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新刊書に見る俳文学状況  

▽雄山閣出版は、テーマ別の『シリーズ俳句世界』№3で「無季俳句」を特集した。その中で酒井弘司氏による「無季俳句一〇〇選」のうち明治・大正期では、自由律作品が多い。

  草に寝れば空流る雲の音聞ゆ           芹田 鳳車
  ビイドロのうす明りして祖母のかんざし      内島 北朗
  御僧芋をふとらせ給ふ              伊藤 雪男

 総合誌に山頭火・放哉以外の自由律俳句がこれだけ一挙に掲載されることは近年にない現象である。
▽金子兜太・黒田杏子・夏石番矢編『現代歳時記』(97.2成星出版)は、新暦採用、季語の月別分類をしてこれまでにない思い切った編集となっている。しかし何と言っても最大の特色は、夏石氏が「いま金子兜太さんと黒田杏子さんと私の三人で歳時記を編纂しています。そこには雑、つまり超季の部分もありまして、四百三十ぐらい雑のキーワードが立っていますが、無季の句がずっとおもしろい。」(『二十一世紀俳句ガイダンス現俳協五十周年記念青年部論作集』掲載の青年部シンポジウム記録)と言っているように、季語によらないキーワード分類による「雑」の充実である。ここにも井泉水・山頭火・放哉・夢道・一石路・顕信をはじめ自由律作品、ないしは破調、定型の溶解した例句が目立つ。

  陰もあらわに病む母見るも別れか         荻原井泉水
  のみこんだ言葉つばで吐きだす          伊藤 完吾
  いっしょに歩けばまがってゆく道         近木圭之介
  朝明ける 甦えらせてくれ背骨を         鴻農 周
  テストまたテスト重ね遺伝子が淡い        浅沼 参三
  冷蔵庫が泣いている四畳半の未亡人        藤田 踏青
  冷蔵庫の中で膝抱えていた紛れもない久魚     青木 久生
  CDからこぼれ落ちた夕餉の笛吹童子       松岡月虹舎
  しっ・・・・庭石が歩いているぞ夜明け        沖 星領
  気流果てマコトニイカンの骨が痛む        黒崎 渓水
  振り回したコトバが食卓を撃つ          小池八巧水
  櫛の固さに蒼ざめた貝の耳            緑川千賀子
  原宿のはしからはしから猫の舌          早瀬 恵子
  いたく妻ら風船飛ばす世紀末           平田 栄一

 金子氏の解説によれば、このキーワード(傍線)は「物象感を軸にした造語群」ということだが、何を一句のキーワード(中心語句)として分類するかが今後、こうした「雑」を充実させた歳時記の課題となるだろう。たとえば掲句中、井泉水の句では物象感の強さから言えば、「病む」より「陰」(性器)、あるいは「母」、「別れ」などに分類されるべきかと思う。
 例句として現代俳句協会青年部員など、現在活躍中の俳人の作品を中心に採っていることもこの歳時記の特色である。

  卍なす大空なれば球遊び             夏石 番矢
  月蝕待つ河へ十指をひらきいて          須藤 徹
  夕間暮れひとに背鰭の生えそうな         鎌倉 佐弓
  マニュアルを開けば五光年の闇          田中 信克
  ゆあーんゆあーんコノ世三時ノ針地獄       大井 恒行
  六斎のてのひらかえしかえし夕景         牧  冬流
  まなうらの風は海より葬の列           荻原久美子
  伏せられしカードそのまま去年今年        伊藤 梢
  過去というときめき真空パックにする       森須 蘭

▽ここで、俳壇の外にも目を向けてみよう。光文社から永六輔選『一言絶句』(97.2)が出版された。マガジンハウスの月刊「鳩よ!」の「創句」欄('88~'93)を再編集したものである。四年前この企画が中止になったとき永氏は、「いずれ今までの作品を一冊にしたい」と希望を述べていたがそれが今実現したことになる。

  母ちゃん家出して帰って来て風呂に入る      豊原 清明
  突然の夕立道路がぐつぐつと煮えている      守谷 茂泰
  病葉風葬                    高橋 一好
  左右空席 夜の逃避行              平田 栄一

