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古代の表現--ロゴスを味わう(3)  

 供物を食べるという習慣は日本人にもあるが、生々しい人肉食を連想させるこうしたイエスの語録にもとづく聖体拝領は、成人受洗した日本人のわたしなどには、当初そのたびに一種痛みをともなうものであった。

受肉した神の子イエス―霊なる神キリストという置き換えによってその痛みは和らぐが、反面、信仰のリアリティをそぐ危険性もある。

 日本人とキリスト教の問題は遠藤周作をはじめ多く文学者のなかで取り沙汰されてきたのだが、わたし自身の切実な問題でもある。自由律俳句とかかわり始めたのも、そうした問題意識と無縁ではない。

 『マルコ』は新約聖書に編まれた四つの福音書の中で最古のものであり、他の三福音書程にはイエスが教義化されていない点が最大の魅力である。それだけに誠実な聖書学者に言わせると、最も難解な福音書であるらしい。

しかしこれをイエスに関する歴史小説として読むと、並の小説などでは味わえない人間の複雑な心の動きを垣間見ることができる。口語訳でわずか三十頁。これまた四福音書中最も短く、再読のたびに新しい発見があるのは、俳句集の味わいと共通する。

わたしをキリスト者だと知ると、「文学における真実」を言う人でも、信仰の問題となるといまだに、「じゃあアダムとイヴのことや復活なんて本気で信じてるの?」などと聞いてくることがあるので返答に困ってしまう。

少なくともわたしは逐語霊感説者ではないし・・・・。「アダムとイヴ」の話にしても「復活」や聖書に出てくる数多の奇跡物語にしても、それを史実として検証することは不可能である。

しかし、わたしたちはそうした古代的表現からなんらかのメッセージやインスピレーションを受け取ることはできる。それがリアリティをもって受け取れれば十分ではないのか。
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