滑り落ちて、
あの赤錆びた鉄の眠る
底無しの湖に淀んでいく。

何がまちがっていたのだろうか。
どこで狂ってしまったのだろうか。
「ソンナオマエヲユルス!」という声が
どこからか聞こえてこないだろうか。

 限界というものがだれにでもあって、そのなかで「いかに生きるか」が問われているのだと思います。〝人間〟というものの能力がどこまであるのかはわかりませんが、現実のの具体的な人間、わたしたち一人ひとりを考えてみれば、それぞれに限界を感じて生きています。

 ・・・・わたしには重すぎます。どうしてもこのようになさりたいなら、どうかむしろ、殺 してください。あなたの恵みを得ているのであれば、どうかわたしを苦しみに遭わせな いでください。(民数記11.14b,15)

 どうしても乗り越えられないと感じられる限界のなかで、つい愚痴や弱音を吐き、ひとに八つ当りします。そんなとき、最も必要としていることはどんなことなのでしょうか。「もっとがんばれ!」という叱咤激励ですか? それとも・・・・。

 未曽有の問題
                                    [4-88]
 高度成長が終焉し、バブルが崩壊して低成長時代に入ったわたしたちは、日本人として未曽有の〝問題〟を突きつけられているように思います。
 第一に、高度成長によってもたらされた経済的な豊かさと、公害に代表される〝つけ〟を同時に享受しながら、わたしたちはいったい何のためにがむしゃらに働いてきたのか、否もっと根本的に、〝働く〟ということの意味そのものを問いはじめています。
 たとえば、高度成長期までは〝脱サラ〟と言えば、企業に勤めていたサラリーマンが、人に使われることを嫌って自分で商売をはじめる、独立自営ということを意味していました。
 ところが今の〝脱サラ〟は必ずしもそういうことを意味しない。もともと専門職にあった人や企業のトップクラスの人たちが、まったく関連性のない福祉や農業といった分野に入っていったり、最近はお坊さんになりたいという人も多いと聞きます。
 こうした現象を見ると、現代の〝脱サラ〟は地位や収入、企業組織等に対する不満というよりも、経済性を最優先してきた戦後日本社会そのものに対する疑問、あるいは〝働く〟ということそのものの意味を問い直している現代日本人の姿が浮かび上がってくるのです。日本人全体の傾向として、こうした根本的な問題を問うということは、少なくとも明治以降ありえなかったのではないでしょうか。
 第二に、こうして大人たちが〝働く〟ということを中心として自分の、人間としての生き方の根本を問いはじめると同時に、これまた日本社会がはじめて直面するような〝事件〟が次々と発生しています。
 その最大の象徴は〝オウム〟と〝神戸小学生殺害〟事件でしょう。現在、くわしい調査や裁判が行われている最中ですから、軽々にその根本原因を云々することは差し控えたいと思いますが、少なくともこれら事件の背景には、〝この世に授かった命を軽視する〟という風潮があるのはまちがいないと思うのです。〝いじめ〟問題然り、〝覚醒剤〟然り。 自他を問わず「この世の命を軽視する」ようになったのは、けっきょく現代が生きることの充実感を与えていない、現代のわたしたちが生きる意味を失っている、ということなのです。
 働く意味が問われ、生きる意味が根本的に問われている。そういう意味でわたしたちはいままでにない難問にぶち当たっている、と言っていいでしょう。

 理性と教義
                                    [4-89]
 非の打ち所のない∧理論∨は、それ自体は美しいものです。しかしどこか冷たい感じがつきまといます。一種のまやかしを感じる、と言った方が妥当かもしれません。
 そうした理論を聞いて(あるいは本で読んで)いる間は、たびたびうなずき、納得し、しかるべき所に物事がしっかりおさまった快感をすら抱くことさえあるのですが、聞き(読み)終わって、さて、では今からさっそくこのすばらしい理論を生活に生かそう、と思った途端、心に何も残っていないという虚しさを感じることが多いのです。
 高尚な哲学の持ち主が具体的な生活の場面では、その理論からすれば、たいへん低位の欲求不満に翻弄され、しばしば惨めな精神状態から抜け出せないでもがいていることをわたしたちは知っています。〝○○哲学の大家〟と言われる哲学者が、はたから見れば一笑に伏してしまうような身体のちょっとした不調に、右往左往するといった光景は、けっしてめずらしいことではないのです。
 このことから、人間の頭で考えた理屈が純化し、精緻化していくほど、現実的な人間性を寄せつけなくする、というある種の傾向があることがわかります。いわば、整然とした哲学理論の縦横の定型の網の目に引っ掛からない、人間性現実のあいまいさ――不定型が本来的に存在する、ということがわかります。
 こうした意味でその対極にあると思われものが、宗教(とくに伝統的な宗教)の∧教義∨(教条〓ドグマ)というものです。それは、頭で考えた理屈や理論をある地点で手放し、飛翔しようとするからです。ですから、それは当然あちこちに人間理性にとっては許しがたい、矛盾した概念や表現を持つことになります。

