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神を呼び神を疎ましく生きている。  栄一  

 満たされぬ心をほんとうにごまかし切れなくなったのは、大学を出てからです。

 入学当初、大学のサークルで、「おまえたちも留年しないで(つまり四年間で)卒業すれば、どこでも好きな会社に就職できるよ。」と言っていた先輩が、なかなか内定がとれず苦戦しているのをまのあたりにしました。一九七三年秋の第一次オイルショックの影響が、いよいよ就職戦線に波及してきたのです。四年間、音楽と友達づきあいに没頭していた私も当然のことながら不本意入社をまぬがれず、けっきょく二年後に挫折。

 これまでなんとかストレートで来た青年にとっては、一時的にも無職になるというのは、やはりショックでした。受験の頃からこだわっていたあの「何か」を求める気持ちが、無職という不安とともに再燃してきました。次の職のための準備(公務員試験に向けて)をしなければならないにもかかわらず、人生論的な「何か」がひっかかって、勉強が手につきません。はじめは手当たり次第に哲学書をむさぼりましたが、頭には響いてきても心には今一つ響かず、生きる指針にはなりません。

 そうこうしているうちに、大学四年のとき、学生生協でふと手に入れたカール・ヒルティの『幸福論』*を思い出しました。ヒルティの思想はストア主義*とキリスト教という二大柱によって統一されています。ストア主義は処世術としてなるほどと思わせるものがありますが、キリスト教にはどうにもついていけない感じがしました。

ヒルティについては前書のほか、『眠られぬ夜のために』*などいまもときどき読み返すのですが、キリスト 教に対して道徳主義的なイメージが私のなかで形成されたのは、彼に負うところが大きいと思います。しかし一方では、あれこれ読むうちにキリスト教の根本にある楽天的なイメージにもひきつけられていきました。できることならそういう明るい、前向きな生き方をしたい、そう切に願うようになったのです。

 掲句は、前述した放哉や裸木が所属していた『層雲』(明治四十四年創刊)に初出(昭和六十一年八月号)の筆者の句です。一方で自分に欠け(広い意味で「罪」といえるでしょう)ている「何か」を満たしてくれる神にすがりたい気持ちと、他方で私の罪を糾弾しようとする道徳的な神から逃れようとする気持ちとの葛藤がはじまったのです。
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