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アンケート 高校生140人に聞きました  

 昨年(一九八九年)、「自由律のひろがり」というテーマのもとに開催された層雲全国大会の席上で、「日頃高校生に接している者の立場から、若い人たちと自由律に関して何か話してもらいたい」との依頼がありました。私のように入門間もなく、基本的な俳句の勉強も足りない者が何か話すことがあるのだろうか、とも思ったのですが、せっかくの機会なので、自分の守備範囲内でできることを、と思い直し、次のような簡単な調査を行ってみました。
 以下、大会でおおまかに発表したものを再考して報告します。

調査のもうひとつの動機 
 この報告をする前に、触れておきたいことがあります。それは、言葉と学力の問題です。現場で教えていて(わたしの場合は社会科)、学力ののびない生徒の最大の原因(家庭や友人関係などの学習環境の問題を除いて)を追求していくと、どうしても「言葉」の問題に突き当たります。とくに基礎・基本といわれる学習のレベルを考えますと、「英語」・「数学」・「理科」なども含めて、すべての教科の基礎に「国語」があるといっても過言ではありません。ここで偏差値や学校間格差の問題を論ずるつもりはありませんが、わたしの勤務校では、教科書を満足に読める(素読できる)生徒は皆無といってよいでしょう。おそらく現在の高校生の三分の一はこのような現状にあると思います。大会での依頼があったとき、わたしが躊躇したのは、このような生徒を前にして、俳句や詩への反応がどれほど得られるのだろうか(もちろん彼らの詩心が低いというのではなく)、という心配もあったからです。にもかかわらず調査を行ったのは、彼らの国語力のレベル(おそらく中学の中学年程度)で「わかる」俳句でなければ、「若い人への広がり」は論じ得ない、この試みが今の俳句の、自由律の「わかりやすさ」を試す小さな試金石になるかもしれないと思ったからです。

生徒への質問
   
   冬陽が斜めに切り取っていく病棟の一日                                                              
   祖父の愛した山高帽そっと秋陽に置く                                                              
   小さな胸痛むことのあり積み木積んでは崩す                                                              
   不治の病人見舞った日の妻強く抱く                                                              
   人気のない時間が夜の深みへ蛇行する街                                                              
   少し疲れた冬夜のワイン赤い影もつ                                                              
   秋陽はや傾く店先に無口な鸚鵡が売られている                                                              
   夏も昼下がりの蝶の死軽々と曳かれていく                                                              
   雨音五線譜にのせ退屈な夜を弾く                                                              
   花時計花盛り緩やかに季が巡る                                                              

問1.右の作品群はあなたが今まで知っている俳句・短歌・詩と比べて、どんなふうに感  じますか、自由に答えてください。
 
 アンケートはある授業を割いて突発的に行いました。とくに「自由律」という言葉は意識して使わずに作品そのものを提示して答えてもらいました。「自由律」の代表としてどんな作品を例にあげようか、山頭火・井泉水・放哉等々たいへん迷ったのですが、結局右のような私の拙い作品(六十三年作)を提示することにしました。自分の作品が現代の自由律の代表だなどといった不遜な考えは毛頭ないのですが、批判的な意見であれ、好意的な意見であれ、出された意見と作者の伝えようとしたものとの間にずれがあった場合、最も容易にそれをはかることができると思われたからです。もちろん生徒には私の作品であることは話さずにアンケートを実施したのですが、提示作品自体に当初から偏りがあったことはお断わりしておかなければなりません。

問1に対する感想
A.
「俳句や短歌に比べて読みにくい」(同意見の回答3 以下同じ) 「(むずかしい)俳句だと思う」(2) 「このような形ははじめて見た。難しいです」「どこで切って読んだらいいか複雑でわかりにくい」(2) 「意味がわかりにくい」(2) 「見慣れてないから読みにくい」「短歌や俳句とは違うので、すごく抵抗があって変だなあと思う」「区切れがないので読みにくい」。

