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神学エッセイ2-18元原稿-本に未収録作品を含む  

 クラス開き間もないときいろいろな場面でよく、「わたしはきみたち(生徒)を信用していない。」と言います。そうすると生徒はキョトンとします。先生は生徒をはなから信用するものなのだ、という非常識の押しつけはいつからまかり通るようになったのでしょうか。どこの世界に今日昨日会った人間を頭から信用する者がいるでしょうか。人を信用するとは、そんな薄っぺらいものではないでしょう。本来それは、相手を疑ったりときにぶつかったり、愛したり憎んだり、信不信の間で揺れ動いた挙げ句やっとのことで互いに勝ち取っていくものなのではないでしょうか。
     *
 生活の有意義感(意味があるという感覚)を養うこと。
 わたしたちの日々の生活は、この世に神からの種子を播くことに意味があります。
 何が「神からの」種子かは簡単に判断できないかもしれませんが、少なくともその種子を「播く」作業は、必ずしもわたしたちが普通考えるような、いわゆる創造的な仕事だけに限定されるのではありません。むしろ一見「創造的」と思える仕事が、実は単にエゴの主張であることの方が多いのです。
     *
 自分がほんとうにしたいこと、やるべきことがはっきりせず、意識と力が分散しているときは、飲み食いをはじめ身のまわりのことにうるさくなります。
     *
 Aさん、人生はセットなんです。成功も失敗も、賞賛も後悔も――全部そろってワン・セット。
 ひとつでも欠けたら、そんなものは、あなたの人生じゃない。
     *
 神に向かって為した仕事であれば、淋しいことはないはずです。世間は結果で判断しますが、神は行いそのものを受容します。
     *
 夜の静寂のなかで――自分のなかにあるものを分析してみましょう。とくに暗い部分――どうしても許せないこと、他人に言えない悪癖、体の不調・病気、老い、無能、報われない努力、自分自身で受け入れられないこと・・・・。それらが積まれて小高い丘となり、その頂に十字架が立っています。そこに磔になっている方は裸で血だらけで苦渋に満ちていますが、しっかり両手を広げ、わたしたちを受け入れ、ついに笑みさえ浮かべて、天を仰いでおられます。
     *
  ∧忘れてならないこと∨
 神は愛であること。
 その愛とは、忍耐強く、情け深く、ねたまず、自慢せず、高ぶらず、礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かず、不義を喜ばず、真実を喜び、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐え、決して滅びず、最も大いなるものである(Ⅰコリント13.4~8,13)こと。
 人間は、そのどの性質に対しても不完全でありながらも、だれでもが少しずつそれらを合わせ持っていること。

 ロマンチシズム
                                  [アフォ4-59]
あなた自身、あるいはあなたの身近に、
心や体に難しい病や障害を背負っている人はいませんか?
それがどんな原因によるものであろうと、
本人や周囲にとってはたいへん辛いものですね。
〝なぜわたしが〟〝なんでよりによってこのわたしが〟という
不条理――孤独感が痛みに拍車をかけ、
たびたび不安に襲われ、無気力に陥り、
ときに運命を呪いたくなることもあるでしょう。

科学や医学がこれほど進歩した現代でも、
病や障害はわたしたちに人間の非力を思い知らせる
最大で、普遍的なものでしょう。
しかしどうして病が、苦しみが人間にこのように与えられるのか、
だれも簡単に答えることはできません。

ただ確かに言えることは――気休めではなく――
人間は幸福のなかに浸っているときよりも、
否応なく不幸や苦しみのなかに置かれたときの方が、
絶対者〓神に目を向けるチャンスが多いということです。
自分の無力を知ったときはじめて
人は神に真剣に向かおうとするのではないでしょうか。

それが「弱さ」と言われようと、「不合理」と思われようと、
神に訴え、叫び、ときに悪態をつくことがあっても
――それでどういう効果があるのか、といった計らいを越えた、
そうせざるをえないからする神への叫び――
そこに生半可な合理主義を越えた人間のすがしさを見てしまうは
単なるロマンチシズムにすぎないのでしょうか。

