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せきをしてもひとり    尾崎放哉  

 これが「俳句」かどうかを疑う人は、いまはほとんどいません。
つまり「自由律俳句」というれっきとした俳句の一ジャンルに属する句です。
ここではむずかしい俳論をこねまわすつもりはありませんが、もし、「あれ?五・七・五の十七文字になってないじゃないか」という人があったら、ひとむかし前の中学か高校の国語教科書を探してみてください。

ちゃんと一般の定型句(つまり五七五で季語や切れ字がある)とならんで取り上げられているはずです。現在の教科書では削られてしまったようですが、次の改訂の時には再び脚光を浴びそうです。とくにこういう小学校一年生でも読める句は奨励したいですね。

私も最初に読んだときは、「なんだこりゃ?」と思いましたが、一度聞いたら忘れられない句です。こんなに覚えやすい句はなかなかありません。最初に放哉(「ほうさい」と読みます)が作ったとき(原句)は、一部漢字だったようですが、全部ひらがなの方がトツトツとしていて、「せき」をする「ひとり」の孤独感がよく出ていますよね。

たった九音(文字)のこの句を何度もかみしめていると、いろいろなイメージがわいてくるのですが、たとえば、音楽が好きな人だったら、俳句の代名詞のような、

  古池や蛙飛こむ水の音   芭蕉

など、思い出しませんか?状況や句の感じはまったくちがうのですが、このニ句、「せき」と「水の音」の前後にずうっと静寂がありそうな感じがする、という点でたいへん似ていませんか。

未来永劫まで続きそうな限りない静寂のなかで、決定的な「点」としての「時」の響きが感じられます。ちょっとむずかしい感想になってしまいましたが、これが三十代の私の感じ方です。

十代なら十代、二十代なら二十代の感じ方があっていいと思います。私も四十代、五十代となるにつれて、これらの句のもっと深い秘密が見えてくるかも知れません。

俳句とはそういう謎解き、もっといえばクイズのようなものです。それも答えが◯×式でないクイズです。絶対の正解はないけれども、見つけた答えの深さという点では、やはりより妥当なものがあるのだと思います。

よりユニークな発想を競って読むのも面白いことです。そういうときに自分が見落としていた意外な発見があります。

 ついでに放哉について一言すると、掲句をはじめとして、彼にはひらがなの句が多いのですが、実をいうと彼は今の東大、当時の東京帝国大学法科を卒業した超エリートだったのです。

それがいろんな事情で社会的アウトサイダーになり、最後は小豆島に没します。全集や伝記なども出ていますから読んでみてください。放哉のそうした生い立ちを知り、そのうえで最初の句をもう一度味わうと、こんなに短い一行(短律)に、否短いがゆえにじーんとくるものがあることに気づくと思います。

 自由律俳句のなかで、短律のすばらしい句はほかにもたくさんあるのですが、ここでは短律のなかでも最も短い、たったの四音の次の句を上げておきます。
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