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諸行無常  

 すべては変化し、留まるところを知らず、やがて過ぎ去ることの慰め(Ⅰ ヨハネ2.17)
――苦しい時の。
 そして愛だけが残るというかがやき(Ⅰコリント13.13)。

   十二弟子

 イエスはこれと思う人々を呼び寄せられた (マルコ3.13)。
 「これと」思われた十二弟子のなかには、いずれイエスを拒むペトロやイエスを裏切るユダがいたことを忘れないように。
 彼らが他の人間と比べて、何か特別に秀でた資質を持っていたから「これと」思われたのではなく、イエスに「これと」思われた時から彼らの人生が特別なものに変わっていったのだ。
 「わたしについて来なさい。」(マルコ1.17)と言われたイエスは同時に、「恐れることは ない。」(ルカ5.10他)とも繰り返された。

   神の子でありかつ人の子であるということ

 イエスは、人間の受けるあらゆる誘惑・試練を四十日にわたって受けられた(マルコ1.13)
。そしてそのすべてに打ち勝った(マタイ4.1~11,ヨハネ16.33)。
 それゆえ、神の子であり人の子であるイエスは、あらゆる苦しみや試練のなかにある人を助けることがおできになる(ヘブル2.18)。

   バトンタッチ

今きみのなかに
叫びたい何かがあるだろうか
たとえばそれが痛みでもいい
不安でもいい
さらに、それを他者に伝える言葉を持っているだろうか
簡潔に 
鋭く 
正確に伝わる言葉を
命の実感――右手の、左足の、爪先の・・・・
きみが今感じていること
考えていることは
親の世代
さらにずっと前の世代からの贈り物
その宝物を
きみはていねいに磨き
味わわさせてもらおう
しかしこの命の実感はまた
次の瞬間に変化し
絶え間なく流れ
やがて衰え
きみも死んでいく
その時
次の世代の人たちに言おう
どうぞこの贈り物を受け取ってください
大事にしてください、と。

   願い

やわらかい土にこぼれた種が
自然に芽を出し、
根をはり、茎をのばし、
太陽をいっぱいに浴びて
葉を茂らし、小さな花を咲かせる

やがて花はしぼみ
枯れ 静かな死が訪れる

人間の一生もこのようであったなら
と願わずにおれない

   小さなキリストになること

これが、あらゆる状況におかれたキリスト者の共通の目的
あるいは生きがい
キリストの十字架のわざが不十分であるというのではない
ましてや第二のキリストになるというのでももちろんない
完全なキリストのわざを受けて
少しずつ少しずつ聖化されていくということ
意識的にというよりはむしろ自然に

   見える人見えない人

 頭の良さ悪さ、健康と病気、健常と障害、生と死は、肉体的にも精神的にも、けっして俊別できるものではないように思います。
 どこまでいっても程度の差でしかないものを、自分が今たまたま置かれている場所から見て、無関係なものとして忌み嫌い、排除しようとする人間の傲慢が、差別や争いや葛藤の種となります。

イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」(ヨハネ9.41)
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