 復活の証明
                                  [アフォ4-60]
イエスの洗礼のとき、「あなたはわたしの愛する子、
わたしの心に適う者」(マルコ1.11)と声をかけた神は、
彼が十字架の苦しみのなかで「わが神、わが神、
なぜわたしをお見捨てになったのですか」(同15.34)と叫んだとき
何も答えませんでした。
しかしこうして息を引き取ったイエスを見て、
異邦人であるローマの百人隊長は
「本当に、この人は神の子だった」(同15.39)と告白します。
それを証明するごとく、イエスは三日目に復活します。
――神によって復活させられます。
あの十字架の時点で神はほんとうにイエスを見捨てたのか、
イエス自身はほんとうはどう思っていたのか、
後世のわたしたちはさまざまに思い巡らします。
しかし確かなことは、神はあのように叫んだイエスを
そのままに捨て置かなかったという一事です。
〝復活〟――このこともさまざまに解釈されてきました。
「たんなる幻想だ」、なかには
「イエスの熱烈な弟子たちが言い触らしたデマだ」と言う人もいます。
しかしここでも注目すべきことは、
復活そのものがどういう現象であったのか、という
科学的な興味?にもとづく詮索より、
イエスの復活を目のあたりにした――体験した(と言う)弟子たちが、
百八十度、根底から変わった――変えられたという人生論的な一事です。
この変容は、たとえ福音書から使徒言行録にわたるすべての奇跡的な現象
――復活を含め――を削除したとしても否定できないでしょう。
さらに彼らに続くキリスト教――エクレシア二千年の歴史をも振り返るとき、
復活が、幻想やデマによる一時的な熱狂と考えることの方が
不自然と思われてくるのです。

 ~主義について
                                 [4-62 :4-3改]
学校や企業のなかの学歴主義、業績主義、能力主義等々、
われわれは往々にして、こうした〝○○主義〟のとりこになっています。
学歴主義はともかく、業績や能力を個人評価の第一とすることは、
それ自体けっして悪いことではないという意見もあるかもしれません。
しかし何であれ○○主義と言われるものの最大の問題点は、
結果として社会に現れる具体的な不都合より、
その社会内の人間に、この〝○○さえあれば〟人生の幸福のすべてが
保証されるかのごとく思い込ませてしまうところにあるのではないでしょうか。 
なぜいつの時代にも人は、方向を失った矢のように
――新約聖書で〝罪〟と訳されているギリシア語〝ハマルティア〟は
本来、弓矢の競技で〝的をはずす〟といった意味を持っていました
――バランスを失って一つの主義主張を絶対化しようとするのでしょうか。
それは人間のなかに、人生や社会について自分の頭で主体的に考え、
自らの責任において判断することを拒否し
単純化しようとする怠慢と、
生き方や世界観について結論を急ぎたいという
焦りが潜んでいるためではないでしょうか。

  その日                            
                                    [4-64]
  見よ、その日が来ればと
  主なる神は言われる。
  わたしは大地に飢えを送る。
  それはパンに飢えることでもなく
  水に渇くことでもなく
  主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。
  人々は海から海へと巡り
  北から東へとよろめき歩いて
  主の言葉を探し求めるが
  見いだすことはできない。(アモス8.11)

今の時代をどんなふうに見ますか? 
飢餓や災害・病気はたしかに今もなくなる気配はありません。
数年前に開発された技術は今や古くさいものとして廃止され、
次から次へと新たな技術・機械・ソフトに取って替わられていきます。
医療も進歩しましたが、それにともなって
たとえば癌告知、遺伝子診断や治療、臓器移植・脳死論議、クローン研究の是非等々、
少し前までは一部の専門家に任せておけばよしとしていたようなことが、
わたしたちの自身の現実の問題として問われています。
こう見てくると、どうも発展途上国から先進国へ経済発展し、
あるいは科学技術が進むことが
わたしたちの幸福を必ずしも約束するものではないようです。
わたしたちは、それだけでは「主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇き」を
どうすることもできず、「主の言葉を探し求めるが 見いだすことはできない」
〝技術〟や〝進歩〟あるいは〝時代〟といった言葉を
一人ひとりが主体的に吟味すべき「その日」が
すでに来ているように思います。