  天地の創造主、全能の神である父を信じます。・・・・(キリスト教の『信仰宣言』)

 なぜ、「神」が「天地の創造主」なのか?また「全能」なのか?「父」なのか?そもそも「神」とは?「信じる」とは?・・・・こうして理性は激しく応戦してきます。しかし宗教は、完璧な体系化・理論化を最後の所で拒否します。その本質が、理性の硬い網の目にはかからない、ソフトな人間性を担当するものだからです。
 いわゆる教条主義は問題ですが、わたしたちが生きる具体的な現実のなかで教条そのものをさめた目で味わうとき、おそらくはある種の∧詩∨のように、その行間の粗い網の目に、わたしたちにとって多くの有効な助言やヒント、インスピレーションを与えてくれるものがあるように思います。

 復活と些事
                                    [4-90]
 わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、 主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄になら ないことを、あなたがたは知っているはずです。(Ⅰコリント15.58)

 パウロはコリントの教会にあてた手紙のなかで、死者の復活を疑う人たちに対して、復活が確実であることについて弁証します。その後に、「こういうわけ」だからしっかり生活しなさい・・・・とこの章を締めくくるわけです。
 しかし、この結び方にはどこか唐突な感じがつきまといます。なぜでしょうか。パウロの復活論が説得力に欠けるからでしょうか。いな、彼の復活論は十分説得力のあるものです。ではどうしてわたしたちは、戸惑いを持つのでしょうか。
 それはこういうことではないでしょうか。読者はこの章のこの最後の言葉まできたとき、復活の有無をめぐって展開されてきた一般論から、読者が置かれた具体的な生活の場に引き戻されます。整えられた理論ではなく、今個々の現実が直面している仕事、家庭、人間関係等々あらゆる日常の些事に対する心構えが改めて問われることになるのです。そこでわれに帰って足元を見る、ということになるのです。パウロの説く復活論の高いテンションに比べて、なんとわたしたちの現実は小さく惨めで、どうでもいいような雑事に追われていることでしょう。ところがわたしたちは、復活という一大事が実は日常の細々とした些事と無関係ではないということをこのくだりで知らされるのです。この落差・・・・それが戸惑いの原因なのではないでしょうか。
 こうした戸惑いを抱きつつも、繰り返しこの「手紙」を読んでいると、パウロは次のように言っているように思えてくるのです。
〝あなたがたが今、個々に、具体的に経験している日常の些事をこそよく見極めなさい。そこには様々な思い煩いや雑音――あなたがたの復活への命を窒息させるようなマイナス面が含まれています。そうしたことに「動かされないようにしっかり立ち」なさい。しかし同時に、どんな小さなことであっても、愛や平和、希望といったプラス面を含んでもいるのです。それを「主の業」と受け取って、それに少しでも貢献できるように、あなたの仕事の仕方を工夫し、才能を発揮できるように「常に励みなさい。」そのようにして「主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならず」復活という一大事につながっていくのですから。〟