B.
「言葉の数、形式にとらわれずに自由でいいと思う」(2) 「(今まで習ったものと比べて)わかりやすい」(2) 「形が決まっていないので区切るところがどこなのか難しいが、形にとらわれていないので、表現が大きくあらわれている」「五七調とかにとらわれていないから自由な感じがする。詩にしてはずいぶん短いと思う」「五・七・五というかたちではないけれど読みやすい」「形式にとらわれていないので自由な感じがする」「自分の知っている俳句とかは字数が決まっているけど、右の作品のように字数がバラバラなのもいいと思います。かえって字数が決まっていないほうがいい詩ができるのではないかとおもいます。」「今までの俳句と違ってなんとなくなじみやすい形だと思った」「形式にこだわっていない」「現代的な感じ」「この作品は、今まで国語で習った俳句・短歌にはない形なので、なにかかたくるしいものがなく、私としてはこっちの作品の形のほうがいいと思った」「よく読むと詩や短歌以上に意味が出てくる」「今までの俳句と違ってなんとなく身近に感じる」「俳句短歌に比べて、リズムがないような気がしたが、(この形は)本当に訴えたいことが浮き出てくると思う」「俳句短歌のように五・七・五になっていないから軽く流して聞けるような気がする」「字数にこだわらず、好きなことを書けるのでいいと思う」「思ったことをそのまま書いていると思う」「昔の短歌・俳句は風流なものが多かったが、これらの作品は日常の出来事をうたい、俵万智っぽい感じ」「今まで知っている俳句などは昔っぽいものが多いけど、(この作品は)現代風で意味がわかりやすい」。

C.
「詩だと思う、字あまりのものが多い気がするから」(2) 「詩だと思う、五七五になっていないから」(2) 「今までの勉強を通して詩だと思う。季語も五七調もないから」(2) 「形式が決まっていない」「詩である」「短歌だと思う」「俳句・短歌のように形式に縛られていないから詩だと思う」「字数だけでなく、情景とか感じが詩のような気がする」「今まで教わったものとだいぶ違っていてよくわからない」「(定型)俳句ばかり勉強してきたので、変な感じがする」「ほとんど俳句や短歌に似ていると思う。」「俳句という感じがしない。今まで見たこともない書きかただとおもう。」

感想について
 句のかたちと内容を切り離して考えることはナンセンスだという批判もあるでしょうが、ここではまず句の「かたち」に重きを置いて問1の感想を、自由律(この言葉自体を彼らは知らない)に対して「批判的」と思われる意見Aと「好意的」と思われる意見B、どちらとも判断しかねる意見Cにかりに分類してみました。もちろん、見ていただけばおわかりのように、この分類は私の独断によるところであり、とりようによってはAにもBにも移行できるものも多いと思います。しかし俳句や文芸にとくに関心を示さず、自由律にはじめて接する、いわば現代の平均的な高校生がどんな感想をもつかは、おおよそ伝わってくるかと思います。 
 本校の国語の授業では自由律俳句についてはほとんど触れていないようで(他校でも同じような状況と思われる)、国語の教員でさえ井泉水や放哉を知らない者もいます。まして生徒は(アンケート後に説明を受けて)はじめて知ったという者ばかりでした。しかしご覧のとおり、全体に「自由律」に好感を持つ意見は少なくなく、批判的と受け取れる意見のほとんどは「難しい」「区切れがわからない」「読みずらい」といった批判でした。前述「もうひとつの動機」で触れたように、内容を含めた「わかりやすさ」は「若い層への自由律の広まり」にとっては重大なポイントと考えられます。これらの批判は、読み手の読解力・感性の養成とともに、作者が自己作品の独善性に気がつき、改善していかなければならないものと思われます。とくに「難しい」という点では、現代の定型俳句にも同じ事がいえます。
 詩や俳句はまず彼らが関心を示す現代的な内容・感覚をもりこめるものでなくてはなりません。ここにいう彼らの現代的な感覚というのは、ただ「軽い」というだけでも面白おかしいということでもありません。現代青年の興味をそのような方向だけに断定するのはたいへん危険です。感覚世代で育った彼らは大人が考える以上に複雑な心理をもっています。漫画を読んで笑いながらも、虚無や不安に怯え、自分の生き方を模索しています。しかし友達同士のおしゃべりやクラスの話し合いの場ではそうした問題はタブー視されがちです。真面目に人生を考えていながら真面目な話ができないところに、(それが原因だとは彼ら自身気づいていないかもしれませんが)彼らの苦しさがありますその微妙な感覚・葛藤を読み込めるものが必要なのだと思います。詩や俳句の「かたち」もこうした青年の「訴え」に共鳴するものでなければならないでしよう。そうした葛藤をぶつける場のひとつとして「自由律」は十分な受け皿になる可能性を秘めていることが、アンケートの好意的な感想から窺えます。

