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過不足なく働き、何か足りない    栄一  

 この一行が意味している虚しさは、まだ社会に出ていない若い方でも、たとえば学校生活のなかで、ふと感じることがあるのではないでしょうか。

 もうずい分前のことですが、受験勉強をしていてよく思ったことは、「こんなことをしていったいなんの役にたつのか?」という疑問、それは焦りにも似た気持ちでした。いまそのときの気持ちを振り返ってみると、「こんなこと」というのは、受験に必要でも将来役に立ちそうもない知識に対する疑問であって、大学に入るための努力ということに関しては、なんの疑問ももっていなかったようです。

こうした過程のなかで自然に培われたものは、現在を将来のための手段にしてしまう生活意識でした。たしかに「われわれは明日をも知れぬ身である・・・」(パウロ)という刹那主義は危険ですが、反対にすべてを将来のために手段化することも虚無主義を生み出します。

 こうして大学に入ってからは、自分が本当に打ち込めるものを求めはじめました。けっきょくある音楽サークルで四年間がんばり、それはそれで得るものが多かったのですが、それでもやはり「何か足りない」とささやく声がつねに私のなかにありました。

 掲句は『鳩よ!』(一九九一年一月号 マガジンハウス)の創句欄に載った句ですが、選者の永六輔(「上を向いて歩こう」や「こんにちは赤ちゃん」の作詞者)氏はこの句に対し、「『何か足りない』というあなたに、『完全という言葉自体が不完全なのだ』とホロビッツが言ってました。」とコメントしています。

 ちなみに「創句」というのは、永氏が名づけたものですが、「季語も字数も無視して『自由律』よりさらに自由」(同号)な句ということのようです。
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