  神の愛
                                    [4-65]
イエスは公生活のはじめ、ガリラヤのナザレから来て、
ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けました。
そのとき、天から次のような声が聞こえたといいます。

  あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者(マルコ1.11)

注目すべきは、この時点ではイエスは何も奇跡的なわざを行っていなかったし、
病人や罪人に対する愛やあわれみの行いもしていないということです。
つまり、イエスの行った功績が評価されて
天(〓神)に受け入れられ愛されたのではなく、
イエスという存在そのものが無条件に肯定されているのです。

そして、そのイエスは「わたしは世の終わりまで、
いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28.20)と約束しました。
こうしてわたしたちは、神のイエスに対する肯定〓愛(アガペー)と、
イエスのわたしたちに対する肯定〓愛とによって、
神のわたしたちに対する肯定〓愛を知るのです。

 将来への射程
                                    [4-67]
 わたしたちは、ぜひすべきことがわかっているのにそうしないことがよくあります。自分でも怠惰だと思い、ときには親や友人からもそう非難されることがあります。原因はいろいろあるかもしれませんがそのひとつに、無駄な努力はしたくない――努力が無駄になることを恐れている、ということはないでしょうか。結果が出る努力ならするけれども、そうでなければ損をする・・・・。あたりまえと言えばあたりまえですが、ここで問題にしたいのは、そうした心情の根には、行為そのもの――今現在を将来の褒美に目が眩んで楽しめなくなっている、心の貧しさがあるのではないか、ということです。
 今しようとすることが将来どれほど役に立つのか――現在から将来を見据える目は常に大切ですが、その射程距離があまりに近すぎると、〝思わぬ〟損をしかねません。

  神の謙虚さ
                                  [4-68 (4改)]
  神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるよ うに共に働くということを、わたしたちは知っています。(ローマ8.28)

 この節の有力なギリシア語写本には、「働く」の主語が欠落しあいまいなものがあるといいます。そこで一昔前の『口語訳』では、「神は、神を愛する者たち・・・・と共に働いて・・・・」として、主語に「神」を補っています。その他『新改訳』や米国現代訳『Today's
Engli-sh Version』なども「神」あるいは「God」を主語としています。たしかに、キリ スト信仰においては、汎神論的に万事が自動的に益となるように共に働くのではなく、そこに唯一の神の働きが中心、大前提となるのでしょう。作家の曾野綾子氏がどこかで書いていたことを思い出します。「世間には、そのうち何とかなる、と思っている人がいるが、それは何とかなるのではなく、何とかしてくださる方(〓神)がいるのです。」と。
 一方、『文語訳』や冒頭の『新共同訳』はどちらかというと「万事」を主語としているように読めます。
 いずれにしろ、仮に写本作成時の偶然的な手落ちがあって、この部分の主格があいまいになったのだとしても、結果的にそれが、愛の極致である神の絶対的な謙虚さを暗示しているように思えて興味深いのです。

 逆説
                                 [4-69 (5改)]
 古今のいわゆる神秘思想家と言われる人々の発する逆説的なもの言いは、それが善の方向であれ悪の方向であれ、人間のあらゆる可能性の幅を暗示するもののように思えます。
  矯正
                                  [4-70 (6改)]
 傍目には何でもない、もしかすると本人すら気づかない、自律神経のちょっとしたズレでさえ人生を左右するということ。また、そのちょっとしたズレでさえ現代の最先端の医学によっても完全には矯正できないことがありうるということ。
 そうしたことを承知した上でわたしたちは、「復活」や「奇跡」について改めて議論したいと思います。

  神の愛
                                 [4-71 (7改)]
 神の愛し方は部分的ではなく常に全体的です、人間に対しても、自然に対しても。しかしそれはいわゆる全体主義とはちがいます。