 祈りに学ぶ
                                    [4-91]
 現代の日本人の目には、お寺や修道院にこもって祈りの生活を一生続けている僧侶や修道者はどう写っているのでしょうか。修学旅行で生徒たちを引率してそうした僧院を訪ねると、彼らのなかには、「あの人たちは余程不幸な目に遭ったのではないだろうか。」などと余計な心配をする者も出てくる始末です。どう説明したらよいでしょう。
 そもそも、「祈り」が個人的御利益、願望の投影とだけ思い込んでいる人には、彼ら修道者たちの心はわからないでしょう。彼らに会って一度でも話してもらえばわかるはずですが、彼らは社会の動静に大変興味を持っており、よく新聞を読んでいます。けっして自己の安心立命ばかりを願っている「世捨て人」ではないのです。むしろ自分自身の願いなど一番後回しにしている、と言えます。
 東洋と西洋の霊性を統合した祈りの指導者、アントニー・デ・メロ神父も、祈りが「自分一人だけのためではなく、自らその一部をなしている被造物全体の益のためにも行うのだということ。また、自分が経験するどんな変化も、何らかの形で世界の人々のためになっているのだという心構え」が大切であると言っています(『心の泉』)。彼ら修道者たちはど
んなに小さな祈りも、社会や世界全体の役に立っていることをかたく信じているのです。 現代社会は、「権利」や「デモクラシー」あるいは「個性」や「自己実現」などという名のもとに、その実、「おれが、おれが」と自分が目立つことや目先のことばかりに躍起になっているのではないでしょうか。だとすればそれは、自我の拡大以外のものではありません。その裏返しとして、自我拡大欲求が充たされない者たちによる匿名・無差別の殺傷事件が多発しているのです。
 そういうわたしたちも日常を振り返れば、「人のため」と言いつつ気がついてみると、「自分のため」を優先していることが多いのです。その浅ましさ、悲しさに気づくことなく、こうした犯罪が起こるたびに、「人権、人権・・・・」と正義漢ぶるのは滑稽でしかないありません。
 こうして自我を充たすことが当たり前と思われる――「了見」を失った現代社会の真っ只中に、隠れたところで、他者のために祈っている(奉仕している)人たちが現にいるのです。たとえそれが目に見えず、すぐ効果が出ないような小さなことであっても、否それだからこそ、彼らの「祈り」は尊いのです。なぜならそれは、自己顕示と効率性、経済性、形あるモノを貪欲に追い求めてきた近・現代の資本主義社会に対する痛烈な批判となっているからです。そして彼らはけっして悲壮な顔つきをしてはいないということも付け加えておきたいと思います。

[4-92] 一生の意味

「もし、一人の人間によって、少しでも多くの愛と平和、光と真実が世にもたらされたなら、その一生には意味があったのである。」――将来を嘱望されながらも、第二次世界大戦中に処刑された若き哲学者の言葉です。
 わたしはこの言葉のなかでとくに、「少しでも」を強調したいと思います。そのときこの言葉は、すべての人、いな万物に当てはまるように、普遍性を帯びてくるからです。
 たとえば、生まれてすぐ亡くなってしまう子供のことを考えてみてください。彼(彼女)はこの世に何ももたらさなかったのでしょうか? 何も残さず無駄な死であったのでしょうか?
 そうではないと思います。少なくとも、この児が母親の胎に宿ったときの父母の喜び!それはたとえ一瞬であってかもしれませんが、この世に光をもたらしたことになるのではないでしょうか。
 あるいは、極悪人といわれるような人を想像してみてください。そういう人であってもきっと生まれてくるときは皆に祝福されたはずです。
 しかし最近の世相を見るにつけ、この確信は揺らぐかもしれません。せっかく生まれてきてもだれからも喜ばれず、虐待されたり、置き去りにされてしまう子供たち・・・・。
 しかし、万一、その母親にさえ祝福されない子供がいたとしても・・・・

  女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろ  うか。たとえ、女たちが忘れようともわたしがあなたを忘れることは決してない。見  よ、わたしはあなたをわたしの手のひらに刻みつける。(イザヤ49.15~16)

 どんなに惨めな生を得ようとも、「わたしがあなたを忘れることは決してない。」と言ってくださる方がいるということ。このことは、あらゆるもの――日頃わたしたちが憎むべきものとして忌み嫌っている苦しみや病を含めて――すべてに何らかの意味がある、価値がある、という考えにつながっていくのです。
 もしこのことに賛同する読者いるなら、もうおわかりのことと思います。その人はすでに∧信仰∨という領域に足を踏み入れているのです。

  信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。(ヘブル11.1)