 永氏の「口上」には、「創句は自由律でもあるけれど、最初から五・七・五とは無縁であるという意味で自由律ではないともいえます。日本人の大好きな七五調から離れていながら、数万に及ぶ投句があることも刺激されます。ひょっとすると日本人が七五調に頼らなくなりつつあるとすると・・・・これは文芸史上の大事件です。」とある。「鳩よ!」当時この現象をおおかたの「俳人」は無視し、あるいは眉をひそめたものだが、現在、永氏の『大往生』(岩波新書)の知名度も手伝ってか、『一言絶句』は発売一ヵ月足らずで増刷四回に及ぶ。右例句中、豊原氏は当時十四才だったと思うが、のちに詩作で第一回中原中也賞を獲得し、守谷氏は現代俳句の新鋭だか、短歌の方でも賞をとって活躍されていると聞く。「創句」が短詩型ボーダレス時代の人材発掘の一土壌になっている。以下二句は『月刊宝石』四月号の復活「創句欄」に入選した筆者勤務高の生徒の作品である。
 
  硬派だと思っていたらホモだった         原知 恵子
  少年よたいしたことないやんけ          田島 泰江

 こうした作品を、「結社」や「俳壇」という身内でしか通用しない文脈で、「こんなものは俳句じゃない」と一笑するのは簡単である。しかし短詩型を不易と流行という二面から見るとすれば、「流行」におけるポピュラリティ、批評性、あるいは口誦性などいくつかの点でたしかに学ぶべきものがある、という私見は以前(「層雲」'92.5)と変わら ない。事実右二句は光文社の選とは別に行った、クラス生徒全員による互選においても、一、二位の高得点を獲得しており、編集部選と生徒の好みが一致する。永氏は言う、「言葉の持つ 力が失われ、その言葉を理解する力も失わ れているということに、僕は危機感を抱いています。」「今言葉を聴かない時代なんだ。それは両方に責任があって、言葉を発信する方と受信する方の両方に力が欠け落ちてきて、・・・・これは問題だと思った。」('97.2.17朝日新聞夕刊「永六輔の世界1」)「俳壇 」 といえども一般大衆を無視できないも のである限り、「創句」現象は俳壇の外から加勢し、これを変容させる文学状況のひとつとなる可能性があるのではないか。今後の動きがおもしろい。
▽ついでながら、『一言絶句』、「大往生」や以前の「父よ母よ」「息子よ娘よ」、あるいは有名作家の小説やエッセーからのアンソロジーなど、売れ筋の一連の共通項は何かと考えたとき、①短詩・エピグラム・アフォリズム形式であること、また出版形態が②活字の大きめな新書版であること、などが浮かび上がってくる。これらのことから、1現代日本人が低成長・冷戦後の脱イデオロギーの混迷の時代に、何か心の支えになる思想を求めていること、しかしその求め方は、論文調の難しい哲学・思想書を繙くというのではなく、2電車のなかで気軽に読めるような、ポケットサイズ版の本から随意に短い言葉を拾って、そこからインスピレーションを受け、独自の発想を広げようとしている姿勢が読み取れる。高度成長終焉後の「癒しの時代」ならではの現象かと考える。「癒しの本フェア」などというのも本屋の催事コーナーで見かける。前掲『論作集』にも、「二十一世紀の日本語のポエジー」について樋口覚氏の示唆に富む弁がある。曰く、「短さということが大きな問題で、長い散文だけではだめではないか。ボードレールも、最初は『悪の華』みたいな短いものだった。『赤裸の告白』にみられる短いアフォリズムに近代を感じさせるものがある。E・M・シオランは端正なフランス語で、一生、アフォリズムしか書かなかった。二十世紀でこれくらい短さにかけた人はシオランしかいない。パスカルの『パンセ』のような断章。ああいう書き方が、二十一世紀だろう。しかもシオランは現代のほとんどのことを短い断章の中で予言している、云々。」
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