  無神論
                                  [4-72 (8改)]
 無神論の根本的な問題は、神の存在の否定にあるのではありません。すべてを、自分が承知している理屈だけで片づけようとする傲慢にあるです。

  囚われ
                                 [4-73 (10改)]
 小さな充実感の積み重ね――日々に一つでも小さな充実感を見つけること、できるだけ健全な。ある老教授は長年の研究と経験から、「人間、何かに囚われていないと生きていけない。」としみじみ言いました。問題は、何に囚われるかということと、その囚われ方にあるのです。

  凡庸
                                  [4-74 (9改)]
 平凡とは、力の分散です。凡人とは、バランスのとれた人格を意味します。彼は社会の健全なる常識を作るべく、使命を背負っているのです。
 もしあなたが各所に力が分散して生れたのなら、無理に一つに集中しようとせず、あなたのバランス感覚を神の賜物として生かす道を考えましょう。神は、あなたが一芸に秀でた人間としてよりも、浅く広い知識と教養・体力を持った常識人として生きることをお望みかもしれないからです。(そして、そういう人は社会の中で多く必要なのです。)
 わたしたちは一人ひとり別の才能を与えられています。わたしたち一人ひとりがキリストの体、肢体なのであって(Ⅰコリント12.12以下)、神がわたしたちの手足なのではありません。 神への従順とは神の手足としての自分を発見する生き方のことです。

  中庸
                                 [4-75 (13改)]
 家計簿と健康メモは細か過ぎても大まか過ぎても役に立ちません。

  人間性
                                 [4-76 (15改)]
 シモンはイエスに召されて、何もかも捨てて「すぐ」従いました(マルコ1.18)。しかしそ のとき、「おまえを人間をとる漁師にしよう」と言われた(1.17)シモンのなかに、まったく野心というものが働かなかったとどうして言えるでしょうか。

 時は満ちた
                                  [4-77 (21改]
 イエスの第一声、「時は満ち、神の国は近づいた・・・・。」(マルコ1.15)
 今日は今日までの時が満ちています。この〝今〟をわれわれは、十分に生きているでしょうか?

  実直
                                 [4-78 (23改)]
 一つの目的にまっしぐらに向かおうとする意志、それはすがしくはありますが、常に他を顧みない危険と背中合わせです。

  頑張る
                                  [4-79 (14改)]
 それは、持続可能な精一杯であること。

  もみじ
                                 [4-80 (16改)]
 秋深まる頃、北向きの日陰にひっそり生えていた楓は、斑に汚らしく、わずかに紅葉しはじめました。
 やがて十二月も中旬になり、ふと気がつくと、短日のわずかの間の西陽を一身に受けて、それは見事な一色の黄葉に染まっていました。

  実行
                                 [4-81 (17改)]
 終日あれこれ思い悩み悶々とするよりも、小三十分の祈りが功を奏することが多々あります。しかしそのことを知っても、わたしたちはなかなかそれを実行しようとはしないものです。

  神の賜物
                                  [4-82 (19改)]
 健康と病気の間。ある種の能力の有無。ある人が容易にできることが自分にはどうしてもできず、またその逆もあります。
 それは神からの賜物の大小ではなく、神が一人ひとりにお与えになり、それぞれが大切に育むように期待されている種が違うのではないでしょうか。でなければ、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28.20)という言葉は嘘になるのではないですか?

 命を憎む
                                    [4-83]
  自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って 永遠の命に至る。(ヨハネ12.25)

 大変厳しい言葉です。しかしもしわたしたちが他を顧みず、「自分の命を愛する」ことだけに徹底していけば、それはエゴイズムです。昨今の日本社会で起こっている悲惨な殺人事件の数々。そこには、「自分の命」や存在を傷つけられることには敏感でも、他者の命や存在には鈍感な現代社会の病理が見えます。ナルシズムに裏づけられたエゴイズムが、いかに人間に根強いものであるかを物語っているように思います。そしてエゴイズムは遅かれ早かれニヒリズムに行き着きます。
 そう考えると、厳し過ぎると思われるこの言葉は、わたしたち人間の根深いエゴイズムを誤魔化さず指摘し、警告を与え、そして癒しをもたらすための願いがこめられているように思うのです。