生徒の作品から
 次に、問2として自由に作品をつくってもらいました。

問2.自分の好きな形で作品をつくってください。(希望者のみ)
 
 この結果を、口語・文語、定型・非定型、有季・無季という言葉で(私なりに)分類してみました。

 口語非定型俳句  57  口語定型短歌  29 
 口語無季定型俳句 26  口語有季定型俳句10   
文語有季定型俳句 3  文語定型短歌   2   
文語無季非定型俳句 2

 まず気づくことは彼らの作品は口語がほとんど(全体の九十五パーセント)であるということです。問1で私の作品を見たから、というのが直接の原因でしょうが、俵万智によって顕在化した口語短歌ブームの影響なども考えられます。現に彼女の歌集を読んだという生徒はかなりいます。さらに口語のうち非定型に分類されるものの占める割合は約四十七パーセント、半分近くということになります。「自由につくれ」とだけ指示したのですが、生徒の拙い作品を読み返すと、こうした自由な「かたち」・・・それは今まで教育現場では「俳句ではない」「短歌ではない」といわれたかもしれない・・・でつくることに一種の解放感・安堵感を見出だしているように思えるのです。
 一方で、どちらかというと定型(全体の五十四パーセント)をかなり意識した定型字あまりといった作品が多いのも特徴でした。口語でつくりたいという欲求をもちながらも、なんとか「俳句らしい」型(∥五七五)におさめたいという生徒の葛藤が窺えます。(これは私の推測ですが、もし時間を掛けて推敲させればおそらく、より文語・定型句が多くなっていったのではないでしょうか)。興味深いのは、いわゆる優等生タイプの子ほど定型や文語の作品が多かったということです。このような傾向も教育現場のなかで俳句や短歌は文語・定型と決め付けて教えていることの反映でしょう。

 専門的な俳論の外にある彼らが今後、もし「自由律」に良さを見いだしていくとすれば、文字どうり「自由に」作れるふところの広さ、だれからも「こんなものは俳句ではない」と批判されない、という点にまずあるのではないでしょうか。井泉水は「一人一境」を唱えました。自由律にもし、若い人たちが惹かれるとすれば、それは句の「かたち」をも含めた一人一人の個性を尊重する「ふところの広さ」にあると思うのです。
 伝統を顧みながら、現代の(様々なレベルを含めた)様々な感覚を暖かく受け入れていく、それは容易なことではありません。価値観の多様化と心の貧困が叫ばれる中でじわりじわりと広がっている画一的教育・・・。そのような危険の中にあって詩は、俳句は、自由律は何ができるのでしょうか。(大袈裟に思われるかもしれませんが、教員の端くれである者は、どうしてもこのようなことに思いを馳せてしまいます)。
 こうした問いから若い層への自由律の広がりを考えるとき、ひとたび自由律に興味をもった人たちとどのように接し、どう導いていくか、句会をはじめ、さまざまな活動をもう一度考え直す必要があるかと思います。
 以上、初学故の独断の多々あったことをお詫びし、最後に、生徒の作品(この調査以前のものを含む)をいくつかあげさせていただき、拙文を終りにします。

  髪を洗うたび夏が近づきます
  必要のない手首のボタン一日が長すぎる
  風のやさしいメロディーに頭の中が真っ白くなる
  私は自由が大好きな素敵な生き物
  久しぶりの親父の背中が小さくなってた
  わたしがついた嘘なんてどうでもいいよというような海
  見覚えのあるコート小さな駅で胸がふるえた
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