 わたしたちの心には多かれ少なかれ、「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認」しようとする意志が本質的に働いているのではないでしょうか。理性では割り切れない、したがって合理的に説明することは困難なものがあることを直感するのです。
 もしそれを非合理であるとして排除するなら、苦しむ人、病む人、見捨てられた子供たちがついぞ救われることはないでしょう。「処刑された若き哲学者」の死も無駄であったことになります。なぜなら、合理主義に立てば、健康でながらえて世に実績をたくさん残した人の方が、苦しみ病み見捨てられて志し半ばで早死にしていく人よりも「その一生には意味があった」という結論を導き出すことになるのですから。

[4-93] マザー・テレサに学ぶ

 先日(1997.9.5)「生きている聖人」といわれたマザー・テレサが亡くなりました。
 しかし一部のマスコミが報道しているように、彼女の仕事を偉大なる慈善事業や社会改革のようにとらえるとすれば、それは彼女にとって本意ではないでしょう。第一、〝事業〟や〝改革〟であるなら、もっと効率のよい方法があったでしょう。
 彼女が何を考えてあのようなことをし続けたのか、『マザー・テレサのことば』(女子パウロ会)から探ってみたいと思います。
 「イエスは、ご自分の民の中にこられたのに、民は彼を受け入れませんでした。それはイエスを傷つけ、今もイエスはずっと痛み続けておられるのです。あの時と同じ飢え、同じ孤独、だれからも受け入れられず、だれからも愛されず、必要とされないという痛みを。そういう状況にある人はだれでも、この孤独において、キリストに似ていると言えましょう。そしてこれこそが、最もつらいこと、ほんとうの飢えなのです」(34~35頁)。
 「キリストは見えませんから、ご自身に愛を表すことはできません。でも、はたの人はいつでも見えます。もしもキリストが見えたなら、して差しあげたいことを、その人たちにするのです」(31頁)。
 マザー・テレサ(とその共労者たち)のなかには〝かわいそうだからしてあげる〟という発想はどこにもないのです。むしろ貧しい人、病んでいる人の世話を〝させてもらっている〟という思いで満たされていると言ってよいでしょう。しかもキリストに向ってするように。
 こうした彼女が残していった遺産からわたしたちは何を学ぶべきでしょうか? わたしたち皆がカルカッタへ行って同じようにすべきだ、などとはもちろん彼女は言わないでしょう。繰り返し彼女は次のように語りました。
 「イエスは、わたしたちのために、苦しみをとおし、十字架にかかって死ぬほどにわたしたちを愛してくださっています。もしわたしたちも互いに愛しあいたいなら、また、このイエスの愛をわたしたちも生きたいと願うなら、まず家庭から始めましょう。家庭を慈しみの場、限りなくゆるしあう場としなければなりません。今日では、だれもかれも非常に多忙になっています。より大きな発展、もっと豊かな富、もっと、もっと、と求めて。子どもたちは両親と過ごす時間がなく、両親はお互いのためにさく時間もありません。世界の平和の崩壊は、このようにして家庭の中から始まるのです。」(15~16頁)
 わたしたちはまず、自分の足元を見ることから始めたいと思います。

  わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことな  のである。(マタイ25.40)

[4-94] 倒錯

 「あの人は信仰を持っている。」とか、「信仰深い人」といえば、何か特定の宗派の教義を信じていることを意味するようですが、「信仰」とはもっと広い意味で、合理主義では割り切れない人間の誠実さのようなものをいうのではないでしょうか。

 ∧信仰∨は、むしろ∧真実・まごころ∨といい換えたい。ほんとうのことをほんとうと 認める心、他者との出会いに開かれている心、まごころということである。
 ∧まごころ∨の第一の意味は、人間は自分の力で自分を生んだのでもなければ、生きて いるのでもない、生まれ、生かされていることに目覚めることである。「生まれた」と いうことば自体、受動態であり、生かされて生きているということがすべての人間の基 本的姿である。そして、第二の意味は、他者もそうであることに気がつくことである。 だから、私も神の子と思い他者も神の子だということがわかるということが、∧まごこ ろ∨であり、そのことがほんとうに心の底からわかることが、∧信仰∨の根底的意味で ある(そういう意味での∧信仰∨は、ほとんど∧悟り∨と同じである)。(岡野守也著『美しき菩薩・イ エス』青土社49頁 傍点筆者)