  仕事
                                    [4-84]
 わたしの俳句の大先輩は、俳句を「仕事」と言います。たとえば何かの会合に出たとき、「今日はこれから〝仕事〟があるのでお先に失礼します。」といった具合です。知り合った頃わたしは、「あれ、この人はもうとっくに退職しているのだから仕事などあるはずはないのに・・・・」といぶかしんだものです。夏休みのある一日、その先輩の家にお邪魔したことがありました。彼はわたしに「遠いところからわざわざ来てくれて、さぞ暑かったでしょう。」と言いながら、おしぼりやらビールやらをしきりにすすめます。そう話している最中も自身は汗だくになって、次号の俳句同人誌のための構成の手を休めようとはしません。もちろん俳句でお金が稼げるわけでもありませんし、なにがしかの名誉のようなものが与えられるわけでもないでしょう。聞くところによると、ときには〝持ち出し〟もあるようです。こうした先輩の〝俳句〟は傍はたからは「単なる趣味じゃないか」「年寄りの生きがいだから・・・・」「道楽にすぎない」等々いろいろ言われるでしょうし、また事実そうなのかもしれませんが、本人は何と思われようとそんなことにはお構いなく、来る日も来る日もこの俳句という〝仕事〟に飽きずに淡々と打ち込んでいるわけです。
 こうした先輩の後ろ姿をずっと見てきてこの頃思うのです。わたしたちが普通〝仕事〟と考えているもの――生計をたてるための、つまり金を稼ぐための〝職業〟――と、この先輩の〝仕事〟と果たしてどちらが本当の仕事といえるのだろうか、と。わたしたちは気の進まない仕事に直面すれば、「これは仕事だから仕方がない」と自分に言い聞かせながらなんとかそれを手早く片付けてしまおうと躍起になります。こうして金や地位は手に入れられても、どこかで大切なものを置き忘れてきたという虚しさが残るのです。人間の本来の仕事とはどんなものだったのでしょうか。「仕事はつらいもの」という観念でしか目の前の仕事を見られなくなったのはいつからなのでしょうか。金にも名誉にもならない〝仕事〟を淡々と続ける偉大なる道楽者、という考えが浮かんできました。

  情報化社会
                                     [4-85] 最近あるアメリカ人の〝コンピータ社会が人類を滅ぼす〟という講演を聞きました。その趣旨は次のようなものでした。〝たとえばインターネットがどんどん世界に普及すると、人類はいつでもどこにいても同じ情報を同じように共有するようになる。そうすると考えることも皆同じようになり・・・・こうして人間はどんどん均質化していく。個性というものもなくなっていく。そうなるとあるとき突然の予期せぬ大問題が起こったとき、それを解決するための対処の仕方も皆同じようになるだろう。つまり一つの問題に対し、すべての人間・国民が一つの方策しか持たなくなる。それが失敗すれば万事休す・・・・これでは人類全体の進歩もなくなり、危機管理もできなくなる。〟というわけです。日本でも最近の社会的犯罪の背景として、情報化社会のつくるバーチャル〓リアリティの問題が指摘され
ています。
 ではわたしたちはどうすればいいのでしょうか。講演者はこう結びます。〝コンピュータやインターネットの普及を否定することはない。しかしせめて一日に何回かはコンピュータのスイッチを完全に切り、一人で自分と向き合う時間を確保すること。そのなかで、ほんとうの自分とは何か、自分がほんとうに求めているもの、目指している生き方とは何なのかを自問すること〟だと言います。これは瞑想とか黙想の一種とも受け取れます。
 この問題提起自体奇抜な感じもしますが、ある種説得力があります。また、最先端技術によって生み出された社会の行き詰まりを解決する手段が、科学と対極にあるような宗教的方法によるという点も、示唆に富んでいます。
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