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俳句と短歌  

森野あかり 様
メール有難うございます。

>ねこちゃんの写真のアップありがとうございました。
マイ ピクチャに入れました。これで今度はいつでも会えます。
何度見ても癒されます。心騒ぐ時これから開いてみることにしました。

ああ、うちのタマが、そういうお役に立てたとは、、、飼い主としては最高の幸せです♪

>私の好きな句に
つつじ燃ゆ子等の手品の次次と   あかり
涼しさは子等呼ぶ君の声の中
すこやかや麦茶沸かすといふことも

みな、すばらしい句ですね。

>全部全部説明したい、背景を言いたい
という欲が私の中に残っています。

短歌は「言い切る」文学とすれば、俳句は「言い残す」あるいは「言い足りない」文学といえましょう。

>その全部を句の中に放り込めたら出来上がりなのでしょうか・・・。

私はそうは思いません。言わないから花なんだと思います。言ってしまったら、ヤボっていう感じかな。

>自立しているのが当たり前でそれが俳句ですね。

そう、言い足りないままに、自立している文学。

>深さがあってもなくても作ればいいのかな。

作っていく内に、深さが出る、ということもありますから。

魚焼くにおいして八百屋の晩夏かな   あかり

これはこのままでも十分俳句です。読む人は様々に解釈するでしょう、とくに「かな」の思い入れを。それをもっと他人に説明したいとなると、短歌のほうがいい。
自分の思い入れは、それとして、あとは読者の自由に任す、それが俳句の宿命です。

私が所属している前衛的な「豈(あに)」という同人誌にはよく見かける感じの句です。
定型感をもちつつ、中句が破調になっています(口語的)。
一般には、読者は、おそらく、野菜を扱う「八百屋」が「魚」を焼いているおかしみを思うかもしれません。

魚(うお)焼くに猫を侍らす八百屋かな   栄一

なんてのは、古典的諧謔で作り直してみました。

子のいない八百屋夫婦で魚焼く

これは、無季ですが。。。。

夕餉の魚焼く八百屋で夫婦に子がいない

これは、自由律で作ってみました。自由律の長律(17音以上)は定型に比べて、短歌に近いと思います。「言い足りない」という欲求不満がある人には向いているかもしれません。
事実、わたしが自由律に復帰したのは、そのあたりの事情があるのです。

PS:このメールは、私もとてもよい勉強になります。たぶん、他の人にもよい勉強になると思いますので、森野さんの許可を得て、ここにアップしました。お礼申し上げます。

森野さんからの返信
祝福のあふれる家やソーダ水    あかり

ありがとうございました。
夏の3句を褒めていただきうれしいです。句が出来た時の物語は自分で持っていていいのですから
その一句だけを差し出すということですね。背景は作り手の心の中に大切にあっていいのですものね。

八百屋さんの句、ありがとうございます。
「お父ちゃん、さがしてたヒモあったさ、箱んところに。」「おぉほうかぁ、よかったな。めっかって。」
またあるときは
「お父ちゃん、また一万円のお客さんさぁ。困るジャンね。」「ほうだか、うちじゃあ困るだにな、肉屋へ先に行って
くれりゃあいいだにな。」
という具合に夫婦でいつも会話してます。俳句的な。

削ってけずってこれ以上出来ないところまで潔く作っていってそうして出来上がったものを俳句だとすると
そのときの自分にできる精一杯のプレゼントと似ていますね。
そのときの全体である自分を差し出すことだとすれば召命と似ていますね。  森野ひかり
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