 岡野氏によれば、「信仰」とは「まごころ」であり、それは「ほんとうのことをほんとうと認める心」、「他者との出会いに開かれている心」、自分が「生かされて生きているということ」に気づき、「他者もそうであることに気がつくこと」、したがって「私も神の子と思い他者も神の子だということが」「ほんとうに心の底からわかること」すなわち「悟りと同じ」であるというのです。
 ここでいう「まごころ」と、わたしたちの現実は相当な距離があるように思います。現代社会が、すべての者(物)は等しく「生かされて生きている」という「人間の基本姿勢」をとりもどすためにはどうしたらいいのでしょうか。
 現実は、わたしたちが合理主義に立って経済性や効率性を追求すればするほど、なぜかエゴイズムが肥大していくという歴史をたどっているように見えます。もしかすると、わたしたちが善であると思い込んで、今まで――近代啓蒙思想時代以来、無条件に、何の疑いもなく追求してきた合理性や経済性・効率性といったものは、必ずしも手放しで喜べるものではなかったのではないでしょうか。現代に生きるわたしたちはある種のジレンマに陥っているのです。そこには「人間の基本姿勢」について、わたしたちに何か重大な〝思い違い〟〝倒錯〟があったのではないでしょうか。
 そこでまず、わたしは次のことを提案したいと思います。わたしたちの現実の中で不条理・不経済・非能率であるとして排除してきたこと――たとえば他者に負けること、貧しいこと、病むこと、苦しむこと等々――こうしたマイナスと思い込んできたものが持っている本質的な意味をもう一度わたしたちは落ち着いて問うてみたいと思うのです。これらは生きることの中でほんとうに不毛の要素、虚無でしかないのだろうか、と。そこに何か現代人が見落としている重大なプラス面はないのだろうか、と。「まごころ」―「生かされて生きる」ことの本質的な要素として受容すべき何か、少なくとも、倒錯状態にあるわたしたちへの警告としての意味がないのだろうか、と。

[4-95] 十字架の福音

 新約聖書は現在の日本語新共同訳で四百六十ページ以上、旧約聖書はその数倍あります。そこには悲喜こもごも人間同士のあるいは人間と神との様々な交流が描かれています。 様々な地域の有名・無名の個性豊かな人物たちが、生きるために、ときにぶつかり合い、ときに協力し合いつくっていく人間交流。そこに涙があり、笑いがあり、嘆きや後悔、裏切り、不倫、愛、嫉妬等々、人間感情のすべてがあります。
 そうしてできた一見まったく別々の物語がどこかで合流し、だんだん太くなり、ついにひとつの流れとなっていくのです。壮大な人間と神とのドラマが繰り広げられています。 現代に生きるわたしたちは、この二千年以上も前の書物からから何を学ぶことができるのでしょうか。
 フランスの哲学者アランは、「知るとは、どんな小さな物事でもいかに全体と結びついているかを理解すること」(幸福論「遠くを見よ」)と言っています。
 また、福音書記者ヨハネは、「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ17.3)と言います。
 聖書の民ヘブライ人にとって、「知る」ということは、すでに「愛する」という意味がこめられていたようです。(三省堂『聖書思想事典』「愛」)
 ギリシア哲学にも「愛知」という言葉があります。
 これらのことを考え合わせると、次のようなことが浮かび上がってきます。
 すなわち、人や物事を理解し、ほんとうに知るためには、その相手や対象を部分部分の寄せ集めとしてではなく、全体として総合的に見る視点を持たなければならないということ。かつその視点にはできるだけ相手を理解しようという「愛」の視点が必要だということです。
 そのようにしてはじめて、一人の人間の持っている歴史や価値――命の尊さを知り、まったく別の人格が集まって形成されている世界というものの方向性をおぼろげにでも知ることができるのではないかと思うのです。
 キリスト者は、この膨大な人類史を〝イエス・キリスト〟という一点に集約して解釈します。それはちょうど、川の流れようにたとえられるでしょう。
 日々の自分の意見や行い――ときにそれは自分の半生や一生をかけてじっくり考えてきたものだ、と主張したいほど大きなものかもしれません――が、たとえ世間に認められなくても、落胆しないでください。
 そのときこそ、それはあなたの背負うべき十字架(の死)であり、それを通してわたしたちがイエスに連なり、のちに復活することを新約聖書のメッセージ(福音)は語っているのですから。

  わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いな  さい。(マルコ8.34b)
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